人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

叩けよi さらば開かれんi

2020-01-03 10:50:22 | 祈りと瞑想
"怖いi
もうダメだi
私の神様、どうか助けて下さいi
私が考えている、信じている神ではもう、ダメですi
本当に、本当に私につながってくださるあなたでなければ..."

40年ほど前の年の暮、私は身に迫る恐怖から逃れようと、そうして一心不乱に"私の神様"に祈ったのでした。
神が本当に居るのか、どうかは知りません。でも祈らずには居れなかったのです。
そして...何か雷に打たれたようになったかと思うと、意識が飛びそうになり、人目もはばからず路上にへたり込んでしまいました。頭を起こすことが出来ない...ポーズでなしに、本当にひれ伏さざるを得なくなってしまったのです。
その後、一月ぐらい、いつそのように意識に異変が起こるかしれぬような状態が続いたのでしたが、私はその状態が回復され、代わって平安な意識状態がもたらされた時から、"思いを超えた導き"を受け始めたようにも感じていたものの、よくよく思えば、そのアブナイ事態からだったと感じています。
意識がアンバランスな状態と、平安に包まれる時のそれと気分的にギャップがあるので、先のように感じてしまうのでしょう。
私の場合は一寸極端な例で、あまりむちゃくちゃに祈ることはアブナイのでお勧めはしませんが、やはり祈りから始まったのです。
何の神様に、どうやって祈るかなんてことは所詮他人行儀なことです。世間に伝えられているように自分で考えて、信じて、行じられる"やり方"に従うのも結構でしょう。
"OO教でなければ、OOの祈りでなければ..."だと ...あなたの神はそんなにケチくさいのかi
本当の、私の、あなたの神様はそういうものをすべて超えているのですi 神的なものなしに思いは超えられませんi
そして、観念でない、実存的な神は我々の意識に根付いて下さるのです。
"意識が向いたら、パッと..."、という即応性はここからくるのです。
私は、あの冬の夜の冷たいアスファルトに手を触れながらも、その厚い壁をものともせずに伝わってくる息吹を、そうと知らずに感じていたのです。回線の接続には暫し時間がかかりましたが...
"叩けよi さらば開かれんi"
思われた自分からは何も開かれないものですが、ただ祈ることは出来ます。それが神的なものに意識が向けられることにつながるのです。
真に望めば、きっと臨んでこられるでしょう。
私は懸命に叩くようなことをしていたのですが、叩いていたのは、あの御方の方だったのかもしれません...。
コメント
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