人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

無の道、人の道、神の道

2021-01-14 11:45:32 | 求道、探究
人間というものは、物心つく頃から、とにかく今よりも賢く、強く、前に進む...といったことが意識付けられて生きてゆくものですね。
人間の生とはそういうものだと言ってもいいでしょう。
それには、賢く、強く、進歩させるものが"有れば"いい、と追い求めてゆく訳ですね。
そういうものをどんどん身につけ、積み重ねてゆくことが豊かな人生につながるのだと...
そんなものは無くてもいい、とは誰も思わないでしょう。
それで、そうした思い方、生き方を悟りとか神とつながる道にも適応してゆける、と思っている人も世の中の大勢がそうなのだから、結構多いのかもしれません。
だけどイエスでもブッダでも老子でも、十字架を背負うと言ったり、己を空しくする、無になる、ということを説いていたのです。
そういうことも知識としては知っているのでしょうけど、現実に持てる知識や力が無くなる、手放すことになると、そこまでには思い至らないのが普通でしょう。
だから...精神的な道に関わる多くの人たちは、今の信仰を、修行をもっと精進してゆくことで、自分がより賢明に、強く、進化してゆくものだと思い込んでいるのです。
精々、精進してゆくことで、そのうち空や無になるだろう、ぐらいに思っているのでしょうが、その日は永久に来ないかもしれないのです。
神が直接その思いを無化せしめたもうまでは...
要するに、自分の信仰、修行、思い、力によって無になれる、自分がそういう境地に達することが出来る、と思い込むことが根本的にズレていることなのです。
いざ、持てるものを手放そうとしても、上述したようなことが心根にこびりついていて出来やしないでしょう。
そうでなければ、手放すことなど意識せず、超能力や何かの知識、力、はたまた悟りの境地といったものまで、自分で獲得しようと目論み、益々自我が肥大して行き、益々無の道、神の道から遠退いて行ってしまうのでしょう。
神の道というのは、実に諸刃の剣と言わねばなりません。
神の道は、人間の道からしたら狂気の沙汰なのかもしれません。誰が持てるもの、努力して培ってきたものを手放すとか、そんなネガティブに感ずることに足を踏み入れようか?
こればかりは、神に捉えられ、無化のハタラキに与ったものにしか分からないでしょう。
大概の人が恐れているであろう、無になる、手放すことと言っても、私の経験では、ホントに持てるものが無くなる訳ではありません。これはより有り体に言えば、"これまで、これこれが自分、世界と、かく思っていたものがすべてでは無かったi"、ということに目覚めさせられるということに他ならないのです。
そして、"思いを超えた世界というものはかくも素晴らしいものかi"、ということにも...だから、手放すことが出来るのです。
このように、神の道というのは、最初から最後まで神の成せる道であり、我々はただそれに乗っかっていればいいとも言えるのです。
だからして..."神そのものを求めるに如かず"、なのですi
これはしかし、人間の道あってのものだということも確かなことです。私の目はまだ黒いことだし...。行き詰まったりして、思いを超えた道が開かれることで、きっと素晴らしく感じられるのでしょう。
しかし、しかし、人(霊止)の道は、人間だけの道では成り立たない、ということは今日の人間の世界の有り様に見るようにもっと確かなことのように感じます。
いやが上にも、裏側の道が顕わにされてゆくのを覚えます。
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マイスター.エックハルトと無の道

2021-01-11 10:44:11 | 人生の裏側の図書室
「人間は自分の頭の中で想像した神に満足してはなりません。何故なら(神に対する)想像が消え失せるにつれて、神も消え失せるでしょうから。むしろ我々は本質的な神を持たねばなりません。このような神は、人間の想像とあらゆる被造物の想像をはるかに越える方なのです」
(マイスター.エックハルト「神の誕生」/エンデルレ書店刊)

