今からちょうど5年前、私が当時流行のノンデュアリティに幻滅を感じていた時、当時ここでも取り上げた、英国の神秘思想家ティモシー.フリークの「神秘体験」という本に出会いました。
その本は一見すると、過去に言い尽くされてきたことばかり言っていて、何ら真新しいことなど述べられていないように見えます。
ことにその原理主義的ノンデュアリティに特有の表現に染まってしまった者には...この著者は決して"悟った人間、そういう個人なんて居ないんですよ~"などと"悟ったみたいなこと"は言いません。むしろ進んでその神秘体験(これと悟りとどう違うかとかの詮議は置いといて...)へと読者を誘導しているみたいです。
そのことを宗教、哲学、科学、文学などあらゆる角度から解き明かそうとしているのです。
これは、どれもこれも似たり寄ったりの言い回ししかしない(これが幻滅を感じた理由の一つでした)ノンデュアリティ界隈には見られない、というより前言をひっくり返したような、そんじゃそこらではお目にかかれない稀有なる書というべきでしょう。
この著者がとても強調しているのは、"Waoi"、驚きの感情表明です。
悟ったつもりの、分かったつもりの頭には、驚きなんてありませんi 私なども例えば分かったつもりで、平然と例えば"現臨、神的なもの"について言ったりするかもしれません。でもそういう時は、現臨にはない状態、そこから閉め出されていることを意味しているのです。
だって、それは正に"現存在らしめる"ということなんですからね。それに在ることは、思いを超えていることであり、常に新しいこと、驚くべきことなんですi
読者の目は誤魔化しても、私自身、神には誤魔化しが利きません。これはとてもおそろしいことであると同時にそこに救い、平安があります。
私にとり、この驚きのもっともキョーレツなものは、その神の鉄槌を受けた時、私は"何も知らなかった、分かっちゃいなかった、何も出来なかったi"、ことを思い知らされたことです。これが人生最大のオドロキでなくてなんであろうi
これがとりもなおさず、神が私のど真ん中に示現する、ということに他ならないのですが、はじめてその鉄槌を受けて嗚咽を上げて泣いていたのが、私の偽りのない、ありのままの姿なのでした。このことはあのノンデュアリティを広めた立役者、大御所ブロガーだって知ってるはずです。
これがこの世の中が分からない、否けっして分かろうとしないことなんですi
これが思われた自分がどんどん自分を高めて行って、進んだ、悟った境地を目指している御仁には逆立ちしても分からないことなんですi
"悟った個人なんて居ないんですよ~"と宣っているところには、面白いことに"悟りたい人"がワンサカ集まるものです。
私はそのこと自体をどうこう言うつもりはありません。だって皆さんは悟りたいのでしょう?
自分の気持ちに正直になることには、良いも悪いも、エゴマインドもありません。
それがエゴだろうと、なんだろうと、そういう体験は素晴らしいこと、驚くべきことなんだ、ということが刷り込まれているのでしょう。
悟ったことを平然と宣ってる人なんか、以前はそういうウズウズした気持ちでいっぱいだったんじゃなかろうか?
私はそういう人たちに向けて、自分が通らされた道のことを言い表すことしか出来ません。
"神を信じ、ゆだねよ"
使い古された、出がらしみたいな言葉のように感じますか?
中世ドイツの神秘家マイスター.エックハルトは言いました。"考えられた神は神じゃないi"
考えられた私は私じゃない。
神秘の門に入るには神の鉄槌が待っているi
本当にそれを求めている人には神の方がほっとかないでしょう。
愛の鉄槌を持って神が待ち望んでいるでしょう。
その本は一見すると、過去に言い尽くされてきたことばかり言っていて、何ら真新しいことなど述べられていないように見えます。
ことにその原理主義的ノンデュアリティに特有の表現に染まってしまった者には...この著者は決して"悟った人間、そういう個人なんて居ないんですよ~"などと"悟ったみたいなこと"は言いません。むしろ進んでその神秘体験(これと悟りとどう違うかとかの詮議は置いといて...)へと読者を誘導しているみたいです。
そのことを宗教、哲学、科学、文学などあらゆる角度から解き明かそうとしているのです。
これは、どれもこれも似たり寄ったりの言い回ししかしない(これが幻滅を感じた理由の一つでした)ノンデュアリティ界隈には見られない、というより前言をひっくり返したような、そんじゃそこらではお目にかかれない稀有なる書というべきでしょう。
この著者がとても強調しているのは、"Waoi"、驚きの感情表明です。
悟ったつもりの、分かったつもりの頭には、驚きなんてありませんi 私なども例えば分かったつもりで、平然と例えば"現臨、神的なもの"について言ったりするかもしれません。でもそういう時は、現臨にはない状態、そこから閉め出されていることを意味しているのです。
だって、それは正に"現存在らしめる"ということなんですからね。それに在ることは、思いを超えていることであり、常に新しいこと、驚くべきことなんですi
読者の目は誤魔化しても、私自身、神には誤魔化しが利きません。これはとてもおそろしいことであると同時にそこに救い、平安があります。
私にとり、この驚きのもっともキョーレツなものは、その神の鉄槌を受けた時、私は"何も知らなかった、分かっちゃいなかった、何も出来なかったi"、ことを思い知らされたことです。これが人生最大のオドロキでなくてなんであろうi
これがとりもなおさず、神が私のど真ん中に示現する、ということに他ならないのですが、はじめてその鉄槌を受けて嗚咽を上げて泣いていたのが、私の偽りのない、ありのままの姿なのでした。このことはあのノンデュアリティを広めた立役者、大御所ブロガーだって知ってるはずです。
これがこの世の中が分からない、否けっして分かろうとしないことなんですi
これが思われた自分がどんどん自分を高めて行って、進んだ、悟った境地を目指している御仁には逆立ちしても分からないことなんですi
"悟った個人なんて居ないんですよ~"と宣っているところには、面白いことに"悟りたい人"がワンサカ集まるものです。
私はそのこと自体をどうこう言うつもりはありません。だって皆さんは悟りたいのでしょう?
自分の気持ちに正直になることには、良いも悪いも、エゴマインドもありません。
それがエゴだろうと、なんだろうと、そういう体験は素晴らしいこと、驚くべきことなんだ、ということが刷り込まれているのでしょう。
悟ったことを平然と宣ってる人なんか、以前はそういうウズウズした気持ちでいっぱいだったんじゃなかろうか?
私はそういう人たちに向けて、自分が通らされた道のことを言い表すことしか出来ません。
"神を信じ、ゆだねよ"
使い古された、出がらしみたいな言葉のように感じますか?
中世ドイツの神秘家マイスター.エックハルトは言いました。"考えられた神は神じゃないi"
考えられた私は私じゃない。
神秘の門に入るには神の鉄槌が待っているi
本当にそれを求めている人には神の方がほっとかないでしょう。
愛の鉄槌を持って神が待ち望んでいるでしょう。