人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生最大のオドロキ

2020-01-05 10:21:04 | スピリチュアル
今からちょうど5年前、私が当時流行のノンデュアリティに幻滅を感じていた時、当時ここでも取り上げた、英国の神秘思想家ティモシー.フリークの「神秘体験」という本に出会いました。
その本は一見すると、過去に言い尽くされてきたことばかり言っていて、何ら真新しいことなど述べられていないように見えます。
ことにその原理主義的ノンデュアリティに特有の表現に染まってしまった者には...この著者は決して"悟った人間、そういう個人なんて居ないんですよ~"などと"悟ったみたいなこと"は言いません。むしろ進んでその神秘体験(これと悟りとどう違うかとかの詮議は置いといて...)へと読者を誘導しているみたいです。
そのことを宗教、哲学、科学、文学などあらゆる角度から解き明かそうとしているのです。
これは、どれもこれも似たり寄ったりの言い回ししかしない(これが幻滅を感じた理由の一つでした)ノンデュアリティ界隈には見られない、というより前言をひっくり返したような、そんじゃそこらではお目にかかれない稀有なる書というべきでしょう。
この著者がとても強調しているのは、"Waoi"、驚きの感情表明です。
悟ったつもりの、分かったつもりの頭には、驚きなんてありませんi 私なども例えば分かったつもりで、平然と例えば"現臨、神的なもの"について言ったりするかもしれません。でもそういう時は、現臨にはない状態、そこから閉め出されていることを意味しているのです。
だって、それは正に"現存在らしめる"ということなんですからね。それに在ることは、思いを超えていることであり、常に新しいこと、驚くべきことなんですi
読者の目は誤魔化しても、私自身、神には誤魔化しが利きません。これはとてもおそろしいことであると同時にそこに救い、平安があります。
私にとり、この驚きのもっともキョーレツなものは、その神の鉄槌を受けた時、私は"何も知らなかった、分かっちゃいなかった、何も出来なかったi"、ことを思い知らされたことです。これが人生最大のオドロキでなくてなんであろうi
これがとりもなおさず、神が私のど真ん中に示現する、ということに他ならないのですが、はじめてその鉄槌を受けて嗚咽を上げて泣いていたのが、私の偽りのない、ありのままの姿なのでした。このことはあのノンデュアリティを広めた立役者、大御所ブロガーだって知ってるはずです。
これがこの世の中が分からない、否けっして分かろうとしないことなんですi
これが思われた自分がどんどん自分を高めて行って、進んだ、悟った境地を目指している御仁には逆立ちしても分からないことなんですi

"悟った個人なんて居ないんですよ~"と宣っているところには、面白いことに"悟りたい人"がワンサカ集まるものです。
私はそのこと自体をどうこう言うつもりはありません。だって皆さんは悟りたいのでしょう?
自分の気持ちに正直になることには、良いも悪いも、エゴマインドもありません。
それがエゴだろうと、なんだろうと、そういう体験は素晴らしいこと、驚くべきことなんだ、ということが刷り込まれているのでしょう。
悟ったことを平然と宣ってる人なんか、以前はそういうウズウズした気持ちでいっぱいだったんじゃなかろうか?
私はそういう人たちに向けて、自分が通らされた道のことを言い表すことしか出来ません。
"神を信じ、ゆだねよ"
使い古された、出がらしみたいな言葉のように感じますか?
中世ドイツの神秘家マイスター.エックハルトは言いました。"考えられた神は神じゃないi"
考えられた私は私じゃない。
神秘の門に入るには神の鉄槌が待っているi
本当にそれを求めている人には神の方がほっとかないでしょう。
愛の鉄槌を持って神が待ち望んでいるでしょう。
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神のなせる業

