「我は道なり。真理なり、生命なり」(ヨハネ伝第14章)
この句は、クリスチャンならずともよく知られています。
この後、「誰でも我によらなければ、父のみもとに至れない」と続き、クリスチャンは鬼の首を取ったように、"だからイエスを信じなければ救われないのだ"と、都合よく主張する根拠にしていたりします。
"ここに書いてある、イエスはこう言っているではありませんかi"と言わんばかりに... "ふ~ん、だから何だi"
そういうことは、実際に"父のみもとに至って、救われてから"言えばいいのであって、信じこむだけで、そうなったつもりのことをいくら言われてもちっともこちらの魂に響いてきません。
だから、すべてそう信じられている、他人事のような信仰で片付けてしまうキリスト教など私は大キライです。
本当にホントに大切な、欠いてはならないことは、そう信じられている信仰でなく、あなたにとってどうか、ということに尽きるのですi
私は?...クリスチャンになったことも、なろうとしたことも一度もありません。
しかし...「力はキリストより来る。これを忘れるとヨガ、座禅、断食などの方法に迷う」(手島郁郎)
大学時代、「生命之光」誌の特集号を読んで、一寸常識離れしたことが書かれていて、色々複雑な思いが交錯したのですが、手島先生の話には妙に惹かれるものがありました。それからもう少し後に触れた、"私はカソリックでもプロテスタントでも無教会でもない、キリスト直結です"と語る小池先生にも...
以来、ずっと今でもそれらに接するとハートの高鳴りを覚えます。これは理屈ではありません。
私は熱心な聖書の読者でも、キリスト信仰や神学などを学んだことも、そのつもりも無かったのです。何しろ旧教と新教の違いも、"無教会主義"というものも前記本ではじめて知ったくらいです。
勿論、修行などとは縁などありません。キリスト教は他宗教と違って、大方では修行法というものは発達して来ませんでした。その代わりというか、押し付けがましく、観念に流れてしまう信仰や神学、あるいは対外的な慈善活動が発展しました。
私が理屈抜きに惹かれてしまうのは、その先生らの言葉に、それらの余分な介在的要素をあまり感じさせなかったからかもしれません。
とにかく、ジンジンと私の内も、外も臨在してくる感じ...これがそもそものスピリチュアルというものでしょう。
「我は道なり」とは一体どういうことなのでしょうか?
セクト本位の教義、聖書に書かれた言葉を信じる信仰、神学、各種の修行、慈善活動を通らなければならない道でしょうか? キリスト教徒になる道でしょうか?
キリスト.イエスが示したものは、直接的な道、即応した道でしょう。
それは、信仰、神学、修行を通し、介したものでない、自己と神的、霊的事態というものが直につながる道です。
こんなにもシンプルな道というのはありません。
それはどこまでも自己の内奥に開かれなければなりません。直接性とはそういうことです。
あなたという"人の子"によらずして、一体どこに至るというのでしょうか?
欧米を中心に非二元論が台頭してきたのは、キリスト教が二元的様態を強めて、観念の硬化、形骸化を来してしまったからでしょう。
内的生命の事態が失われた時、介在物がはびこるのです。
しかし、本来このキリストの道ほど"ダイレクト.パス"(直接的な道)を示したものは無かったのではないでしょうか?
少なくとも私にはそうでした。
キリスト教は大キライですが、キリストの道には理屈抜きに惹かれるのです。
この句は、クリスチャンならずともよく知られています。
この後、「誰でも我によらなければ、父のみもとに至れない」と続き、クリスチャンは鬼の首を取ったように、"だからイエスを信じなければ救われないのだ"と、都合よく主張する根拠にしていたりします。
"ここに書いてある、イエスはこう言っているではありませんかi"と言わんばかりに... "ふ~ん、だから何だi"
そういうことは、実際に"父のみもとに至って、救われてから"言えばいいのであって、信じこむだけで、そうなったつもりのことをいくら言われてもちっともこちらの魂に響いてきません。
だから、すべてそう信じられている、他人事のような信仰で片付けてしまうキリスト教など私は大キライです。
本当にホントに大切な、欠いてはならないことは、そう信じられている信仰でなく、あなたにとってどうか、ということに尽きるのですi
私は?...クリスチャンになったことも、なろうとしたことも一度もありません。
しかし...「力はキリストより来る。これを忘れるとヨガ、座禅、断食などの方法に迷う」(手島郁郎)
大学時代、「生命之光」誌の特集号を読んで、一寸常識離れしたことが書かれていて、色々複雑な思いが交錯したのですが、手島先生の話には妙に惹かれるものがありました。それからもう少し後に触れた、"私はカソリックでもプロテスタントでも無教会でもない、キリスト直結です"と語る小池先生にも...
以来、ずっと今でもそれらに接するとハートの高鳴りを覚えます。これは理屈ではありません。
私は熱心な聖書の読者でも、キリスト信仰や神学などを学んだことも、そのつもりも無かったのです。何しろ旧教と新教の違いも、"無教会主義"というものも前記本ではじめて知ったくらいです。
勿論、修行などとは縁などありません。キリスト教は他宗教と違って、大方では修行法というものは発達して来ませんでした。その代わりというか、押し付けがましく、観念に流れてしまう信仰や神学、あるいは対外的な慈善活動が発展しました。
私が理屈抜きに惹かれてしまうのは、その先生らの言葉に、それらの余分な介在的要素をあまり感じさせなかったからかもしれません。
とにかく、ジンジンと私の内も、外も臨在してくる感じ...これがそもそものスピリチュアルというものでしょう。
「我は道なり」とは一体どういうことなのでしょうか?
セクト本位の教義、聖書に書かれた言葉を信じる信仰、神学、各種の修行、慈善活動を通らなければならない道でしょうか? キリスト教徒になる道でしょうか?
キリスト.イエスが示したものは、直接的な道、即応した道でしょう。
それは、信仰、神学、修行を通し、介したものでない、自己と神的、霊的事態というものが直につながる道です。
こんなにもシンプルな道というのはありません。
それはどこまでも自己の内奥に開かれなければなりません。直接性とはそういうことです。
あなたという"人の子"によらずして、一体どこに至るというのでしょうか?
欧米を中心に非二元論が台頭してきたのは、キリスト教が二元的様態を強めて、観念の硬化、形骸化を来してしまったからでしょう。
内的生命の事態が失われた時、介在物がはびこるのです。
しかし、本来このキリストの道ほど"ダイレクト.パス"(直接的な道)を示したものは無かったのではないでしょうか?
少なくとも私にはそうでした。
キリスト教は大キライですが、キリストの道には理屈抜きに惹かれるのです。
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