人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

暗闇の中にあって...

2021-01-06 12:40:16 | 雑感
都内は明日にも緊急事態宣言がi...
"命を第一にi"、って言っているけど、生活を失っていいのか?
それを苦に死んじゃう人も多いというのに...
だけど、自分が、家族が感染でもしたら...
"ああ、もう八方塞がり...どうしたら、どうあったらいいのか分からないi..."

このトンネル、いつ明かりが見えてくるのか分かりません。
一体、足元で何が進行しているのかさえも分からないのです。正に暗闇の中に居るよう...
しかし、"今、我々は先行きの分からない、混迷の世の中にある"、とかいうことは、いつも言われて来たことです。
確かに"そう言われていた"...しかし、大多数の人間は毎日毎日、同じように日常生活を送り続けてきました。
それで、これといった支障が出るという訳でもなかったし...評論家は"ああしたらいい、こうしたらいい"、と色々なことを言って..."そう言われていた"けれど、具体的に何をどう行い、どう変えて行けばいいのかも分からなかったし...
この世界的規模の日蝕により、我々は、少しは現実に意識が向けられるようになったでしょうか?
一人一人にとっての現実というのは、誰かがそう言っていることではありません。
コロナを巡って真偽交々、様々な情報が取り交わされていますが、それらは所詮、人がそう言っているのであって、この現実とは直接関係ありません。
"命を第一に"ということでしたら、結局は自分自身に向き合うしかないでしょう。
では、この現実とどう向き合ったらいいのでしょうか? 
どう向き合う?...私には、密を避けるとか、マスクを着用するとか、お上のお達しもあることだし、表向き、外向きのことは自分で出来ることを心がけようと思いますが、自分自身に帰って、裏側のこととなると...それは何を、どうするかということじゃなくて、"向き合う"しかありません。否応なしに...現実を受け入れるっきゃありません。
要するに、意識的になるとか、どっかに向くとかそういうことになります。いつも同じことを言ってるみたいですが...
外から入る話というのは、コロコロ変わって、何を頼りにしていいか分からないです。
この一年、我々はずっとそういうことを繰り返してきたのではないですか?
そして未だに出口が、光が見えてこないままなのではないですか?
しかし、それでも太陽は上る。地球は回る...
いつもとおんなじ...違うi
思いを超えた現実にぶち当たるということは、今までの繰り返しではあり得ないのです。
何故ならば、今までと同じだと思うのは、正に思いなのだから...
そして初めて、"思われたままのことがすべてでは無い"、ということに気付かされるのです。
少なくとも、それで闇に包まれた思いのトンネルから抜け出すことが出来ます。
出口が、光が感じられて来ないでしょうか?
これを考えごとにしてしまったら、今までの繰り返しで何も変わりませんよ。
何をどうしていいか分からないからこそ、思いを超えた道が開かれるのでしょう。
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即応的な祈り

