人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神は避け所

2020-01-12 10:28:26 | 
私が最近書いていることには、やたらと「神」という言葉が出てくるんじゃないかと自分でも思います。
これはよく分からないことの代名詞として使えるので、よく分からないことを書くのに便利だということもあるのですが、それだけじゃありませんi
私は今、巷で宗教やスピ界隈のことがどう受け入れられ、どう理解されているのか知るために、よくネットなどを訪ねているのですが、界隈の人たちなら主我的な思い、エゴマインドに対してどう対処すべきか、どう離れるかということに関心を持たない者は居ないでしょう。
然し...私はいつも愕然とさせられてしまうのですi
何と、その界隈には主我的な思いがまとわり、それで覆われていることかi
非常に逆説的なことで、この辺りの消息を伝える表現の例として、"私は完全覚醒に達しましたi"とか、"私にはエゴマインドなど一切残ってませんi"、といった、"何で自分で言うのかi"、と感じさせるものが挙げられます。
そういう人にそのような契機が本当にあったにせよ、こういう言葉から"主我的なものが、主我的なものの中で、主我的なものに帰してしまっている"ものを感じられないでしょうか?
私はこういうスピ界に蔓延しているものを観るにつけ、"こういう世界にゃ足を踏み入れたくないなあ"、という気分にさせられたのでした。
何しろ、人一倍自意識の強い私のこと、そのクモの巣のようなマインド.トラップには散々苦しめられましたので...いや今でもそうです。自戒せずにおれましょうか?
そこで、別段、如何にしてそのトラップに陥らないか、ということを意識していた訳ではないのですが、自分がそもそも目覚めの契機、その道を歩む上での気付き、理解というものは何によってもたらされるのか?、ということに思いが至り、原点に立ち返ってみて、"すべては神(的なもの)に依っている"ということに導かれたのです。
神は主我的な思いの罠からの最大の避け所ではないでしょうか? 何よりもそれは思いを超えているもの...だから我々は、それにより思いを超えることが出来るのだから...
神は主我的思いの袋小路からの落とし所なのです。
そのものにより、マインドが開かれる...
思われた自己からはけっして為し得ない、"ゆだねる"ということが起こる...
同じく、"化される"(しばしば言っている表現ですが、これは例えば業的なものが、その業ならざるものへ昇華されるような意味合いで使っています)ということが始まる...
私は伝統的な宗教よりも、ことに新しいスピの道で、何が欠落しているかと言ったら"帰依"の心だと思います。
悟りや救いというものは、かつては宗教的世界と切り離しては考えられなかったのです。
帰依心を欠いた悟りへの道など全く問題にされなかったのです。
もっとも今日の様態のようになってしまったのも、観念的な神しか説かず、形式に堕してしまった宗教に負うところも大きいのでしょう。
でも、今日は特定の宗教やスピに与することでなしに、一人一人が内なる神に向き合える時節のようにも感じています。
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どうしようもない悲しみ

2020-01-11 10:21:27 | スピリチュアル
毎度のことながら、自分があることについて、人がそう言っていることでなしに、リアルにそう思い、感じられるか、どうかということは、自分自身を生きる上で極めて大切なことだと思うのです。
自分を生きることが仮初めなことでないならば...人間が生まれ、そして死んでゆくのは仮初めなことなんでしょうか? 自分自身に問うてみられよ。
例えば非二元論者が言うように、"自分は居ない、すべてはストーリー、幻想..."といったことで、本当に納得出来るでしょうか?
本当にそういうことがリアルに思え、感じるのでしたら、それはそれでいいでしょう。だけど、それはそういうあなたのことであり、私のことじゃありませんi...だから毎度私が感じたことを書いているまでなんですけど...言わずもがなのことで...

私が"現臨に捉えられる"と言っているのは、思考機能が後退してしまった意識状態なのですが、それはけっして人がトランス状態というもので連想されるような、錯乱状態ではありません。
思考はともかく、意識はむしろ普段よりはるかに明晰になっています。考えることは出来ませんが感じることは出来るのです。
この感じっていうのが、そりゃもう、普段より数倍もリアルなのですi
これは多分思考が介入してないためにダイレクトに感じられるためでしょう。だからと言って、それが即真実だとは言えませんが、そのリアルなもの無くして真実などどこにも無いとも言えるでしょう。
最初にそういうことになったのは、とてもキョーレツなもので、それこそトランスになったみたいに"ワン、ワン"泣くしかなかったのでした。
とめども無く涙が込み上げてくる...それは、どうしようもない歓喜を感じていたからなんですが、これは今まで語ってこなかったことです。(その理由はどう表現していいか分からないからなのですが)そこにどうしようもない悲しみみたいなものを感じていたのです。
何か途方もない神的なものが上昇してくる、現れ出ようとしてくるものを感じる...そしてそこには何かすべての人類の悲しみが、願いが込められているようにも感じられたのです。
"生きて死に、果てていった幾多もの命の営み...何一つ仮初めなものなどあろうかi
これはすべての人類の宿業みたいなものが化されてゆく姿なのだろうか?...移ろいゆくものの悲しみ、消え果ててゆくものの悲しみ...だがこの神的なものの上昇には、そうしたもののある永遠性も隠されているのではないか?"
そこにとてもリアルなものを感じるのは、"私という私性"と切り離されていないからだと思います。
現臨に捉えられた世界に示されるのは、確かに分離の無い一元的な世界です。しかしそれはこの二元的現実世界と切り離されていない、分離してない、ということでもあるように強く感じています。
幻想というのは一元、二元どちらかが真実で、どちらかが幻想だという偏った観方、感じ方にあるのではないでしょうか?...
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個と普遍の覚醒

