人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神のなせる業

2020-01-04 11:06:23 | 
ラマナ.マハルシは、真我実現の道として、"私は誰か?"と自己を探求してゆくジュニアーナ(知識)的な道と、神や導師に帰依してゆくバクティ的な道を示しました。
最近ネットで後者の道について、"大分私が抱いている感じと違うなあ"、と思った記事を見つけました。
それによると、まずバクティは、そのように"自己を神、導師に明け渡してゆくことで、エゴ、自我を消してゆくため"に行うそうです。
結果として諸々の思いから離れることはあっても、私はそういう目的で行うことはありません。いや、"行う"ということ自体、便宜上の表現であれ適切ではないのですが...
それは悟りを開くためでもありません。では、幸福を求めるため?
これは...それを求めるというより、"幸福に感じる"からそのように赴くまでなのです。
~のためでなく、自ずと赴いてしまうことなのであり、自分から何かを行うこととは少しく違うことなのです。
この意味では、神的なものと一つにならんがため、とは言い得るでしょう。これは観方によればそもそもの真我実現ということにも関わるでしょう。
~のためというものを超えて、惹かれてやまないものがあるからそうなるまで...つまり、神的なもの無しではそういうことは起こってこない、ということなのです。
次に"神や導師は絶対なので、❬そうしなさいi、してはならないi❭、という言葉にはどこまでも従わなければならない"、のだそうです。
これは私のように我の強い人間には絶対にムリです。自分は"こうしたい"のに、それを曲げ、殺して従うなんて...第一こういうのは盲従につながるではありませんか?
神に従うと言葉では言いますが、本当に神的なものの前にしたら、従わせる、従うという関係性など無くなります。それは自分自身の"内なる本心"に従うようなことなのだから...そこに服従とか盲従、洗脳などがあろうはずがありません。
私のような人間は、そういうものに出くわさない限り、心根が動くことは無いのです。
これはもう、奇跡と言ってもいいこと...神のなせる業という他ありませんi
これを書かれた方も、ゆくゆくは"~しようとする意志も明け渡さなければならない"、と言っておりますが、私にはどうしても"なそうとする自分"が主導になっているように感じてしまうのです。
そこに神が臨む...その前には私になすことは何も無い...ゆだねるということがあるだけ...
"最初からそんな世界は開かれないだろう"、という向きもあるかもしれませんが、神を慕い、ゆだねようとする意志は、最初から与えられているのではないでしょうか?
そうでなければ、そもそもそういう道に赴くことはないでしょう。
どこまでも、それは神のなせる業なのでしょう。
コメント
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