2020-01-04 11:06:23 | 
ラマナ.マハルシは、真我実現の道として、"私は誰か?"と自己を探求してゆくジュニアーナ(知識)的な道と、神や導師に帰依してゆくバクティ的な道を示しました。
最近ネットで後者の道について、"大分私が抱いている感じと違うなあ"、と思った記事を見つけました。
それによると、まずバクティは、そのように"自己を神、導師に明け渡してゆくことで、エゴ、自我を消してゆくため"に行うそうです。
結果として諸々の思いから離れることはあっても、私はそういう目的で行うことはありません。いや、"行う"ということ自体、便宜上の表現であれ適切ではないのですが...
それは悟りを開くためでもありません。では、幸福を求めるため?
これは...それを求めるというより、"幸福に感じる"からそのように赴くまでなのです。
~のためでなく、自ずと赴いてしまうことなのであり、自分から何かを行うこととは少しく違うことなのです。
この意味では、神的なものと一つにならんがため、とは言い得るでしょう。これは観方によればそもそもの真我実現ということにも関わるでしょう。
~のためというものを超えて、惹かれてやまないものがあるからそうなるまで...つまり、神的なもの無しではそういうことは起こってこない、ということなのです。
次に"神や導師は絶対なので、❬そうしなさいi、してはならないi❭、という言葉にはどこまでも従わなければならない"、のだそうです。
これは私のように我の強い人間には絶対にムリです。自分は"こうしたい"のに、それを曲げ、殺して従うなんて...第一こういうのは盲従につながるではありませんか?
神に従うと言葉では言いますが、本当に神的なものの前にしたら、従わせる、従うという関係性など無くなります。それは自分自身の"内なる本心"に従うようなことなのだから...そこに服従とか盲従、洗脳などがあろうはずがありません。
私のような人間は、そういうものに出くわさない限り、心根が動くことは無いのです。
これはもう、奇跡と言ってもいいこと...神のなせる業という他ありませんi
これを書かれた方も、ゆくゆくは"~しようとする意志も明け渡さなければならない"、と言っておりますが、私にはどうしても"なそうとする自分"が主導になっているように感じてしまうのです。
そこに神が臨む...その前には私になすことは何も無い...ゆだねるということがあるだけ...
"最初からそんな世界は開かれないだろう"、という向きもあるかもしれませんが、神を慕い、ゆだねようとする意志は、最初から与えられているのではないでしょうか?
そうでなければ、そもそもそういう道に赴くことはないでしょう。
どこまでも、それは神のなせる業なのでしょう。
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叩けよi さらば開かれんi

2020-01-03 10:50:22 | 祈りと瞑想
"怖いi
もうダメだi
私の神様、どうか助けて下さいi
私が考えている、信じている神ではもう、ダメですi
本当に、本当に私につながってくださるあなたでなければ..."

40年ほど前の年の暮、私は身に迫る恐怖から逃れようと、そうして一心不乱に"私の神様"に祈ったのでした。
神が本当に居るのか、どうかは知りません。でも祈らずには居れなかったのです。
そして...何か雷に打たれたようになったかと思うと、意識が飛びそうになり、人目もはばからず路上にへたり込んでしまいました。頭を起こすことが出来ない...ポーズでなしに、本当にひれ伏さざるを得なくなってしまったのです。
その後、一月ぐらい、いつそのように意識に異変が起こるかしれぬような状態が続いたのでしたが、私はその状態が回復され、代わって平安な意識状態がもたらされた時から、"思いを超えた導き"を受け始めたようにも感じていたものの、よくよく思えば、そのアブナイ事態からだったと感じています。
意識がアンバランスな状態と、平安に包まれる時のそれと気分的にギャップがあるので、先のように感じてしまうのでしょう。
私の場合は一寸極端な例で、あまりむちゃくちゃに祈ることはアブナイのでお勧めはしませんが、やはり祈りから始まったのです。
何の神様に、どうやって祈るかなんてことは所詮他人行儀なことです。世間に伝えられているように自分で考えて、信じて、行じられる"やり方"に従うのも結構でしょう。
"OO教でなければ、OOの祈りでなければ..."だと ...あなたの神はそんなにケチくさいのかi
本当の、私の、あなたの神様はそういうものをすべて超えているのですi 神的なものなしに思いは超えられませんi
そして、観念でない、実存的な神は我々の意識に根付いて下さるのです。
"意識が向いたら、パッと..."、という即応性はここからくるのです。
私は、あの冬の夜の冷たいアスファルトに手を触れながらも、その厚い壁をものともせずに伝わってくる息吹を、そうと知らずに感じていたのです。回線の接続には暫し時間がかかりましたが...
"叩けよi さらば開かれんi"
思われた自分からは何も開かれないものですが、ただ祈ることは出来ます。それが神的なものに意識が向けられることにつながるのです。
真に望めば、きっと臨んでこられるでしょう。
私は懸命に叩くようなことをしていたのですが、叩いていたのは、あの御方の方だったのかもしれません...。
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光しか見えない

2020-01-02 09:51:42 | 詩的文章
こちらの元旦の朝は曇っていた...
頭の中もなんだかボンヤリしている
私の初日の出はまだ来ない
初詣に行こうと外に出てみると...あっi
乗用車と二輪車があわや衝突寸前i
こちらも危うく巻き込まれそうだった
めでたいような、めでたくないような...
しかし...目が覚めたような...
すると...にわかに雲間が開いてきたi
出たi 私の初日の出i
だが、"お日さま"はまったく見えない...
確かに日は出ているのに...まあるい輪郭が見えない
光があまりにも眩し過ぎるのだ
光しか見えない...
こんなにも朝の太陽が輝いているなんて...
太陽が輝いているのだろうか?
光があるからそう見えるのだろうか?
光源が何かは分からないが...
この眼に映し出されるだけ
そして見たi
光しか見えない...

新年明けましておめでとうございます
いよいよ光輝く年でありますように...
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