2020-01-09 11:59:13 | 覚醒
多くのノンデュアリティでは、"時間というものは元々無い"という説き方をしています。過去も未来も無いのだと。
従って、その界隈では2012年が過ぎても、今なお根強く信じられている所謂アセンション(これはこの世の終わりまで続くのか?、その関連の人たちは、"今年が大きな節目の時を迎える..."、と言っているようですが、う~ん、そうかな?)のこととか、地上天国の実現、あるいは世界の滅亡といった予言的なものには触れないのが普通です。
そして"今、ここにあるのが幸福なことで、完璧で、未来に起こるであろうようなことは幻想に過ぎない"、などと言ったりするのです。
私はその教えにハマりかけていた時、(例によって)そう思おうとするものの、どうしても心から思えない、感じられないものがあったのです。
(ていうか...これは、極めてあったり前のことを言ってますよね? 私はああいう特殊な人になろうとしていたのです。だって、それが常に悟った人のステータスのように言われていたから...ただ私のエゴマインドを擽られていただけという、じっつにイタイ話ですi)
これは、あの至福に与った時でもそうだったのです。私がそれに与ったとしても、心からそう感じさせない、体が頷いてくれないものがある...
それは私の見ている世界はそのように映っていないからです。
というより、この我々の現実世界とは、まんまその世界の裏返しではないかi
この意味は、実はその時垣間見せられた世界というか、意識状態に隠されていたようです。
"私は一コの私だけで生きているのでは無かったi ...私は私のままで、あらゆる他己とのつながりにおいて生きているのだった..."
これがこの世には求むべくもない、普遍世界というものの内実なのでしょう。
普遍というのは、私という私性無しでは決して認識出来るものではありません。だからノンデュアリティで言われるような、全体というもの、"全体しかない"、という言い回しにはどうしても頷くことが出来ません。
たとえ私が悟境に達し、救われたとしても私における、このつながりにおけるこの現実世界は如何?
個々の悟りや救いがあったとしても、それは所詮、"かたちんば"、不十分なものでしかないのではあるまいか? いや個が個のままからそれを求め、得られると思うこと自体が錯覚なのではあるまいか?
私は、"私は真の悟りを得た!"と自認する自称覚者たちにこう言ってみたいです。
"誰も真の悟りを得ることは出来ない!  何故ならば我々の世界はかくのごとくあるからだi"、と。
では、個的なものと、普遍的なものとが結び付いた、全一的な世界ごとの覚醒ともいうべきもの(これが神の国、地上天国の実現を映し出す)があるのでしょうか?
それは...神のみぞ知るところでしょう。
他の神の言葉に迷わされてはならない、あなたの神に聞くしかない...。
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現実世界と普遍世界

