"人間は、思われた自分だけで生きているのではない"
と、いうことをいつも書いている訳ですが、もしもその自分だけで生きているのだったら、私はとっくに終わっていたことでしょう。
あれこれ考えているだけの自分...すぐに袋小路に追いやられてしまうのは目に見えてます。
そこから抜け出せる術も無く、狂ってしまうか、死んじゃうかして、私という機能は絶えてしまうことでしょう。
だけど、どっかでそうやってもがき続けることに疲れるかして、休まざるを得なくなったりするものですね。いつの間にか寝てたりして...
"あれ、考えている自分だけで生きてないi"...(笑)
要するに、自分だけで生きているというのは、そう考えられているだけなのです。
"私は私だけで生きていない"、ということを如実に感じさせられることは、多く何かに見られている、光が照らされている、という私が"照明"と呼んでいるものを通してもたらされるのです。
これは、現臨感覚と共にあるもので...というより、"見えない導き"などと同じく、一つのものを感じ方の違いで言い表しているものにすぎないのです。
こういうことを顕著に、自覚的に感じられるようになったのは、40年程前のことでしたが、それ以前ぼんやりと知らされていたことと違って、具体的に感じられるようになるということは、実に大きいことと言わねばなりません。
これには、漠然と考えているのでなしに、意識するようにすればそう感じられてきます。
で、その40年程前の頃は、この"照明"という感じのものは、今ほど自覚されておらず、どちらかと言うと、"内なる導き"というか、自分の中から照らすようなものとして感覚されていたようです。
これには、その当時"神は我が内にお在す"、というような先入観が多少あったことが影響されていたのかもしれません。
"外側じゃなく、内側に意識を向けなきゃならない"、なんて...私は、"神が我が内にお在す"かどうか、そう感じられることも確かにありますが、本当のところは分かりません。
自分の外から光が照らされている感じというのは、自分が神の中に居るという感じです。だから自分だけで生きていないと感じられるのですが...
しかし、この感じがもっと深まると、自分の回りも自分の中も、その内外を隔てる境界がぼやけてきてしまうのです。
つまり、超越的なことと実存的なことは、切り離されない感じになってくるのです。
そう、光というのは、こちらを照らすばかりじゃなく、射抜き、貫くものだったのですi
いや待てよ、火山噴火のように中から噴出する感じもあるではないか?
感じたままを言えば...神的なものはすべてにお在す、ということでしょう。
だから..."肉体という自分の内外を隔てる壁は無いi...私は神と一つなのだi"
なーんて、ことにはならないだろう...
見られているんですi
思われた自分が神に取って代わってしまったら、もう本当に先は袋小路に追いやられるか、限界を知らずにどこまでも自我が拡張し、自らを焼き尽くしてしまうようなことになるでしょう。
そうなると、自分の外も内も神との関わりなど絶たれてしまう...
だから...光に照らされることで、神と共にあるという安らぎを覚えているのです。
と、いうことをいつも書いている訳ですが、もしもその自分だけで生きているのだったら、私はとっくに終わっていたことでしょう。
あれこれ考えているだけの自分...すぐに袋小路に追いやられてしまうのは目に見えてます。
そこから抜け出せる術も無く、狂ってしまうか、死んじゃうかして、私という機能は絶えてしまうことでしょう。
だけど、どっかでそうやってもがき続けることに疲れるかして、休まざるを得なくなったりするものですね。いつの間にか寝てたりして...
"あれ、考えている自分だけで生きてないi"...(笑)
要するに、自分だけで生きているというのは、そう考えられているだけなのです。
"私は私だけで生きていない"、ということを如実に感じさせられることは、多く何かに見られている、光が照らされている、という私が"照明"と呼んでいるものを通してもたらされるのです。
これは、現臨感覚と共にあるもので...というより、"見えない導き"などと同じく、一つのものを感じ方の違いで言い表しているものにすぎないのです。
こういうことを顕著に、自覚的に感じられるようになったのは、40年程前のことでしたが、それ以前ぼんやりと知らされていたことと違って、具体的に感じられるようになるということは、実に大きいことと言わねばなりません。
これには、漠然と考えているのでなしに、意識するようにすればそう感じられてきます。
で、その40年程前の頃は、この"照明"という感じのものは、今ほど自覚されておらず、どちらかと言うと、"内なる導き"というか、自分の中から照らすようなものとして感覚されていたようです。
これには、その当時"神は我が内にお在す"、というような先入観が多少あったことが影響されていたのかもしれません。
"外側じゃなく、内側に意識を向けなきゃならない"、なんて...私は、"神が我が内にお在す"かどうか、そう感じられることも確かにありますが、本当のところは分かりません。
自分の外から光が照らされている感じというのは、自分が神の中に居るという感じです。だから自分だけで生きていないと感じられるのですが...
しかし、この感じがもっと深まると、自分の回りも自分の中も、その内外を隔てる境界がぼやけてきてしまうのです。
つまり、超越的なことと実存的なことは、切り離されない感じになってくるのです。
そう、光というのは、こちらを照らすばかりじゃなく、射抜き、貫くものだったのですi
いや待てよ、火山噴火のように中から噴出する感じもあるではないか?
感じたままを言えば...神的なものはすべてにお在す、ということでしょう。
だから..."肉体という自分の内外を隔てる壁は無いi...私は神と一つなのだi"
なーんて、ことにはならないだろう...
見られているんですi
思われた自分が神に取って代わってしまったら、もう本当に先は袋小路に追いやられるか、限界を知らずにどこまでも自我が拡張し、自らを焼き尽くしてしまうようなことになるでしょう。
そうなると、自分の外も内も神との関わりなど絶たれてしまう...
だから...光に照らされることで、神と共にあるという安らぎを覚えているのです。