宗教やスピの周囲には、ありとあらゆるトラワレで溢れかえっています。
トラワレから解放したいがために、それらを求めたはずではなかったのではありませんか?
正しい生き方、神サマ、教え、修行法...前世や死後の世界や超能力...
"有るのか、無いのか分からないものにトラワレるのは迷いだ...どこにも常なるものは無い...定まったものなど無い..."と説いたとされるのがゴータマ.ブッダでした。
しかし、仏説として当たり前のように信じられているものに、"執着を捨て、煩悩を断てば涅槃の境地に至れる"というものがあります。
世の中の通念としてでなく、これを自分の問題として思い浮かべてみて下さい。
(ブッダが何を言ったとか、聖典に何が書かれているか、ということで無しに、自分自身のことからでなければ何も始まりません)
このこと自体が大いなるトラワレだとは感じてきませんか?
人間離れした強靭な意志の持ち主でなければ、そういう境地に達することが出来そうにありません。
こうした通念が広まったのは、部派仏教が成立した以降とも言われていますが、おそらくたゆまぬ修行と結び付いたものなのでしょう。
一体、涅槃とは何だろうか? そんなに特殊な境地なんでしょうか?
そこには私というものが無く、全体しか無いのでしょうか? ブッダは何も明言などしてません。
ブッダが言う"無我"というものは、有るとか無いとか決まった我など無い、といったものではないでしょうか?
所謂ブッダの教説というのは、このように定見、定説に行き着かないようなものばかりです。
だから..."これがブッダの真説だ"というものは、ことごとくが"仏説にあらず"ということになりそうです。
世の中に"これが真理"というものなど何も無いi "真の如きもの"があるばかりということではないでしょうか? "真如"。
涅槃には安らぎがあるのだと言う...ああでもない、こーでもない、という諸々の思いから解放されたなら、正しくそれに与れる...かもしれない...
少なくともそれはあなた自身がそう感じ、確かめなければならないことでしょうが...
トラワレからの解放って...どういうこと? どうやって? とこれ又、自分の思いだけで決着をつけようとすると、迷いの堂々巡りを繰り返すばかりですよね。
トラワレは迷い、苦しみを生み出すもの...この自覚あるところ、"来るべきようなもの"の予感があるのです。
"迷い、苦しみの牢獄にある、この私にその自覚がもたらされたi それはガンジガラメにトラワレたこの思いから来るのであろうか?
そうではあるまいi 解放をもたらすものは、来るべきようなものなのだi" "如来"。
如来という呼び習わしは、おそらく大乗仏教の成立以降のことでしょうが、実にその名状し難い、形なき命が我に顕わになることと、トラワレの解放とは一つのことという示唆があるのです。
"涅槃に導くものもこのもの...なのかもしれない? 何も無いのが安らぎなのか、このものと共にあるのが安らぎなのか?
それはこの上無いものなのだろうか? いや、それは世の人が"これこそは無上の真理"と言って、迷い続けているものの外にあるのではないか?"
世の中には真の如きもの、悟りや救いの如きものしかないのです。究極の真理はあなた自身にしか開けないでしょう。
トラワレから解放したいがために、それらを求めたはずではなかったのではありませんか?
正しい生き方、神サマ、教え、修行法...前世や死後の世界や超能力...
"有るのか、無いのか分からないものにトラワレるのは迷いだ...どこにも常なるものは無い...定まったものなど無い..."と説いたとされるのがゴータマ.ブッダでした。
しかし、仏説として当たり前のように信じられているものに、"執着を捨て、煩悩を断てば涅槃の境地に至れる"というものがあります。
世の中の通念としてでなく、これを自分の問題として思い浮かべてみて下さい。
(ブッダが何を言ったとか、聖典に何が書かれているか、ということで無しに、自分自身のことからでなければ何も始まりません)
このこと自体が大いなるトラワレだとは感じてきませんか?
人間離れした強靭な意志の持ち主でなければ、そういう境地に達することが出来そうにありません。
こうした通念が広まったのは、部派仏教が成立した以降とも言われていますが、おそらくたゆまぬ修行と結び付いたものなのでしょう。
一体、涅槃とは何だろうか? そんなに特殊な境地なんでしょうか?
そこには私というものが無く、全体しか無いのでしょうか? ブッダは何も明言などしてません。
ブッダが言う"無我"というものは、有るとか無いとか決まった我など無い、といったものではないでしょうか?
所謂ブッダの教説というのは、このように定見、定説に行き着かないようなものばかりです。
だから..."これがブッダの真説だ"というものは、ことごとくが"仏説にあらず"ということになりそうです。
世の中に"これが真理"というものなど何も無いi "真の如きもの"があるばかりということではないでしょうか? "真如"。
涅槃には安らぎがあるのだと言う...ああでもない、こーでもない、という諸々の思いから解放されたなら、正しくそれに与れる...かもしれない...
少なくともそれはあなた自身がそう感じ、確かめなければならないことでしょうが...
トラワレからの解放って...どういうこと? どうやって? とこれ又、自分の思いだけで決着をつけようとすると、迷いの堂々巡りを繰り返すばかりですよね。
トラワレは迷い、苦しみを生み出すもの...この自覚あるところ、"来るべきようなもの"の予感があるのです。
"迷い、苦しみの牢獄にある、この私にその自覚がもたらされたi それはガンジガラメにトラワレたこの思いから来るのであろうか?
そうではあるまいi 解放をもたらすものは、来るべきようなものなのだi" "如来"。
如来という呼び習わしは、おそらく大乗仏教の成立以降のことでしょうが、実にその名状し難い、形なき命が我に顕わになることと、トラワレの解放とは一つのことという示唆があるのです。
"涅槃に導くものもこのもの...なのかもしれない? 何も無いのが安らぎなのか、このものと共にあるのが安らぎなのか?
それはこの上無いものなのだろうか? いや、それは世の人が"これこそは無上の真理"と言って、迷い続けているものの外にあるのではないか?"
世の中には真の如きもの、悟りや救いの如きものしかないのです。究極の真理はあなた自身にしか開けないでしょう。
>世の中には真の如きもの、悟りや救いの如きものしかないのです。究極の真理はあなた自身にしか開けないでしょう。
・・・そうですよね。私にしかわからないのと同様にあなたにしかわからないし、誰にとっても内面にしか真理?と思える結論ってないですよね。
その仕組み?で、本来充分なはずなのに、どこかしこでも その真理を教えたり、与えたりしようとすることが流行っていて、現在のスピ界になっていると思います。
>"これこそは無上の真理"・・・スピ界で言われている「これ」・・・の外に、あるのかもしれませんね。・・・エンライト氏の言葉を借りれば、宇宙の家畜たる我らは、食べていくための思考と行為を養い続けますが、宇宙(真理)はその外にある。ってことなんでしょうかね?
縁起の法というか、他者との縁というものもありますね。皆そういうものを借りているのでしょう。
しかし究極は借り物でなく、自己に開かれるものでなければホントに頷くことは出来ないのでしょう。