2020-01-08 11:04:32 | 哲学・思想
この現実世界に生きるということは、言うまでもなく他者との関わり、何らかの社会の中で生きるということです。
私のような半ば世捨て人であっても、その中で生きている人間としてより良い社会、拡大しては世界人類の平和を願うことは当然のことでしょう。
私はこれまで幾つかの宗教、スピ関係の集まりに接してきた中で、熱心に社会活動に取り組んでいる人とも会いましたが、彼らの多くからはどうも私は、神とか霊なるもののことばっかし語っている、非現実的な夢想家のように見られていたようでした。
もっとも私は私で例えば、道端で"ミ~、ミ~"鳴いている一匹の子猫をどうすべきか、ということが現実的な問題に映り、動物愛護運動といったものが、夢想的に映ったりしているのでお互い様みたいなのです。
彼らの多くは、内なるものにあまり意識が向かわず、この目に余る不調和の、混迷した現実世界に目が向けられていて、その状況をどうにかしたいという気持ちに駆られるようです。
その気持ちも分かりますが、彼らからは"今、ここ"で分かちあえるような平和、平安というものは伝わってきません。
たとえ、戦火が静まり、不平等、格差というものが改善され、自然災害から社会を防ぐことが出来たとしても(それらが無意味だと言っているのではありません)、それで真の平和に与ることが出来るのでしょうか?
置かれた環境、境遇などに左右されない平安というものは見い出されないのでしょうか?
彼らとはどうしても"意識がどこを向いているか"、ということを巡りどうしてもズレが生じてしまうのです。
"もし、ここに数人の人たちが居て、そこで"今、ここにある平安"に与ることが出来れば、それ以外のすべての他の人間にもそれが開示されないだろうか?"
このことは、ここでは深く触れませんが、この見える現実世界のことではなく、普遍的(現実)世界のことを言っているのです。
私もちょくちょく使わせてもらっているこの普遍性というのは、実は不思議な言葉で、少なくとも私は、目に見えるような具体例として普遍的なものを示すことは出来ないのです。
"あの人には何か普遍的なものを体現しているように感じる"、ということは言い得ても具体的に何が、ということは分からないのです。
おそらくは、そういう言葉こそあっても、この現実世界ではどこにも見い出し得ないものなのかもしれません。
言い換えれば、この世界に溢れているものは、普遍ならざるものばかりだ、ということでしょう。
でも、それは見ることも掴むことも出来ないものだけど、感じることは出来るのではないでしょうか?
これは、おそらくは神という言葉と同じなのでしょう。
宗教信者の言う、抽象概念じゃない、神というもの...それは信じるとか信じないといったことが取り沙汰されるだけで、この世に一度も姿を表したことはないものに違いありません。
でも、それは感じて言葉に言い表すことは出来るのです。(そこに真実味があるかどうかは別として)
そうと知らずに一人一人の内に息づいているものだからでしょう。
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M様へ

2020-01-07 04:03:20 | 人生の教師
※これは、五井先生と縁の深い、あるブログ主へのコメントのつもりで書いたものです。

M様、いつも拙ブログをお読み頂いているそうで有り難うございます。
余計なことかもしれませんが、私自身分からずに書いてたりするので、あまり分かろうとしない方がいいかもしれません。(笑)
僅かなりとも、読者の心に響くものがあればいいな、と思って書いている次第なのです。

ところで、私は所謂悟り系のスピについて随分書かせてもらっておりますが、私自身は悟り系とは思っておりません。
一時はそういう方を目指そうと思ったことはありますが、今は例えばその道を極めようなんてことは、業生ゆえ諦めているし、その思いから離れています。
今はもう、とにかく神(的なもの)がこんな私に迫られるのが、勿体なく、有り難くて...ただただそのものと共にある、一つにならんことを願うばかりなのです。
貴方は悟りの方と地上天国実現の方とを対比されているようですが、具体的な活動こそしてませんが、地上天国、神の国の実現という願いも私の中にはあります。神に迫られるとそういう風になるのが普通だと思われます。
五井先生も言われるように、自分自身を深めてゆくことと、地上天国の実現というのは切り離されないものなのでしょう。
少なくとも、私にはこの私自身平安(平和)というものが分からなければ、世界平和のことは分かりようがありません。
そして又、先生が言うには、"個々の悟りも世界平和も神無しには実現しないのだ..."と。内外を観るにつけ、実にその通りだと感じます。
「世界平和の祈り」の道については、肝心の白光会自体がそれを引っ込めている事態だし、挫折したように思います。
しかし、それが本当に失敗だったか、どうかは最後になってみなきゃ分からないのではないでしょうか?
このことは勿論五井先生に縁を持った個々についても言えることです。
貴方はいつも真摯に自分に向き合われていて好感が持てますが、本心を開くことが主眼だったはずが、妄想世界の住人を多く作り出してしまったことも失敗だったと思います。
結局のところ失敗だったか、どうかは他所の人間のことでなく、自分自身に照らされるものでしょう。
私については「世界平和の祈り」の道は、形の上ではとっくに挫折しています。この意味では失敗でしょう。
でも、そういう形、方便的なものによらない私自身の生、又世界の運命については、最後にならないと分からないと思います。
最後には神がモノを云うのではないでしょうか?
これも五井先生が度々言っていることです。
地上天国派の"大本"、出口王仁三郎師は、"あらゆる人間が名称はどうあれ、宗派を超えて各々の神に帰一すれば、地上天国は実現する"、と言っております。
私は五井先生にこのような普遍的な精神も見ているのです。多くの人が神とつながれば、地上天国が開かれるともアチコチで言っていました。
宗教も信仰も行法も廃れ、捨て去られる...人伝に聞く神は死んでしまったかもしれませんが、我々一人一人のうちに神は生き続けるでしょう。
私たちに神が表れますように...
と祈らされるようにいつも書いているのです。
今後とも宜しくお願い致します。
コメント (5)
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