いつも言っているようなことですが、精神的な道においては思いから離れる、自由になることが重要なことです。
しかし、そういうことを思い、為そうとする自分がやろうとしても中々出来るものではありません。
そこに祈りというものの必要性があるのです。少なくとも私は、それによってそういう道が開かれたと言ってもいいのです。
瞑想という道もありますが、私的にはそれは、やろうとする自分を引きずる感じがどうしてもしてしまうので...
“祈ったって、何にもならないではないか?“、と思われる向きもあるでしょうが、それはあなたがそう思っているだけなのではありませんか?
祈るということは、漠然と考えたり、思ったりすることではありません。
又、あなたが祈ることで、そういう修行のようなものによって、何かが開け、もたらされる訳ではないのです。
それは、実に思いを超えたもの、神的なものに依るということに他ならないのです!
これは、実際にそのように思いを超えられ、開かれてみなければ分からないでしょう。
そして分からされる!...神的なハタラキが如何に大きなものであるかということが!
ちっぽけな自分をどうこうしようということなど問題ではありません!
要するに、その神的なハタラキに意識を向け、それを呼び起こすことが主眼となるのです。
祈ろうとするのは勿論思い、為そうとする自分ですよ。しかしその自分に思いを留めずに、その上に向けるということがミソなのです。
ですから、祈りというのは、そのための方便ということは一応言えます。
しかし、祈りとは、決まった祈りの文句を称えたり、手をどう組むかとかそういう形ばかり思い描いているとしたら、それは方便のその又方便に囚われているということでしょう。
ここでは、形を超えるということを言っているのですよ!
そういうものは、思いはすべて神に預けちゃう!...そうすると思わず幸福に与ってしまうという訳です。
それが祈りから導かれる意識状態なのです。そうですね、これは瞑想の深まった意識状態でもあります。
だから、私的には、私がやろうとする瞑想というのは無いですねえ...これ又いつも言うように祈りと瞑想は切り離すことは出来ないのです。
もう、どっちでもいい!...形を超えて、その超えたものにつながればいい!ってことですよ!
そこには、自力も他力も、一元も二元も、何教もありゃしません!
ただ、こちらの思いを超えたものが通るということがあるのみ!...
しかし、そういうことを思い、為そうとする自分がやろうとしても中々出来るものではありません。
そこに祈りというものの必要性があるのです。少なくとも私は、それによってそういう道が開かれたと言ってもいいのです。
瞑想という道もありますが、私的にはそれは、やろうとする自分を引きずる感じがどうしてもしてしまうので...
“祈ったって、何にもならないではないか?“、と思われる向きもあるでしょうが、それはあなたがそう思っているだけなのではありませんか?
祈るということは、漠然と考えたり、思ったりすることではありません。
又、あなたが祈ることで、そういう修行のようなものによって、何かが開け、もたらされる訳ではないのです。
それは、実に思いを超えたもの、神的なものに依るということに他ならないのです!
これは、実際にそのように思いを超えられ、開かれてみなければ分からないでしょう。
そして分からされる!...神的なハタラキが如何に大きなものであるかということが!
ちっぽけな自分をどうこうしようということなど問題ではありません!
要するに、その神的なハタラキに意識を向け、それを呼び起こすことが主眼となるのです。
祈ろうとするのは勿論思い、為そうとする自分ですよ。しかしその自分に思いを留めずに、その上に向けるということがミソなのです。
ですから、祈りというのは、そのための方便ということは一応言えます。
しかし、祈りとは、決まった祈りの文句を称えたり、手をどう組むかとかそういう形ばかり思い描いているとしたら、それは方便のその又方便に囚われているということでしょう。
ここでは、形を超えるということを言っているのですよ!
そういうものは、思いはすべて神に預けちゃう!...そうすると思わず幸福に与ってしまうという訳です。
それが祈りから導かれる意識状態なのです。そうですね、これは瞑想の深まった意識状態でもあります。
だから、私的には、私がやろうとする瞑想というのは無いですねえ...これ又いつも言うように祈りと瞑想は切り離すことは出来ないのです。
もう、どっちでもいい!...形を超えて、その超えたものにつながればいい!ってことですよ!
そこには、自力も他力も、一元も二元も、何教もありゃしません!
ただ、こちらの思いを超えたものが通るということがあるのみ!...
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