宗教的な道に関わる人の中には、例えば、"人間は肉体界のみで生きているのではなく、幽界、霊界にも同時に生きているのです..."とか、"前世とか来世というものがありまして..."、などと本当に自分が得心している訳でもなく、他人が言っている言葉を丸のみにして、さも自分の言葉のように言ってしまう人間もまま居るものです。
人の言葉を借りるのも一向に構わないし、そう述べられることも事実かも知れませんが、私にはこういうのはある種の"盗用"にしか思えません。
本当に自分がそう思え、そう感じてこそ自分の言葉として表されるものでしょう。
これは信者意識に囚われているということで、その教祖さんの意向なのかどうかは分かりませんが、教団側は、"教祖の言葉に疑いを持ってはならない、私情、私心を持ち込んではならない"、などと誘導してくるものです。私はある教団の信者だったからよく分かるのです。
こういう人は、おそらくそういう思い方のクセから抜け出せないのでしょう。
これでは中々本心に光が照らされ、開かれることは難しいでしょう。
又霊界とか前世など、常人には確証出来ないことに思いが囚われること自体、本心に意識が向けられず、そこから離れて行くことにもなりかねません。
40年前、私に"現臨"らしきものが芽生え始めた頃、東京の道院という宗教結社に行った時、ある若いメンバー見習い?の人が、霊界に移行して、"そこはこうなってて、ああなってて..."、と詳しくはいちいち覚えていないですが、さもそれを見てきた景色のように描写して語っていました。
私は聞いていて少しもリアリティが感じられず、"だからなんだ?"と思ってしまったのでした。
何故そう感じるかというと...その時は現臨にあって、意識が自分のうちに向かわされることにリアリティを感じていたからです。それは見たり、聞いたりする感じとはまるっきり違うのです。
ちなみに道院というのは、フーチによる神霊のお告げがあるので有名なのですが、そこでは"奇異なことをみだりに語るのは、慎むべしi"、という、さほどきつくないルールがあり、当時毎月のように降された、その神霊の訓示というのは、もっぱら"本心を明らかにせよi"というものだったのです。
私は霊界も前世といったこと自体を否定する者ではありませんし、先人の残した言葉にも多いに共感もしています。
でも、それが本当に自分自身の真実として受け入れられ、理解されるには、外からの言葉を丸のみし、又丸投げしてしまうのでなしに、自分自身の本心(それが現臨でなるものあろう)に向き合い、そこからの光に照らされなければならないでしょう。
人の言葉を借りるのも一向に構わないし、そう述べられることも事実かも知れませんが、私にはこういうのはある種の"盗用"にしか思えません。
本当に自分がそう思え、そう感じてこそ自分の言葉として表されるものでしょう。
これは信者意識に囚われているということで、その教祖さんの意向なのかどうかは分かりませんが、教団側は、"教祖の言葉に疑いを持ってはならない、私情、私心を持ち込んではならない"、などと誘導してくるものです。私はある教団の信者だったからよく分かるのです。
こういう人は、おそらくそういう思い方のクセから抜け出せないのでしょう。
これでは中々本心に光が照らされ、開かれることは難しいでしょう。
又霊界とか前世など、常人には確証出来ないことに思いが囚われること自体、本心に意識が向けられず、そこから離れて行くことにもなりかねません。
40年前、私に"現臨"らしきものが芽生え始めた頃、東京の道院という宗教結社に行った時、ある若いメンバー見習い?の人が、霊界に移行して、"そこはこうなってて、ああなってて..."、と詳しくはいちいち覚えていないですが、さもそれを見てきた景色のように描写して語っていました。
私は聞いていて少しもリアリティが感じられず、"だからなんだ?"と思ってしまったのでした。
何故そう感じるかというと...その時は現臨にあって、意識が自分のうちに向かわされることにリアリティを感じていたからです。それは見たり、聞いたりする感じとはまるっきり違うのです。
ちなみに道院というのは、フーチによる神霊のお告げがあるので有名なのですが、そこでは"奇異なことをみだりに語るのは、慎むべしi"、という、さほどきつくないルールがあり、当時毎月のように降された、その神霊の訓示というのは、もっぱら"本心を明らかにせよi"というものだったのです。
私は霊界も前世といったこと自体を否定する者ではありませんし、先人の残した言葉にも多いに共感もしています。
でも、それが本当に自分自身の真実として受け入れられ、理解されるには、外からの言葉を丸のみし、又丸投げしてしまうのでなしに、自分自身の本心(それが現臨でなるものあろう)に向き合い、そこからの光に照らされなければならないでしょう。