人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

個人の悟りというものは無い!

2022-12-03 09:54:28 | 覚醒
精神的な道を求めている人なら一度は、”悟ってみたい!“、と思ったことはあるでしょう。
勿論、私にもありましたよ。...しかしそれは、自分だけそういう境地を求めていることであり、ある種の利己的な在り方、精神的利己主義の表れなんじゃないか、と感じたのか、あまり深く思ったたことは無かった、というか実際は意識がそれに向けられることは無かったようなのでした。
ただ、小池辰雄、手島郁郎両先生の影響からか、”聖霊によるバプテスマ、回心体験“のようなものを求める気持ちはやたら強かったのです。
”なんだ!、そりゃ悟り体験を求めていることと同じじゃないか?“、と思われるかもしれないですが...そうですね、”ハイ”になる感じは同じかもしれませんが、少なくともその聖霊体験からは、利己主義的なものはあまり感じて来ません。
そういう場にあると、他の多くの人たちもそれに与る訳で、むしろ私が中々それに与れないことで、自分だけ取り残されるような思いに駆られたりしたのです。
それと、もう一つ重要なことは、その求め方の違いにあるようです。
悟り体験と結びつくような瞑想修行など、自分個人からそれを志すということでは無く、神的な恩寵を求めることにあるのです。
言い方は様々でしょうが、先の場合なら神、キリスト、聖霊を求める...その三つは別々にあるんじゃなくて、一つの、思いを超えた主なるものということ...同一の主そのもの...これは異なる場にあっても、阿弥陀様だろうとアラーだろうと、一なる主につながることに意識が向けられるのです。
これは、普通に祈ることに触れている訳ですが、神的なものに意識でつながる、ということは、“自分個人だけが悟る...“、という感じにはなってこないはずなのです。
何故ならば、神というものは、個であると同時に普遍的なものであるから...
いや、神はどういうものか分からないもの...私的には、その意識の世界で、“私はここに在る”ことと同時に、自己以外の“あらゆるものにも開かれている“、ということを感じさせてやまないものを仮に神と言い表したいものがある、と言ってもいいでしょう。
“なんだ!、そりゃ悟り体験のことを言っているのか?”...そ、そうかもしれないが、んな訳ないでしょ!...正直、そういうことは(思おうとしたことはあるけど)どうでもいいことなのです!
だってだって、私だけの悟り体験などある訳無い...普遍的なものと切り離された私というものは無いんですから!
私にそういうものが目覚めることがあったとしても、どうしてもどうしても心の底から頷くことが出来ないものがある...本当には、最愛なるもの、神を目の当たりにしていないものが残っているようです。
普遍世界の目覚めは如何に?...
私は唯々、神の全きみ顕れを祈る...否祈らされるばかりです...。
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