人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思いたっただけで!

2023-05-27 09:18:30 | 祈りと瞑想
「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」(歎異抄)

韓国のことわざに「始まりが半分」というのがあるらしいです。
何かをやろうと思いたった時には、その半分は達成したも同然ということのようです。
親鸞さんに至っては、半分なんてもんじゃなく、念仏を称えようと思いたっただけで、阿弥陀如来の光、恩恵に与ることが出来るのだ、と言っているのです。
これは、五井先生が「世界平和の祈り」を祈ろうと思いたっただけで、“救世の大光明“の光につつまれ、平安に与ることが出来る、と述べられていたことと相通ずるものがあるでしょう。
救世の大光明というのは、何でもそういう救世のために結集された霊団のようなものらしいですが、勿論そういう存在があるのかどうかは分かりません。
あったとしても一宗派のみに働きかけているものではないでしょう?...五井先生も超宗派的なニュアンスで言われていたようです。
私は、その霊団のような存在はともかく、年々そうした見えない世界からの導きというものを感じてなりません。
とにかく、こちら側の意志努力、一日何時間、何年修行するとか、数多く祈るということじゃないのです!
祈らされている、祈ろうと思いたたされているのです!
思いたつだけで、何で平安に導かれるのか?...それが漠然と思い描くようなことじゃなく、意識を向けるということに結びつくのです。
こちら側のやり方でなく、あちら側のハタラキの方に絶大なものがあるということなのです。
このことを鎌倉時代の昔に親鸞さんは、弥陀の本願の教えなどと共に説かれていたのです。どんなに讃えても、言葉に窮してしまいそう!...
いや、言葉を失うしかないだろう!...思いたっただけで、意識を向けただけで、神的な現臨の光に包まれてしまうのだから!...
親鸞さんの言葉も、五井先生の言葉も何十年も前から知っています。
最初は、ああいうのは、忙しくて祈るヒマもないような人や、自分の信心の足りなさを悲観しているような人向きに気休めとして説いていたのだろう、ぐらいに思っていたものです。
しかししかし...これは一体どうしたことか!...そうした猜疑心など粉砕されてしまったではないか!
やっぱり、救世の(これは、わが身独りの救いと同じなんだ!)光のいや増しに強くなるのを覚えずに居れません!...
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