毎年、晩秋の頃になると、あの時のことが思い起こされてきます。
"もう、43年にもなるのか...私に精神的な道に目覚めさせられたのは..."
それは主として五井先生との縁に依るものでしたが、とにかく私は、神は愛そのものなる方で、私を導いてくれるものだ、と信じることが出来たのでした。
それまでの二年間ほどの、別の新宗教での信仰生活では得られなかったものが...
それは、五井先生の著書を読んでいる時、思わず涙が込み上げてきたということがすべてを物語っていたのでした。
そこで過らされたものは、言葉にならない懐かしさというものと、未来に向けて何かが開かれてくると予感させるものが一つになったようなものでした。
あれは確か、東京中野のどっかの小さな公園だったと思いましたが、どこだかハッキリ覚えていません。
ただ、その時の感覚はハッキリ覚えています。その後何度となく、同じような奇縁に恵まれたことも...
それは、ついこないだ読んだ本で感じさせられたものとも同じものなのです。
そういうものは、その時々の心を揺さぶれる感動によるのも確かなことなのですが、その時のシチュエーション、本の内容は違っていても根底にあるものは同じものでしょう。
それで私は43年前、そう信じることが出来たことで、五井先生を通して真実の信仰を知ることが出来た、というくらいに思っていたのでした。
でも、それは信仰ごとで片付けられることではなかったのです。
何故って、ごくシンプルにある教えを信じなくとも感じることが出来るのですから...人間の心、信じたりすることは、(男女問わず)コロコロ秋の空のように変わるものだけど、これはそういうものを超えているのです。
こういうことは、過去のことを追憶すること、回顧ということ以上の意味があります。
回顧、懐古には、過去には輝いていたが、現在は失われてしまった、という感情が付き物ですが、今もなお、アリアリと、私の中に別の生き物が息づいているようにも、その脈動を感じることが出来るからです。
これは、単なる頭の記憶でなく、"身に覚えている"ものなのです。
身に覚えているものは、過去、現在、未来に貫かれている...それは過去を甦らせ、現在を活性化させ、未来を開示する...超時間的な記憶なのです。
私はその感覚を自分の信仰や信念といったものを強めることで、かえって失われてしまうようなことに意識が赴くことはありませんでした。
それは、それ以前の信仰生活で懲りていたとも言えるのですが、私の中に息づいているものから促されていたのです。
それは、あの感涙にむせんだ時に根付いたものだったのでしょう。
"もう、43年にもなるのか...私に精神的な道に目覚めさせられたのは..."
それは主として五井先生との縁に依るものでしたが、とにかく私は、神は愛そのものなる方で、私を導いてくれるものだ、と信じることが出来たのでした。
それまでの二年間ほどの、別の新宗教での信仰生活では得られなかったものが...
それは、五井先生の著書を読んでいる時、思わず涙が込み上げてきたということがすべてを物語っていたのでした。
そこで過らされたものは、言葉にならない懐かしさというものと、未来に向けて何かが開かれてくると予感させるものが一つになったようなものでした。
あれは確か、東京中野のどっかの小さな公園だったと思いましたが、どこだかハッキリ覚えていません。
ただ、その時の感覚はハッキリ覚えています。その後何度となく、同じような奇縁に恵まれたことも...
それは、ついこないだ読んだ本で感じさせられたものとも同じものなのです。
そういうものは、その時々の心を揺さぶれる感動によるのも確かなことなのですが、その時のシチュエーション、本の内容は違っていても根底にあるものは同じものでしょう。
それで私は43年前、そう信じることが出来たことで、五井先生を通して真実の信仰を知ることが出来た、というくらいに思っていたのでした。
でも、それは信仰ごとで片付けられることではなかったのです。
何故って、ごくシンプルにある教えを信じなくとも感じることが出来るのですから...人間の心、信じたりすることは、(男女問わず)コロコロ秋の空のように変わるものだけど、これはそういうものを超えているのです。
こういうことは、過去のことを追憶すること、回顧ということ以上の意味があります。
回顧、懐古には、過去には輝いていたが、現在は失われてしまった、という感情が付き物ですが、今もなお、アリアリと、私の中に別の生き物が息づいているようにも、その脈動を感じることが出来るからです。
これは、単なる頭の記憶でなく、"身に覚えている"ものなのです。
身に覚えているものは、過去、現在、未来に貫かれている...それは過去を甦らせ、現在を活性化させ、未来を開示する...超時間的な記憶なのです。
私はその感覚を自分の信仰や信念といったものを強めることで、かえって失われてしまうようなことに意識が赴くことはありませんでした。
それは、それ以前の信仰生活で懲りていたとも言えるのですが、私の中に息づいているものから促されていたのです。
それは、あの感涙にむせんだ時に根付いたものだったのでしょう。
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