精神的な道では、一寸した言い回しの違いから大きく観方、感じ方が変わる表現があります。
例えば、“真我“というもの...“真我になる“とか言います。修行か何かで、今の自分を段々高めて行ったらそうなるのでしょうか?
今の自分は本当の自分じゃない?、真我というのは到達しないとなれない?...“自分探し“という...何処に探しに行くのか?
こういう言葉を聞いて、オカシイと思った人は私だけではないでしょう?
自分の在るべき在り方は、自分が分かってなきゃオカシイでしょう?
じゃ、一体ここにこうして生きているものは何ものなんだ?
そして、色んなスピ本とか教師に聞いたりするんだ?...“本当の自分てなんですか!、どうやったらなれますか?“...
私がいつもここで匂わせていることは、一個の自分というのは、それだけで成って、生きているんじゃないということです。
そして、そのことを一寸意識しただけで、あの“そのものにあって、私はここに在る“ような、そう、現臨するものに包まれて来るのです。
これは、自分からそうなろうとすることじゃないですよ!
自然にそうなるということ...それは“本来の在り方に帰る“という言い方も出来るでしょう。
“おお...“、アタシャもう、この言い回しにどうしても惹きつけられざるを得ません!
分かりますか?...なろうとする、到達し、獲得することじゃないのです。
折角到達しても、そこから落ちるかもしれない、獲得するものは失うかもしれない...
しかし、本来性というものは、いつでもどこでもそこにあり、失うことがありません!
何よりも、自然にそっちに赴いてしまう!...そこに愛、安らぎが感じられるから!...
ですから、本来の自分に帰るということは、幸福に与ることなのです。
しかし、ここでも言い回しにご注意を!...幸福になる、それを追い求めることを言っているのではありません。
それが悪い訳では勿論ありませんが、今が幸福じゃないから何かをやることで、先にあるものを求めることじゃなくて(それで幸福になれる保証はないし、得た幸福は失うかもしれません)、今のままで、自然に与るもの、幸福は本来的に与えられているということに他ならないのです。
このことをもっとも端的に感じられることは、寝て起きた時のあの喩えよう無い至福感です!
そうなろうとしたってなれません。自然に寝て起きたらそうなっていた!
この時ほど、自分の本来性に帰ったことが実感されることはありません!
一個の自分からはそうならないということは、やはり自分を超えて、そう在らしめるものがあるということなのでしょう!
と言うか...本当に、ホント~に、この人生はそのもの無しにはあり得ないと、あり得ちゃうことが、ホントにオカシイということに気付かされるのでした!...
例えば、“真我“というもの...“真我になる“とか言います。修行か何かで、今の自分を段々高めて行ったらそうなるのでしょうか?
今の自分は本当の自分じゃない?、真我というのは到達しないとなれない?...“自分探し“という...何処に探しに行くのか?
こういう言葉を聞いて、オカシイと思った人は私だけではないでしょう?
自分の在るべき在り方は、自分が分かってなきゃオカシイでしょう?
じゃ、一体ここにこうして生きているものは何ものなんだ?
そして、色んなスピ本とか教師に聞いたりするんだ?...“本当の自分てなんですか!、どうやったらなれますか?“...
私がいつもここで匂わせていることは、一個の自分というのは、それだけで成って、生きているんじゃないということです。
そして、そのことを一寸意識しただけで、あの“そのものにあって、私はここに在る“ような、そう、現臨するものに包まれて来るのです。
これは、自分からそうなろうとすることじゃないですよ!
自然にそうなるということ...それは“本来の在り方に帰る“という言い方も出来るでしょう。
“おお...“、アタシャもう、この言い回しにどうしても惹きつけられざるを得ません!
分かりますか?...なろうとする、到達し、獲得することじゃないのです。
折角到達しても、そこから落ちるかもしれない、獲得するものは失うかもしれない...
しかし、本来性というものは、いつでもどこでもそこにあり、失うことがありません!
何よりも、自然にそっちに赴いてしまう!...そこに愛、安らぎが感じられるから!...
ですから、本来の自分に帰るということは、幸福に与ることなのです。
しかし、ここでも言い回しにご注意を!...幸福になる、それを追い求めることを言っているのではありません。
それが悪い訳では勿論ありませんが、今が幸福じゃないから何かをやることで、先にあるものを求めることじゃなくて(それで幸福になれる保証はないし、得た幸福は失うかもしれません)、今のままで、自然に与るもの、幸福は本来的に与えられているということに他ならないのです。
このことをもっとも端的に感じられることは、寝て起きた時のあの喩えよう無い至福感です!
そうなろうとしたってなれません。自然に寝て起きたらそうなっていた!
この時ほど、自分の本来性に帰ったことが実感されることはありません!
一個の自分からはそうならないということは、やはり自分を超えて、そう在らしめるものがあるということなのでしょう!
と言うか...本当に、ホント~に、この人生はそのもの無しにはあり得ないと、あり得ちゃうことが、ホントにオカシイということに気付かされるのでした!...
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