人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現実世界と普遍世界

2020-01-08 11:04:32 | 哲学・思想
この現実世界に生きるということは、言うまでもなく他者との関わり、何らかの社会の中で生きるということです。
私のような半ば世捨て人であっても、その中で生きている人間としてより良い社会、拡大しては世界人類の平和を願うことは当然のことでしょう。
私はこれまで幾つかの宗教、スピ関係の集まりに接してきた中で、熱心に社会活動に取り組んでいる人とも会いましたが、彼らの多くからはどうも私は、神とか霊なるもののことばっかし語っている、非現実的な夢想家のように見られていたようでした。
もっとも私は私で例えば、道端で"ミ~、ミ~"鳴いている一匹の子猫をどうすべきか、ということが現実的な問題に映り、動物愛護運動といったものが、夢想的に映ったりしているのでお互い様みたいなのです。
彼らの多くは、内なるものにあまり意識が向かわず、この目に余る不調和の、混迷した現実世界に目が向けられていて、その状況をどうにかしたいという気持ちに駆られるようです。
その気持ちも分かりますが、彼らからは"今、ここ"で分かちあえるような平和、平安というものは伝わってきません。
たとえ、戦火が静まり、不平等、格差というものが改善され、自然災害から社会を防ぐことが出来たとしても(それらが無意味だと言っているのではありません)、それで真の平和に与ることが出来るのでしょうか?
置かれた環境、境遇などに左右されない平安というものは見い出されないのでしょうか?
彼らとはどうしても"意識がどこを向いているか"、ということを巡りどうしてもズレが生じてしまうのです。
"もし、ここに数人の人たちが居て、そこで"今、ここにある平安"に与ることが出来れば、それ以外のすべての他の人間にもそれが開示されないだろうか?"
このことは、ここでは深く触れませんが、この見える現実世界のことではなく、普遍的(現実)世界のことを言っているのです。
私もちょくちょく使わせてもらっているこの普遍性というのは、実は不思議な言葉で、少なくとも私は、目に見えるような具体例として普遍的なものを示すことは出来ないのです。
"あの人には何か普遍的なものを体現しているように感じる"、ということは言い得ても具体的に何が、ということは分からないのです。
おそらくは、そういう言葉こそあっても、この現実世界ではどこにも見い出し得ないものなのかもしれません。
言い換えれば、この世界に溢れているものは、普遍ならざるものばかりだ、ということでしょう。
でも、それは見ることも掴むことも出来ないものだけど、感じることは出来るのではないでしょうか?
これは、おそらくは神という言葉と同じなのでしょう。
宗教信者の言う、抽象概念じゃない、神というもの...それは信じるとか信じないといったことが取り沙汰されるだけで、この世に一度も姿を表したことはないものに違いありません。
でも、それは感じて言葉に言い表すことは出来るのです。(そこに真実味があるかどうかは別として)
そうと知らずに一人一人の内に息づいているものだからでしょう。
コメント (2)
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