人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神は顕わになるもの

2022-12-04 09:44:54 | 回想
縁というものは、バカにならないものがあります。
宗教的、精神的な道においても、どうしてもそれぞれの縁を借りて歩まざるを得ないものがあります。
私の場合、最初に縁付いたものは、”M教団”という新宗教の団体だったのですが、そこは、”万教帰一”を謳っていたものの、形の上では神道に則っていたのです。
ところが、そこで頻繁に飛び交う言葉といったら、”救世主”、”神の経綸”、”火の洗礼”...といったもので、ご存知のように、これらはいずれもキリスト教から借りたものなのでした。
ちなみに、このような日本古来の神道の上に、キリスト教的な要素を導入した人物こそ、その教団の母胎、文字どおり”大本”たる、大本教の出口王仁三郎聖師に他なりません。
私はその教団と関わった約二年間、一度たりともそこから、霊が発動する”という秘儀は何度も受けたにも関わらず、その発動も、”洗礼”(人生観、世界観が変わるようにも、心に深く共鳴されることのたとえ)らしきものも受けたことはありません!
むしろ、その教団の、というよりそこに代表されるような宗教特有の独善的、盲信、狂信的体質と相容れないものを感じていたのでした。
しかし、そこで否応なしに聞かされていた言葉の響きには、どうしても拭い去れないものもいくつかあったのです。
その一つは、“真の神が表れる”というものです。今まで世に表れていたのは、仮の神であり、その教団を通じて顕わにされる神こそは、真の神、救世主なのであると...勿論、この教団側からの説明に心が動かされることは無かったのですが、”観念的に信じられている神などどこまでも仮のものに過ぎない!“ということは、今でこそ言えるのですが、当時は何かを象徴しているようにも感じていたようでした。
とにかく、”神は顕わになるもの”、という響きはずっと心の奥に残っているのです。
このことは、後に先の出口聖師や、いくつかその影響下にある教えに触れることで深められて行ったのでしたが、こういう響きというものは、ユダヤ~キリスト教に特有のものとも言えるでしょう。見えない世界から見える世界に応現するという救世主なる概念自体がそうでしょう。
そういう私が、その教団から離れて後、同じ大本教の流れに連なる五井先生に惹かれたり、キリスト教の流れにも関心を示すようになったのも縁の然らしむるところだったと言えるでしょう(取り分け小池、手島両先生との出会いは私の精神史では大きいものがありました)。
何しろ、聖書に触れる以前からそこから来るフレーズに馴染みがあったのですから...それが無ければ、スルーしていたかもしれないのです。
先の意味で洗礼を受けたのも、これらを通じて初めてのことだったのです。
とにもかくにも、私の意識に神的なものが顕わになったとは言えるでしょう?...
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 個人の悟りというものは無い! | トップ | 霊と実存の洗礼 »

コメントを投稿

回想」カテゴリの最新記事