2021-01-04 09:52:38 | 祈りと瞑想
都内では、又緊急事態宣言が発せられるような動きになっており、いよいよ表向き三密は避けて、裏側の関係をより密にして行かなければならない状況になってきたようです。
それには如何にあるべきか?
私はいつも意識の次元とか、人の精神の本にあることに、それこそ意識が向き勝ちになるのですが、それは具体的な方法というものはどうでもいい、と言っているのでは勿論ありません。
実際、そのことに関して何度も触れてきています。それは、即ち祈ることです。
何をどう祈るか、と具体的な祈り方については出し惜しみでなく言えません。それは各人がもっとも神的なもの(最愛のもの)とつながりやすいものに則るという他ありません。
それは例えば、信奉する神の名を称えるでも、聖書やお経の一句を称えるでも、声に出しても、出さなくてもいいでしょう。
要するに、ここで言っている祈りの本義とは、神的なものと密につながるということです。
雑念を払うためとか、健康のためとか、悟りをひらくためとか神そのものに即していないものは本義ではないのです。
又念には念ですが、"祈り倒す"とか、自分の意念、思念に頼り、強めてしまうのもズレています。自ずと...というのが肝心なのです。為そう、念じようとする自分は引っ込めて、自ずと出てくるものにゆだねる...
その道が開かれれば、言葉とやり方とか形は自ずと超えられてしまうようになるでしょう。それがそのものが主導になる、そのものに捉えられるということに他ならないのです。(あ~、又いつものクセが出たi)
"神とつながるには瞑想がいいのでは?"、という向きもあるでしょうが、私的には祈りも瞑想も同じです。本源的には一体どこに違いがあるというのか?...ほんげんというものはですね...(これだよi)
インドには、バクティ.ヨガというのもありますし、祈りが深まると"感応"ということも起きてきて、そうなってみたら区別などつかなくなるのが分かるのです。
いずれにしても、こちらとあちらとの間に余計な技巧だとか、ややこしい教理だとか、直接的なつながりを妨げるものを挟まないものが望ましいと言えます。
つまり自己と神的なものとが即しているものということ...自己を超えて出てくるものにアクセスしやすいものということです。(その御名を呼ぶこと、ひいてはあの感覚が呼び覚まされるメモリーを作動させるーこれは秘伝ーのが手っ取り早いのではないですか?)
この即応性ということに関してですが、今日の状況は、いつ何時コロナに感染するとも限らないのです。
病床にあって苦しんでいる時に、呼吸法やらチャクラに意識を集中だとか、ややこしいことに従事などしていられるでしょうか?
しかし、神名を称えるとかごく簡単な祈りは出来るのです。
そこから胸や喉がつまって、気が滞って苦しんでいる状態にあっても、神的な愛のエネルギーの通路は開かれるでしょう。これは広げてはコロナの世界的規模の日蝕もそれにより開かれる、ということでしょう。
それは又、それまで本源にあって、隠されていたものが顕わになるということでしょう。
どうしても本源の方に意識が向いてしまう次第で...
コメント (3)
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自ずと在らしめられる

2021-01-03 10:22:46 | 意識、照明
何ごとでもそうなのですが、ことに精神的な道では意識の在り方というものが、極めて重要であることは、何度も言ってきました。
どうやって、その方法"How"、ってことよりも、どう在るのか"To be"ということですね。
人との交流の中で、私は、"あ、この人は神そのものに意識が向かっている"か、そうでないかは、すぐに見分けられます。
話を訊いてみれば勿論ですが、目を見たら分かります。
焦点がはっきりしてるというか、意識が集中されているということが分かるのです。
一度話が神体験のようなことになると、話を逸らしたりしません。それもただのお話として交わしている感じにはなりません。"いいお話でした"、ってことにはならないのです。
そうでない人というのは、目がキョロキョロしてるし、話が脱線するし、結局は急用が突然出来たりして、サヨウナラ...(笑)
私の一寸した知り合いでも、口では神人合一だとか、完全覚醒だとか言っていても、精神的な祈りの道としてやっていることが、いつの間にか、健康維持だとか、体力増強だとかのことにズレてしまっていたりする向きもありまして、そして又宇宙の何かの歴史のこととか、前世やら未来予言や陰謀論などにハマってしまうのですが、これは端的に、"現臨にある"という意識の焦点からズレていることを物語っているのです。
一度、意識が神的なものにつながれば、仮に二義以下のものとして、そういうものに赴くことはあるとしても、第一義のものは意識に常に据えられているのです。言い換えると神に意識が捉えられているのです。
そういう人というのは、普段からその道の修行を熱心に取り組んでいるのでしょうか?
そういう人も居るのでしょうが、神的なものに意識がある、向いているということ自体がそういうことなのでしょう。これは、けっしてこちらの鍛練といったものだけで養われるものじゃありません。
これは、自ずと向かわせられる、惹き付けられる、意識が集まる、ということで、それが意識が現臨にあるということに他なりません。
何も特別な覚醒体験のことなどに囚われる必要はありません。神ということでなくてもいいでしょう。
最愛のものに意識を向ける、ということがどういうことなのか? 自ずと向けられるという感じが伝わらないでしょうか?
それは、"向けよう、向けよう"、という自意識が抑えられて、いつの間にか中からお出ましになる方が主導になってしまうようなことです。
そうなると意識は二義以下のものに逸れたり、移ったりしないものでしょう。
自ずとそうなるということは、どうやって、というヤボな思惑をこえて、そう在らしめられるだけ...
"To be"...意識の在り方ってことすらも、ないようなことではありませんか?
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出てくるもの