中世ドイツの神秘思想家マイスター.エックハルトの本を久しぶりに読んでみました。
初めて読んだのは40年ほど前で、とにかくものすごく心が揺さぶられたのを、昨日のことのように覚えています。
何をどう、理解したかはともかく...いや、簡単に理解した、分かったなどと言ってはいけないのでしょう。ことに神については...
エックハルトは、修練を通して、我意から離脱することで、神との一致の道が開かれると説いているのですが、その修練の具体的な方法などについては述べられていません。
それは、残された彼の言葉から伺えるように、当時、修道院で広く行われていたであろう、断食、徹夜といった厳しい規則や苦行に則ったものでは無かったのは明らかです。何故ならばそれも我意から来るものだからです。
彼が強調するのは、専ら神そのものを求めることにあったのです。その神は、外的な像ばかりでなく、心に描かれる如何なる像からも離れたものでなくてはならないと言います。
「誰かがある一つのものを熱心に愛する時、彼はそのもの以外の何をも心に留めないでしょう。...彼が愛しているものは、彼の内から決して消え失せません。それはどこにいても誰と一緒にいても、何を始めても事情は全く同じです」(同書)
つまり、我々がこの我意からの離脱を可能にするものは、我々の努力に依るのではなく、最愛なるもの、思いを超えた神的なものに依るのに他ならないのです。
"神的なもの"...彼は容易に"心の像"と結び付く"神"という言葉に対して、"神性"ということを言って、区別していました。
それは、我々の思いを超えた、心の底、絶対無の領域であり、そこで出会う神は言い表すことは出来ない...
西欧キリスト教社会で、これほど"直接的に"無の道を切り開いた人を私は知りません。
もはや、ここには信仰も修行もありません。
...と、こう書いてみて思うことは、私の精神には、ずっとこのような道念みたいなものが息づいていた、ということです。
私が日頃言っているものの"元ネタ"はここにあったのか、と自分でも思うくらいです。
しかし...ただ、借り物だろうが何だろうが、字面を追うだけでいつもあんなこと書けるか、ってんですよi...これは、あの時心が揺さぶられたから、自然に言葉が出て来てしまうということなのでしょう。
どれだけ分かって言っているのかはともかく...分かったつもりになったら、何も分かっていないということは分かっている(つもり)です...。

エックハルトの書物は手に入り易いものは、他に講談社学術文庫「神の慰めの書」、岩波文庫「エックハルト説教集」がありますが、私が最初に読んだ上のものは、分量は少ないですが、とても読み易く意味は分からないが、すーっと読めたのでした。
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神そのものを求めるに如かず

2021-01-10 09:49:48 | 
"神に祈る"と言います。
病の平癒、恋愛成就から大は世界平和に至るまで...
しかし、その願いはどれだけ神そのものに向けられているのでしょうか?
神はその願望成就のためのダシに使われているのではないでしょうか?
祈りという形でなくとも、神の力を利用しようという向きもあります。
例えば、悟りや覚醒を得るためとか...確かにそれには神の力、ハタラキというものが不可欠なのかもしれません。
私も長い間そういうことに囚われていました。"神というよりかはそうした霊的な、不可知のエネルギーが存在(これを私は疑うことが出来ませんが...)していて、それに如何に接触し、取り込むか、それが意識に浸透したら覚醒出来るのだ"、とか。
しかし、その力は例えば愛というものと切り離されて捉えられたりもするものです。
端的に、神に意識を向けなくともそれはハタラくことが出来るでしょう。エネルギー、パワーといったものが一人歩きしたら、如何に危険なことか...自分自身が、いや世界全体が焼き付くされないとそのことに気付けないのでしょうか? 
このように、神そのものから切り離されると、その主眼(願)にあったものが一人歩きし始めるのです。
このことは、神を語る宗教やスピに顕著に表れているのではないでしょうか?
そこで信じられているのは人間教祖であり、人がそう言っている神なのです。人が方便として設えた修行方法なのです。
何度も言うように、神から切り離されるや、信仰のための信仰、修行のための修行が繰り返されるだけなのです。
私は、ここで多くの人に盲点となっているであろう、もっとも人間的にして、根本的な問題に触れているつもりです。
即ち、"神そのものを求めるに如かず"、"神そのものが主眼i"、なのだ、と。
そりゃ、私も人間をやっている身ですから、苦難からの救われ、今でしたらコロナの終息のことなどを神に祈ったりもしますよ。それが人情というものでしょう。平安が与えられますように...と。
して、神に祈ったら、平安を呼ぶ何かが現れたり、神が現れて、平安を与えてくれるのでしょうか?
いいや、そうして神に意識が向く、神を求めること自体が、平安にあるということなのですi (こりゃ、ホントにホント~に驚くべきことなんだi)
このことは、こうしてそういうことを書いていることで、何度も経験していることなのです。(だから何度も書いている次第i)
これは、"霊的なエネルギーを発現させることが先決だi"、とやっていることよりはるかに即応しているし、ズレの無いことなのです。
神そのものに向かうことにはズレが無いi 神はオールマイティなのだから...
そうは言っても神は見えないし、捉えられないではないか?、というのが人間的な問題ではあるでしょう。
でも、深遠な神体験を求めずとも、単純な神への感謝でもいい、意識を神そのものに向けていたら、自ずと、いつのまにか平安に導かれることを私は信じて疑いません。
そこから、私の神の道は開かれたのは確かなことなのです。
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西の空で死者たちが笑っている

