先日、ある会合で知人と会ったのですが、彼は不眠症で悩んでいるようでした。
何が原因なのか、彼は言おうとしないみたいなので、訊くこともないし、詳しく知りませんが、「しばらく休んでていいか?」と言うので「ああ、いいとも、そうしなよi」と返したのですが、言ってるハナから、「あれはどうなってる?、ああ、そうだ、あれをしなきゃあ...」とやりだしてる(笑)
"んなん、いいから休んでりゃいいだろっ、つーにi"
「あなたはどうも次から次に考えが浮かんではそれに囚われ、そして又別のことに囚われて、思いがテンデバラバラになってるようだ、そういう時は考えていることに優先順位をつけたらいいと思うよ。今、何が自分にとって大事なこと、大切なことなのか、それに集中する...今はひたすら休むとかね」
そして、話の流れで「眠れない時は、一番大切なこと、そう、自分がもっとも好きな、愛しているものを思い浮かべるんだ(これはいつも"意識が向く"云々ということを分かりやすく言っているのです)。そうすると幸福な気分になって、寝てても起きてもどっちでもよくなる...そして心が安らいで来て、いつの間にか寝ちゃうもんだ...」
と、こう言ってる最中から私は、意識がそういう方に入ってしまい、幸福な気分になってしまったのでした。(ところでこの会話、誰に誰が話してたのかよく分からないのでしたが...)
パッとそうなってしまうという即応性に我ながら驚いちゃいます。話では"思い浮かべる"とか言うけど、これは自分で感情をコントロールすることではありません。
端緒としては、意識を向けるという意志的に働きかけることはありますが、いつも言うように、それはほとんど同時に、自然に向いちゃうようなことなのです。
で、私にとって最愛のものとは...(神?、本当の私?)本当は言葉では言い表せないものなのです。こんなにも直に感じているものなのに...
とにかく、最愛のものだから自然につながっちゃうのでしょう。
こうなっている時、私はより自分の本性に近くなっている(戻っていると言った方が適切かもしれません)とは言えるかと思います。
といって、何が私の本性であるのか、そういう実体があるかどうかは分からないのです。
これは、そのように、より私自身に戻れたように感じられたことを言っているのです。(くよくよと悩み苦しんでる状態に照らしてそう感じる、ということはそれはより本性から遠いということでしょう)
ナチュラルにそうなる...この即応性はここから来るのに違いないでしょう。
本性に、自然な状態に帰れるように、自分をコントロールするというのはどうも"不自然"です。
勿論、私は元々こういう人間じゃなかったのです。先の知人と同じく夜眠れない人間だったのです。いや、今でもと言ってもいい...
そういう自分を克服したという自覚もなく、修行してああいうのが身についた訳でもないのです。
自然に身に付いた、というか覚えられるようになったのです。
しかし、神のこととか、み仏とか、み親とか、聖霊とか思うと、幸福に感じて来るということは昔からありました。
こういうことの積み重ねなのかなあ、とも思います。
積み重ね..."そう、修行ですよ"、って違うなあ...堅苦しくって、いやになりそう...
やっぱり、最愛のものには自然と親しんでしまうってことなのでしょう?...
何が原因なのか、彼は言おうとしないみたいなので、訊くこともないし、詳しく知りませんが、「しばらく休んでていいか?」と言うので「ああ、いいとも、そうしなよi」と返したのですが、言ってるハナから、「あれはどうなってる?、ああ、そうだ、あれをしなきゃあ...」とやりだしてる(笑)
"んなん、いいから休んでりゃいいだろっ、つーにi"
「あなたはどうも次から次に考えが浮かんではそれに囚われ、そして又別のことに囚われて、思いがテンデバラバラになってるようだ、そういう時は考えていることに優先順位をつけたらいいと思うよ。今、何が自分にとって大事なこと、大切なことなのか、それに集中する...今はひたすら休むとかね」
そして、話の流れで「眠れない時は、一番大切なこと、そう、自分がもっとも好きな、愛しているものを思い浮かべるんだ(これはいつも"意識が向く"云々ということを分かりやすく言っているのです)。そうすると幸福な気分になって、寝てても起きてもどっちでもよくなる...そして心が安らいで来て、いつの間にか寝ちゃうもんだ...」
と、こう言ってる最中から私は、意識がそういう方に入ってしまい、幸福な気分になってしまったのでした。(ところでこの会話、誰に誰が話してたのかよく分からないのでしたが...)
パッとそうなってしまうという即応性に我ながら驚いちゃいます。話では"思い浮かべる"とか言うけど、これは自分で感情をコントロールすることではありません。
端緒としては、意識を向けるという意志的に働きかけることはありますが、いつも言うように、それはほとんど同時に、自然に向いちゃうようなことなのです。
で、私にとって最愛のものとは...(神?、本当の私?)本当は言葉では言い表せないものなのです。こんなにも直に感じているものなのに...
とにかく、最愛のものだから自然につながっちゃうのでしょう。
こうなっている時、私はより自分の本性に近くなっている(戻っていると言った方が適切かもしれません)とは言えるかと思います。
といって、何が私の本性であるのか、そういう実体があるかどうかは分からないのです。
これは、そのように、より私自身に戻れたように感じられたことを言っているのです。(くよくよと悩み苦しんでる状態に照らしてそう感じる、ということはそれはより本性から遠いということでしょう)
ナチュラルにそうなる...この即応性はここから来るのに違いないでしょう。
本性に、自然な状態に帰れるように、自分をコントロールするというのはどうも"不自然"です。
勿論、私は元々こういう人間じゃなかったのです。先の知人と同じく夜眠れない人間だったのです。いや、今でもと言ってもいい...
そういう自分を克服したという自覚もなく、修行してああいうのが身についた訳でもないのです。
自然に身に付いた、というか覚えられるようになったのです。
しかし、神のこととか、み仏とか、み親とか、聖霊とか思うと、幸福に感じて来るということは昔からありました。
こういうことの積み重ねなのかなあ、とも思います。
積み重ね..."そう、修行ですよ"、って違うなあ...堅苦しくって、いやになりそう...
やっぱり、最愛のものには自然と親しんでしまうってことなのでしょう?...
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