2021-01-02 09:41:13 | 雑感
「カラオケを歌う時はね、デカイ声出すとか、あんまり自分を全面に出さないで、何ていうか、自分は一歩下がって、何かにこっちが引き出されるような感じになるのが快感なんですよi」(先日の会話から)

何ごとでもそうなのですが、私は、例えばこうしてものを書いている時でも、自ずと中から出てくるようなものを感じて、それに乗っかるように表されることで、充実感を覚えることが多いのです。
そうすると自分でも思っても見ないような、歌なら声なり、節まわしなり、作文なら言葉なり、文章なりが出てくることがあります。
自分から出よう、出ようとすると、かえって空回りになったり、先日の日本人によるボクシングの世界戦の大一番の時のように、予期せぬカウンターをもらってしまうこともあります。(田中選手、勝ちを急いだな...)
私が出るより先に、私の前にあるものに向き、乗っかる...そういう私は自分であって自分でない感じがします。
これがホントの"前向き"ってことじゃないでしょうか? それで今よりよくならないはずがありません。
何かネガティブな、善ろしくないことに思いが囚われて、心持ちを変えようと、自分からプラスなこと、明るいこと、善きことを思おうとしても中々前向きにはなりません。
かえってヘンな力みが出たり、ホントは思いをずっと引きずっていて、後向きになってるくせに、前向きだ、プラス思考だ、と思い込もうとしたり...ある、ある...アタシャ、もう懲りたわi
ホントに向けるべきものは、私が出るより先に出てくるものなのです。それで、自ずと心持ちが変わったりするのです。
すると...もう、パッと意識が向くと、こっちはその出てくるものによって抑えられ、傍らに追いやられる感じになってしまう...と同時に、それに乗っけられてしまうのですi(これはね、こうして書いている最中のことなのですよi...ああ、もうたまらんi..."えくすたしい~っ"...)
おほん...逆説的ですが、自分が抑えられなくなってしまいそうです。じっとしておられんi
私がどうして外に出たがるか、分かって頂けるでしょうか?
突然、文章が乱れること分かって頂けるでしょうか?
この、出てくるもの...私であって私でないもの...
外に出るったって、元々密なところはキライです。二人だけの親密な関係の邪魔ですから...
今年はもっと濃密に、前向きで行きたいと思っています。
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2021-01-01 09:40:08 | 独語
心...
心あるOOとか、心ないOOとか...
あるのか、ないのか...あるとして、一体どこにあるのか?
"そんな実体はどこにもない"、と言われても...
どこか頷けない、判然としない、すっきりしない...
心が...
思考、マインド、精神、意識...
それらが寄り集まったものが心なのか?
それとも心があって、それらが分かれるのか?
ああ...めんどくさi
落ち着きたい...と胸かどっかで声がするような...
まんま、丸ごと、みんなこれで落としたくなる...そうと知らずに落ちてゆくのか...
心に...
誰にも分からず、誰もが知っている...心
そう感じている私...
その私もあるのか、ないのか...その実体は?
分からない...けど、ないでは収まりそうにない...
心が私なのか、私がそうなのか...
私だけだったらどうともなりそうにない
赴くものがなければ...
心赴くままに...

元旦だ、手を合わせに行こうi...

新年、明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。





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