2021-01-09 09:47:50 | 独語
"コロナに負けるなi
諦めないでi
夢と希望を持ち続けようi
夜明けの無い夜は無いi"

といった声が巷に溢れている...
だけど、この現実はどうなんだi
この一年間ずっと飛び交っていたけど、一向に出口が見つからないではないか?
人間のポジティブな精神を嘲笑うかのように、見えない行進は止まらない...
人間のよく分かる明るい行進はいつまで続くのだろうか、どこに向かっているのだろうか?
僕は日が沈むので、夕日を目指して帰ろう...

あの西方には極楽浄土があるという...
そこには永遠の安らぎが有るという...
御仏たちの慈悲に包まれて...
御仏たち...あなたたちは...そうだ、この世のものでは無いのでしたね?
そちらの世界ではすべての苦しみ、しがらみから解放されているのですか?
あなたたちには、あの明るい人たちはどう映っているのですか?

西の空で死者たちが笑っている...

夜は明けるというが、それまで立っていられる保証など無いi
それでも僕は日が沈む方を目指す
真紅に染めた空は紫青に...そして漆黒に包まれてゆく...
夢も希望もそこに吸い込まれてゆく...すべての思いと共に...
明けない夜は無いだって?...
落日の無い夜明けは無い
死の無い生は無い

僕はあの明るい行進が何を掲げようとも...
諦めようi
諦めたらすべてが終わるのだろうか?
何も考えられない、為すすべが無くなったら、死んじゃうのだろうか?
死んだらすべてが終わるのだろうか?
すべてがお手上げになったら、バイザイするっきゃないi
そうなってみて初めて開かれることがある、分かることがある
そう、すべては分からないのだi
生きるのか、死ぬのかは分からない...

生きても死んでも...
僕はあの真紅に染まった空を目指すだろう...
僕のすべての思いが消えたとしても...

空がかくも美しいから...
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ステイホーム

2021-01-08 04:31:21 | 詩的文章
外は冷たい、厳しい風が吹いている ...
こんな時はステイホームに限るよi

緊急事態
感染爆発
仕事が無い
医者にかかれない
越境への道は封鎖される
は...
人類滅亡...

色々な声が聞こえるが...
色々な景色が見えるが...
すべて壁の向こうのこと
うっすい壁だなあ...
あちこちから隙間風が入りやがる...
それでも、ここはホームだ
外のことには何も感染しないよi
さあ、水入らずで寄り添おう
一緒に暖まろう...

冷たい、厳しい風を通って...
ここに落ち着いた...
いくつもの壁にぶち当たっただろうか?
いくつもの壁を超えただろうか?
いくつもの迷い道にはまりこんだだろうか?
見える景色は色々あったけど...
ホームはいつもここにあったi

それにしても...
うっすい壁だなあ...
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