人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生で最良のもの

2021-08-13 10:46:15 | スピリチュアル
シンプルに言って、"生きてて良かったなあi"、と思えることは、好きなもの、夢中になれるもの、愛しているものがあることです。
そう感じているのは私だけじゃないはず?...それはもう理屈じゃありませんi、惹かれてやまないのですからi...
こういうことを何度ここで言ってきたことでしょうi
そういうものは、他に追従するものでも、他に承認してもらう必要もないものです。
もしそのように、他におもねるようなものを感じるのなら、ホントに自分が"好きだ、愛してる"、と感じているものなのかどうか考えた方がいいでしょう。(承認云々じゃなくて、他とその喜びを分かち合いたい、と感じるのはごく自然な感情の表れでしょう)
又、その自分が好きな、愛しているものを、ことの良し悪しや利益、損得などと結びつけてしまうことも、そういうこと自体、"素のまま"の自分からは出てくる訳が無く、他におもねっているということなのです。
"こっちの神様を信じなさい、そうすれば救われますよi"..."ええい、ウルサイi、アダシ神なぞ...私の最愛なる神にあって救われない訳が無く、そっから離れたら救われんだろーっi、このサタン、引っ込んでろi"
私の場合、最愛のものとは私自身の神、実存的な神のことで、このような意味で、神を信じていると言えるでしょう。それは愛することと一つなのです。信愛。
愛に根ざしてしいない信仰ほどウザイものはありません。信と愛は分けられないもののはずです。
私は長い間、神の愛、神への愛ということも言葉は知っていましたが、ホントは何も知らなかったに等しかったのです。
これは全く当たり前のことで、具体的に感じるもの無くして、好きも、愛してるもあり得ないでしょう。
然るに、宗教、信仰の世界では、如何にそれが抽象的に語られて来たことでしょうか?
抽象的に論じられる愛なんてものがあるでしょうか?
又、"神を愛さなければならない"、などと愛することが掟のように説かれるや、神の愛どころか、裁きといったことまで吹き込まれ、善悪の観念にトラワレてしまいます。
善悪のことなど時と所によって変わるし、考えたって分かりません。
しかし...神の愛が具体的に感じられるならば...そっちに自然に意識が向いてしまう...何か知らんが、いいに決まってるi...そうなってしまうことなんだから...
それが感じられなければ、自然に意識がそっちに惹き付けられない...何でそういうことに長いこと気が付かなかったのだろう、何で具体的に感じられなかったのだろうか、こんな自然なことなのに...
で、どうして感じられるようになったかと言うと...分かりません。ハッキリ自覚的に感じられるようになったのは、5年くらい前で、知らずに神の愛のことを書いていて...書かされていたのか?
う~ん...神との相愛、信愛ということなのでしょうか?
何にしても、そうなっている時、自分自身で居られることは確かなのです。
神との愛のことは私の場合ですが、誰しもが最愛のものと共にあれば、"生きてて良かったなあi、と思えるんじゃないですか?
少なくとも、私にはそれが人生で最良のもののように感じています。今後、別のものは現れないでしょう。
もし、現れたとしたら、そのことがもっと深められるものに出くわすということでしょう。
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恩寵から見放される?

