人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の意志、人間の意志

2023-01-20 10:00:37 | 
先日、書店である神話学の本を立ち読みしていたのですが、”神は顕わになるものである“、という意味のことが書かれていました。
私も常々そう感じていて多いに共感したので、”よし、これ買おう!“と思ったのですが、少し読み進むうちにその気が薄れてしまいました。
まあ、立ち読み程度なので詳しくは読んでないですが、神が顕わになるとして、著者はそれに没入(対象が消えて、自他の区別が無くなるようなことをこう表現している由)はしないで、神と相対して、観察するような状態に踏みとどまるようなことを書いていたのです。
私の感じでは、もし本当に神が顕わになるとしたら、そういう問題にはならないだろうと思うのです。
一体、何のことを言っているのか分からん!、という方も多いでしょうが、これは勿論、どっかで“聖母マリアが出現した!“、とか目に見えるように神が現れる、ということを言っている訳ではありませんよ!
我々の思いを超えて、意識の次元に示現するということなのです。明治時代の思想家、綱島梁川(りょうせん)が言ったような“神を見る(見神体験)“ことに通ずることであり、そう、神的な現臨に与ることを言っているに他なりません!
神が意識に顕わになれば、没入するかもしれないし、しないかもしれません。こちらの意志で決められるものじゃないはずなのです。
ただ、”現臨に在る”というだけで没入という状態になるとは限らないですが、それがもっと深まり、神の手に捉えられる事態ともなれば、もうこちらの意志でどうともならなくなり、没入されるに任せるしかありません。
そういう契機はいつ起こるかは人智では分からないのです。(思いを超えているのだ!)
もし、最初から任意でそこまで行かずに踏みとどまることを自分で決めているのであれば、私の感じでは、神が顕わになったとは言えないと思うのです。
考えている自分がそこに居る、その事態を自らの意志でコントロール出来るということは....神が顕わになっているか、考えている自分が居るか、どっちかしかないはずなのです!
勿論、”神の手がかかる”手前では、思考は後退はするものの、なお機能している居る訳ですが、その現臨に在る状態の成り行きは、神的な意志にゆだねられているのです。
こちらの意志がゆだねられなければ、神は顕わにはならないでしょう。
神は我々に顕わになることにより、ご自身を示されるのです。
そうでなければ、神は我々が想像し、任意に思い描き、否定したり、信念に取り込んだり出来る対象に過ぎないでしょう。
神の示現により、神と一つになるか、どうかは分かりません。
しかし、現実に”神が現れたもうた!”、ということは、我々の運命はもう決まったと言っていいでしょう。後は(我々の)時間の問題でしょう。
それは、神にゆだねられているのだから!...

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