「目覚めとは、個人ゴータマのなかに超個人的な法.ブッダが顕現したことであり、躍動していることである。...目覚めそのものは、もはやゴータマの個人を超えて、永遠のものとなり、世界そのものとなり、我々自身の現実の世界のものとなっている」
(玉城康四郎「瞑想と経験」/春秋社刊)
悟りというものについて、どのような心的境地を連想されるでしょうか?
例えば、無所有、自分のもの、所有という感じが全く無くなった境地...あるいは、煩悩はもとより、自分の思いというものが全く無くなった境地(いつも言ってる現臨にある状態というのは、その端緒となるものではあれ、直ちにそんな状態になることとは違いますよ。念のため)などを思い浮かべる人も多いでしょう。
しかし、ブッダは涅槃に入る以前、上記の境地を体得したとされる二人の仙人について、同じように体得したにも関わらず、“それは自分が求めているものではない!“、と、それぞれ立ち去ってしまったのですよ!
悟りと仏教は、すぐ結びつけられるものですが、このことは、如何に悟りというイメージばかりが一人歩きしているか、ということを如実に物語っているようです。
しかし何故、それがブッダが求めていた境地と違っていたのかについては、経典には述べられていないのです。
従って、それは想像する他無いのですが、玉城先生が仄めかしていることに深く共感を覚えずにおれません。
それは、無所有、非想の境地は、いずれも深い心境にあるものとはいえ、いずれも自分の内面の深まりを伝えるものであり、言わば自己の世界内に留まったものではないか?、自己の“思いを超えた境地“ではあっても、それは、“自己を超えた“世界へと導くものではなかった、のではないか?
微妙な言い方の違いですが、これはとても重要なことです。つまり自己世界に留まるものか、自他の世界、ひいては普遍世界へと開かれたものか、ということです。
ブッダの心根には、自分以外の衆生との関係性といったものが見据えられていたのではないでしょうか?
その縁起観というものも、ここから導き出されたのではないか?
しかし、こうしたものがブッダの悟りである、ということはやはり経典に明言されてないので分かりません。
きっと、ブッダ個人の悟りのことなどどうでもいいことなのでしょう?
ここに仄めかされてあるのは、悟りであれ、涅槃であれ、ブッダ個人の力によっては、導かれ得なかったということでしょう。
それはブッダ個人を超えた、法~ダンマによって為さしめられたことの何ものでも無いでしょう。
ブッダの悟りとされているものは、その実ブッダを超えたものであったのです!
それにしても、何故ブッダは成道以前に、そのことを“悟って“いたのか?
サッパリ分からない!...
(玉城康四郎「瞑想と経験」/春秋社刊)
悟りというものについて、どのような心的境地を連想されるでしょうか?
例えば、無所有、自分のもの、所有という感じが全く無くなった境地...あるいは、煩悩はもとより、自分の思いというものが全く無くなった境地(いつも言ってる現臨にある状態というのは、その端緒となるものではあれ、直ちにそんな状態になることとは違いますよ。念のため)などを思い浮かべる人も多いでしょう。
しかし、ブッダは涅槃に入る以前、上記の境地を体得したとされる二人の仙人について、同じように体得したにも関わらず、“それは自分が求めているものではない!“、と、それぞれ立ち去ってしまったのですよ!
悟りと仏教は、すぐ結びつけられるものですが、このことは、如何に悟りというイメージばかりが一人歩きしているか、ということを如実に物語っているようです。
しかし何故、それがブッダが求めていた境地と違っていたのかについては、経典には述べられていないのです。
従って、それは想像する他無いのですが、玉城先生が仄めかしていることに深く共感を覚えずにおれません。
それは、無所有、非想の境地は、いずれも深い心境にあるものとはいえ、いずれも自分の内面の深まりを伝えるものであり、言わば自己の世界内に留まったものではないか?、自己の“思いを超えた境地“ではあっても、それは、“自己を超えた“世界へと導くものではなかった、のではないか?
微妙な言い方の違いですが、これはとても重要なことです。つまり自己世界に留まるものか、自他の世界、ひいては普遍世界へと開かれたものか、ということです。
ブッダの心根には、自分以外の衆生との関係性といったものが見据えられていたのではないでしょうか?
その縁起観というものも、ここから導き出されたのではないか?
しかし、こうしたものがブッダの悟りである、ということはやはり経典に明言されてないので分かりません。
きっと、ブッダ個人の悟りのことなどどうでもいいことなのでしょう?
ここに仄めかされてあるのは、悟りであれ、涅槃であれ、ブッダ個人の力によっては、導かれ得なかったということでしょう。
それはブッダ個人を超えた、法~ダンマによって為さしめられたことの何ものでも無いでしょう。
ブッダの悟りとされているものは、その実ブッダを超えたものであったのです!
それにしても、何故ブッダは成道以前に、そのことを“悟って“いたのか?
サッパリ分からない!...
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