2021-08-11 11:43:04 | 回想
"私はね、もう何年も前に悟っちゃったんですi、自我なんて無くなっちゃったんですよ..."
違うi...自我の強い人ほどこういうことを言いたがるのですi
確かに、あの時4、5日間余韻みたいなものは残っていて、"ひょっとしてオレ、悟っちゃったのかも?"と浮かれていたこともありましたが、すぐ元の木阿弥、自我の塊の自分に戻ってしまったのでした...。
全くウソのように消えてしまったではありませんか?(しかし、あれから38年も経つのに、今の方がアリアリと現在しているように感じられるのが不思議なことで、これが頭の記憶だけでない、身に覚える記憶というものから来るということなのでしょう)
又、そういう自分のことも自覚しており、すぐに自我に絡められ、テングになってしまうのは目に見えていたので、自意識的にそのことを引っ込めようとしていた部分もあったのです。
そのように、そのことを封印してしまう...それはある面で正解だったと思います。
しかし、その根底にあるもの...そもそも何によってそのことがもたらされたのか?...そのものを無きものにしようとしたのではなかったか?
神的なもの、恩寵までをも、意識から消し去ろうとしたのではないか?
当時の私にこう言ってやりたいです。"バカだなあ、お前は...救いようの無いやっちゃなあi"
私はそれから半年後、急に日頃の生活で思うように行かないことが相次ぎ、まるで運命から見放されたように感じ始め、挙げ句、半年間鬱病のような状態に見舞われたのです。
あの至福の時から僅か一年後、どうしたらそんなこと想像出来るでしょうか?...思い当たるフシは?...そう、前記のようなことです。
そういう因果があるかどうかは分からない...そう、分からないですよ。少なくとも、当時の私には分からなかったです。
だけどねえ..."何だって?、運命から見放される?、鬱病になりそうだと?...お前には感じられないのか?、じんじんとパッと何かが臨み、何かが開かれ、そういう重い思いから離れてゆくのが...ああ、すべてはこのものあっての私なのに..."
このものが意識に根付いているのなら、自然とそういう風になってしまうのです。このものが意識から切り離されると、スコタンなことになってしまうのは、今の私にはテキメンに分かります。
ああいうことは、その覚醒、至福体験といったものの、そもそもの本質に関わる、その真の主を封印してしまったため...その神罰なのでは?...イヤ、そうじゃないi...
"どうか、私のことを忘れないで欲しい、意識のどこかに留めておいて欲しい"
思いを超えたところから"声無き声"で、私にそう告げたのは、そういう脅迫のようなものとは全く異なる、哀願みたいな響きだったのです。
脅しや、おトガメのような響きのものなど受けたことがありません。
"あの御方のことを蔑ろにしたら、ああいう運命が待ち受けているのでは?"、という予感もあったのに...すべては、私の最愛なるものへの不信が招いたと言ってもいいでしょう。
それも今から思えば学びに違いありません。
その学びは、挫折を通してしか分からないものもあります。
それから、恩寵といったものについて、改めて向き合い、学ぶことになったのでした...。
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本来の私と愛

2021-08-09 08:22:08 | 
昭和83年8月、私が初めて精神的覚醒に与り、"人生の裏側"に踏み入れたことは、人間的にもっと学ぶことを要した、未熟な私には全く不相応なことだったと今でも思っています。
しかし、ハッキリと感じられることは、その時あまりにもぶっ超えていて、全く私の理解の及ばなかった事に、徐々に腑に落ちるように、理解がもたらされる、そういう導きが与えられているということなのです。
最近、そのことで強く思い起こされたことがあったのですが、"こんな重要なことなのに、何で今頃になって?"、という疑問も、これは"あまりにも私らしいこと"に関わることなので、その気付きは今に至るまで取って置かれていた(もっと有り体に言えば気付くのが遅かった)ということなのかな、と感じている次第です。
私はあの裏側の扉が開かれた時、"私は在る"、ということを目の当たりにしたのでした。このことは、"今頃何だi"、ということでなく、ずっと私の内奥で、自覚的に覚えられていることです。
私は在るということは、全く文字通り、ただ私は在るということ...そのことだけで至福に与っているようなことです。
その私とは、本来からの私、持って生まれたもののことごとくが知られていたのです。
スピ界隈には、"本来的な自己が真我で、後天的に自意識で作り上げられたものは偽我だ"、という説明もありますが、そこにはとにかく真も偽も無く、丸ごとの私がその本来性に休んじられていたのです。
何度か言っているように、私は真我というものの実体は分かりません。ただ、何が本来性からズレた在り方なのかは、そこに示されていたのです。(この理由で、今の私には真我というより、本来の私と言った方がピンと来ます)
それは、常に自分以外の他者というものを意識させるもののことです。"私は在る"ことに休んじていた時、実にこれが抜け落ちていたのですi
"私は特別な存在、私は正しい、私は進化している、私は悟っている..."、こういう意識状態は、すべて他者の存在を想定することによってしかもたらされないことが知られるでしょう。
自意識はそれによって、"私は在る"ことを認めてもらおうとします。(この背景にあるのは、"私は認めてもらえない、許されていない"、というある種の罪意識と言えるでしょう)
自我意識というものが、どういうものかがこれで分かるでしょう。多くの人間が自分と思っているものは、他者の承認によって作り出そうとしている虚像なのです。
"私は在る"ことは、許されて在るということ...それが本来性に帰ることに他ならないのですが、如何にそれまで、そうでないものにトラワレ続けていたかが如実に知らされたのです。
他者の承認は必要とされないので、自分が正しいとも特別だとも感じることはありません。ただ、私は私であっていいのですから...
こういうことは、しかし、ずっと私の内奥で覚えられていたものには違いないのです。あの抜け落ちた感覚がどっかへ行ってしまう訳が無いのですi
ただ、自我意識を克服されていないので(今でも)、表層意識には中々上って来なかった、ということなのでしょう。
克服しようにも、存在の根底にこびりついているようで、どうにもならないし...
自分でどうとかするよりも、神的なものを呼び込むことで、自然と本来性に目覚めて来るでしょう。
"神は私を許してくれない"...この思いが"私は在る"という、本来性から引き離されることにつながるのでしょう。
本来の自分を回復することは、神的な愛を回復することなのです。
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君無くしては...

