人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

恩寵と苦しみ

2020-01-26 10:26:30 | 求道、探究
少し前の大御所スピ教師Aさんの「かんながら」というブログのコメント欄で、"一瞥、至福の体験がある前には、地獄の苦しみがある..."とまるで誰にでも当てはまるかのように、決めつけたことを言っている人がおりました。
地獄の苦しみi...ハテ私にはそんなんは無かったですけどねえ...
そうですね、そうなる直前まで地獄とは行かないまでも苦しかったのは確かですよ。
それはしかし、発熱、頭痛によるもので、ほとんど身体的なもので、このコメント主さんのように、精神的苦しみまでを伺わせるようなものではなかったのです。
むしろ、"じわじわ、じんじん"と神の手がかかりはじめるにつれ、その苦しみから解放されるようになったのです。
これは何度も触れているように、思考、身体機能が後退してゆくプロセスのことを言っていて、何か回りのすべてが暗闇に包まれて地獄の様相も感じられましたが、苦しみなどありません。
ことにそれにより思いを超えた世界が開かれる、ということが人生でホントーに大きいことなんです。
そして、これはホントに神の恩寵のなせる業なのです。これはホントに思われたままのことしか知らない人の与り知れない、知ろうともしないことなんです。ホントにもうーi
これがもし、神の手の中で行われないとすれば、おそらくは...地獄の苦しみを経なければならないかもしれません。
そうでなくても、自力で思いを超えることにトライすること自体、相当な苦しみを経験しなければならないでしょう。
私は"自分の力で..."何てことはやろうとしたことも、思ったこともないので分からないのですが...
いずれにせよ、"至福に与るには思考を超えなければならないi"...これは誰にとってもホントのことでしょうi
しかし、それには苦しみを受ければならないということではないでしょう。(苦しみというのなら各々の人生でこれでもか、というほど経験しているではないか?)
確かに、これまでの宗教的、精神的道では、多くこの思いを超えることと苦難を受けることが結びつけられて来たようです。そして、人間が背いた罰として神がその苦しみを与えた、とか何とか...
"ホントにあなたの神はそう言ったのか?...あなたはいつまで怒れる神を向こうに見て、恐れ、遠ざけるつもりなのかi 何故愛なる神を受け入れようとしないのかi"
コメント主さんは、先のことを踏まえて一瞥体験には、死ぬような覚悟が必要だと言ってましたが、これはある面でその通りだと思います。
思いを超えるという関門を通る、ということは"思い描いている"ようなことじゃないのだから...ある意味で命懸け、命を懸けるというのは確かなことです。
でも、それも神の手の中で覚悟(これは神の愛に落ちることへの同意のようなもの)が決まり、通らされることなのです。
大変なことだけど、ラクなことだとしか言いようがありません。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする