人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

中も外も...

2021-08-05 11:22:41 | 意識、照明
"人間は、思われた自分だけで生きているのではない"
と、いうことをいつも書いている訳ですが、もしもその自分だけで生きているのだったら、私はとっくに終わっていたことでしょう。
あれこれ考えているだけの自分...すぐに袋小路に追いやられてしまうのは目に見えてます。
そこから抜け出せる術も無く、狂ってしまうか、死んじゃうかして、私という機能は絶えてしまうことでしょう。
だけど、どっかでそうやってもがき続けることに疲れるかして、休まざるを得なくなったりするものですね。いつの間にか寝てたりして...
"あれ、考えている自分だけで生きてないi"...(笑)
要するに、自分だけで生きているというのは、そう考えられているだけなのです。
"私は私だけで生きていない"、ということを如実に感じさせられることは、多く何かに見られている、光が照らされている、という私が"照明"と呼んでいるものを通してもたらされるのです。
これは、現臨感覚と共にあるもので...というより、"見えない導き"などと同じく、一つのものを感じ方の違いで言い表しているものにすぎないのです。
こういうことを顕著に、自覚的に感じられるようになったのは、40年程前のことでしたが、それ以前ぼんやりと知らされていたことと違って、具体的に感じられるようになるということは、実に大きいことと言わねばなりません。
これには、漠然と考えているのでなしに、意識するようにすればそう感じられてきます。
で、その40年程前の頃は、この"照明"という感じのものは、今ほど自覚されておらず、どちらかと言うと、"内なる導き"というか、自分の中から照らすようなものとして感覚されていたようです。
これには、その当時"神は我が内にお在す"、というような先入観が多少あったことが影響されていたのかもしれません。
"外側じゃなく、内側に意識を向けなきゃならない"、なんて...私は、"神が我が内にお在す"かどうか、そう感じられることも確かにありますが、本当のところは分かりません。
自分の外から光が照らされている感じというのは、自分が神の中に居るという感じです。だから自分だけで生きていないと感じられるのですが...
しかし、この感じがもっと深まると、自分の回りも自分の中も、その内外を隔てる境界がぼやけてきてしまうのです。
つまり、超越的なことと実存的なことは、切り離されない感じになってくるのです。
そう、光というのは、こちらを照らすばかりじゃなく、射抜き、貫くものだったのですi
いや待てよ、火山噴火のように中から噴出する感じもあるではないか?
感じたままを言えば...神的なものはすべてにお在す、ということでしょう。
だから..."肉体という自分の内外を隔てる壁は無いi...私は神と一つなのだi"
なーんて、ことにはならないだろう...
見られているんですi
思われた自分が神に取って代わってしまったら、もう本当に先は袋小路に追いやられるか、限界を知らずにどこまでも自我が拡張し、自らを焼き尽くしてしまうようなことになるでしょう。
そうなると、自分の外も内も神との関わりなど絶たれてしまう...
だから...光に照らされることで、神と共にあるという安らぎを覚えているのです。
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分離の無い道

2021-08-03 11:48:19 | 求道、探究
宗教やスピの道では、"信じること"に重きが置かれているようです。
神とか霊なるものは、目に見えないので信じるしかないのか?...
真理が何か分からないので、真理が分かっているらしい人の言葉を信じる...
これは、二元的な分離した道です。しかし、非二元的な道においても、例えばこのように説かれていたりします。
"あなたは元々神と一つなんですよi"
"あなたは元々悟っているのですよi"...
しかし、そう言っている人を、言葉を信じている限り、あなたとあなたがつながろうとしている、そのものとは分離しているのです。
信じよう、従おうとしているあなたが居る限り...
"これは、真実なのか、まやかしなのか?"
そういう教えに接して、余計に何か心が分裂するような感じを受けたことはないでしょうか?
そういう迷いがある時、心が分離していることを知らなければなりません。
二元だろうと、一元だろうと変わりなどありません。
非二元、二元、唯一神、多神、理神...果てしなく分離してゆく...
それもそのはず、分離したままの頭しかそこに無いのだから...
分かれたものを一つに、思いを超えせしむるものがそこにあるでしょうか?
思いを一つに、迷いが無い...愛、平安がそこにあるでしょうか?
あなた以外の別の誰か、何かを信じ、従うより先に、あなたに分離無く、直接的につなげよう、一つにさせようとするものが感じられないでしょうか?
それは、あなたの分離の無い心そのものに隠れているのかもしれない...
理屈抜きに惹かれてやまないもの...自然に心が赴くもの...
これは、人の思いを超えたところから来るもの...思っている私以前から在るものです。
それはあなた自身と分離していないはず...感じてみて下さい。
あの教えとか、この道とかがあるらしい...
もっと信じるにたる、より高い教え、それに至る方法があるらしい...
そして、それを信じ、従おうと頭が分離し始める...
そのものにつながることから、教え、方法...間に介在するものに囚われ始める...
最初の愛、最善の道から離れて...
あなたは最初から、惹かれてやまないものにつながろうとしていたのではないでしょうか?
喜び、共感、幸福感...それが感じられるのなら、どこかにあるものを求める必要などありません。
そのものと共にあることを意識し、気付き、感じること...
それが原初からの、分離の無い道...
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気付きと現臨

2021-08-02 11:49:36 | 現臨、ハタラキ
毎日暑いですね。
とてもガンバローi、という気が起こってきません。私、ヘタレなもんで...
これが、私がこれまで修行というものをして来なかった大きな理由の一つです。
真似しないで下さいね。修行を否定してる訳じゃないんですから。出来る人は多いにやったらいいでしょう。
んで、私は、このまま思考がおぼつかなくなって、幻想とも現実ともつかない、カオスみたいな中に呑まれちゃうのでしょうか?
いいや、そうなりかけた時こそ...気付いていたらいいのですi...いいや、この気付き自体が現臨と共に、自ずとやってくるというか...誰にも真似出来ないでしょう?...やって出来る人など居ないi
気付きと現臨...これは、あらゆる精神的な道のベースとなるものでしょう。
毎度のことながら、いつの間にか、シャキッとなってしまうから不思議なのです。
気付くと言ったって、何に気付けばいいのか分からない...現臨に気付く、あるいは気付かされる、ということを言っているのですが、それがどっから、どうなって、どうやって降りて来るのか?、とはいつも考えていることなんですが...
こないだ、あるブログを読んでいたら、そこでは"プレゼンス"と言っているのですが(こっちの方がポピュラーな言い方なのでしょう、多分同じ意味です)、それを誘起するには、ヒタイの辺りから数センチぐらい前方を意識して、そこから光が射し込んでくるのをイメージしたらよい、といった意味のことが書いてありました。
ん~、確かにそのように感じることがあるのも事実です。けれど、私は囚われていません。自然とそう感じたらそれでいい...ヒタイの辺りにあるというチャクラのこととかも特に意識したりしません。(すぐに全身全霊的に広がって来る感じになります)
自然に、囚われないということが肝心なのです(それが又、修行をほとんどしない理由の一つ)。意志的な力、イメージの力というものに重きを置いてしまうと、思いを超えたものに意識が開かれてゆく、という感じが蔑ろになってしまうでしょう。
又、現臨というものは獲得されるようなものでなく、自ずと臨んでくるものなのです。元々こちらにあったものが呼び覚まされると言ってもいいでしょう。
私の場合、主として、手島先生や小池先生の著書(そこではキリスト教的な"聖霊"、という言い方をしているのですが)から啓発を受けたことが大きかったのです。
読んだ時は、ただ心情的に共感した、というだけのようにしか感じていなかったのですが、知らず知らずに深まって行き、何とかそういうものを捉えようとしている内に、捉えられてしまった、という次第です。いや、最初から捉えられていたというべきか?...自ずと惹かれてしまうものを感じていたのですから...
こんな風なことだから、どうやってそうなったかが分からないのですが、こういうことを漠然と考えごとにしないで、意識していたらいいのです。
そしてある時、イメージするんでなしに、リアルに光が射し込んで来るi...かもしれない?
そこにもたらされた現臨感覚に気付いていたらいい、ということです。
(ヒタイがモゾモゾすることも含め、私が言っていることもあくまで参考にして下さい。真似しないでね...。出来ない?)


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真夏の朝感じたこと

2021-08-01 08:23:15 | 雑感
東京オリンピックもたけなわ、連日のメダル.ラッシュ...
しかし、ほんの数日前まで、ホントにその開催の是非を巡り、激論が行われていたのでしょうか?...夢のようにも思えます。
そんな折、コロナ感染者数が連日最多を更新i...TVのニュースでは大体、この二つのことが相接して、切り替えられて伝えられます。
アナの人たちよく頭を切り替えられますね。私は一寸焦点が合わなくなりそうです。
今、私の頭の中では"何で、オリンピックなんかやっているんだろう"、という思いと、"よく開催出来たなあi"、という思いが交錯してて、ぐちゃぐちゃになりそうです。
と、まあ、そういうこともあるのだけれど...
"そうそう、決勝が始まるんだったi"...チャンネルを切り替えるのも大変です。
これでいいのか?、いいんでしょう?、"試合開始"i、始まっちゃったことを考えたって、"始まらないi"
試合の場に、感染危機の問題を持ち込むのは、オカシイ、不自然です。逆も又然り。
しかし、今の状況は、何時(オリンピックが)中止になってもおかしくないでしょう。
いや、だから...コーフンから覚めると、どうしても現実に行われて居るという実感が沸いてこないのです。

"コロナなんていうのは、実体が無いんだi、という説が飛び交っているそうです。
私は、二年前の秋、肺炎らしき病患に見舞われたことがあるので、他人事で済まされないものを感じています。
そういうことを平然と言っている人間には、"一度味わって見てから言えi"、と言いたいですi
といっても、私はコロナに患かったかどうかは、分からないのですが...
今を思えばあの時、ちゃんと医者の診断を受けていたら良かった、と思います。多分、"旧型肺炎でしょう"、と言われるでしょうが、私は生まれてこの方、あんなもんに患かったことなど一度も無いのですよi
そして、コロナ患者の証言から推測するには、私が味わった症状とよく似ているのです。
つまり、コロナの恐ろしさは、(どの日本人にも早く?)まざまざと知らされているのです。
今の爆発的感染の増大の背景には、多くの人たちにその罹患の実態、又海外の拡大の実態のことなどが、リアルに伝わっていないということが挙げられると思います。
いたずらに恐怖を煽るようなことも、余計な妄説を呼び込む要因ともなりますが、自粛を促す意味では、もっと現実に向き合った方がいいでしょう。
そうだ、オリンピック期間中は、テレビ観戦するなどして、不要不急の外出は控えたらいいのではないでしょうか? 暑いし。

今朝は、セミが元気よく鳴いています。こういう日は暑くなるようです。
何だか、いっそう何が現実で何が幻想だか、境目がぼやけてきそうです。この夏が特にそのように感じさせるのでしょう。
セミの鳴き声は...それはいつも同じなんですけどね。


コメント (2)
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