2021-08-08 12:04:49 | 
ああ、愛し君よ、今いずこ?
永遠の愛を誓い合った、あの時...
何故、君は姿を隠してしまったのか?
それとも、知らずに僕から愛が失せてしまったのか?

君無くしては生きてはゆけない
気が付いた時には、君はもういない

どんな苦難にも打ち勝つ強靭な意志を手に入れたとしても
山をも動かす不屈の信念を手に入れたとしても
あらゆる法則を自由に操る魔術を手に入れたとしても
どんな魔物、悪をも調伏させる呪文を手に入れたとしても
究極の悟りへと導く方法を手に入れたとしても...
ああ...この愛は手に入れられないのか?...

愛し君無くして、どうしてこの生が立ちゆくことが出来ようか?
世界が、宇宙があったとして、どうしてここにそれらが現存してるというのか?
そして、この僕の現存ですらも...

君無くしては生きてはゆけない
気が付いた時には、君はもういない...

月が出ている...星々も散らばる...
しかし、君のいない夜の空は何も煌めかない...
すべての天体は、虚しい漆黒に吸い込まれるだけ...

手に入れられるもののことはもういい!
本当のものに"あれとかこれ"は無いi
無くてならないものは...君との愛だけi

君無くしては生きてはゆけない
気が付いた時には、君はもういない

愛はこの手から失せてしまった...
失って初めて分かった...永遠の愛i
手に入れられないことが分かっていても、求めずにいられないi
夜のしじまを破るように猫が寂しく、虚しく鳴いている...


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二つの思考停止

2021-08-07 09:58:18 | 求道、探究
毎日、こう暑いと思考停止になりそうです。
思考停止。...この言葉がよく使われるのは、宗教やオカルトなどの教えにハマるようなことですね。
例えば、"人に前世というものがあるのは確かなことだ!"、などと自分で確かめた訳でも無いのに、ただ"大先生がそうおっしゃった!"、というだけで思考停止してしまい、それが啓示か何かのように、無批判に追従、奉ることになってしまうのです。
だけど、これは本当に思考停止に陥ってしまう訳では無く、実際は信じることを強固に思い込むことで、自由に思考を働かせることがフリーズしてしまうことに他ならないのです。
この有り様にはしかし、ある意味で精神的覚醒に伴う意識状態が、擬似的に写し出されているようにも感じられます。
擬似的と言っても、その導かれ方には、天と地ほどの開きが生まれるものではありますが...
思いを超えた恩寵の光、啓示の如きものが意識を貫く時、しばしば喩えでなく本当に思考が停止してしまうものです。
自分の意志では決して止めることの出来ないものが...そこに表層的思考をもってしては決して与りしれない、自己の内的、霊的実存が開示される...これを恩寵と言わずしてなんであろうi
ただただ、その神的現臨の前にひれ伏すのみ...
同じ思考停止のようになっていることで、一体何が違うのでしょうか?
言うまでもありませんね。思考が超えられているか、それにずっと固着し続けているかどうかの違いですi
この違いは、人間実存にとってどんな意味が存しているのでしょうか?
思念の奴隷になるか、それから自由になり、霊性が開かれるかどうかの違いです。この違いは、人の生にあって実に大きいものと言わねばなりません。
その感じ方のハッキリとした違いを言えば、自己の真の主体性を失うか、取り戻すかということです。真の自己を見い出すかどうかと言ってもいいでしょう。
本当に意識されるべきことは、自分の外に信じられている、神でも大先生でも教えでも無いのです。自分自身に意識が向けられずして、どうして真の自己を見い出せることが出来るでしょう?
自己の主体を容易く外なる神に明け渡してはならないのですi
そうならないためには...もっと考えなければなりません。無批判に他からの言葉に迎合してはならないのです。
前言では、"思考は要らない"、とは言ってませんよi...もっとも前世のことなど、考えても分からないことは、生まれ変わっても分からないでしょうけど...
考えることとは、内省することでもあります。自己の主体性を取り戻すことはどういうことなのか? どういうことが自己の目覚めにつながることなのか?
所謂狂信者には目覚めの契機は開かれないことには、こういう理があることを知らねばなりません。
自分自身で考え、内省出来る人とというのは、その限界を弁えることが出来るということです。だから、思いを超えたものがどういうものかが示されるのでしょう。
人間は考え次第で、天国にも行けるし、地獄にも落ちる...ケッタイな生き物ですね...。
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