人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神を求める

2022-02-12 10:29:47 | 求道、探究
悟りだとか霊的進化だとか、如何にも高い方、進んだ方に思いが馳せていくようなことは置いといて...
今の私は、現実にそういう方へは意識が向かわないのです。
しかし、神的なものには自然に向いてしまう...それと一つになるとか言うけれど、もうそっちに向けられる、ってこと自体がそうなると言ってもいいでしょう。
そこで、自分が悟るとか進化するかどうかはどうでもよくなってしまうのです。
悟ろうと思うこと、自分を高めたいと思うこと、私は神だ、と思うこと、何十年もかけて修行したんだから、悟った境地に達したつもりになること...すべて思っているだけのことにすぎないのですi

"あなたは悟りたいのか、神になりたいのか、ただ自分をエラく見せたいだけなのか?
それとも神を求めているのか?...really?、ホント~にか?
まさか、神を求めてはいるが、神を受け入れたくない、とは言うまいi
こんなバカげたことはないi...食べ物を求めているが、食べたくない、と言っているようなものだi
ホントに神を求めているのなら、そういう思いは、すべて手放さなければならないi...神を受け入れるとはそういうことだから...
まことに、神を求めることは、あなたが思っていることとは、天と地ほどに違うi"
漠然と思うのでなく、真剣に神を求め、受け入れることは、言うまでもなく、思いを超えた御方を受け入れること、その前では自分は何ものでもない、ということを受け入れること、そしてそれによって、自分の思いが無化されることを受け入れることに他なりません。
だから、ホントは思いを手放さなければならない、と思う必要も無いのです。
又それによってすべての思いが消えた、とか非現実的なことを思う必要もありません。いや、こういうことから、自分が神になったような境地を思わせるものがチラホラしてるってことが分かるんじゃないですか?(すべての思いが消えたら、現実には多分心神喪失状態か、帰らぬ人になってしまうでしょう)
神的なハタラキによってしか思いは超えられないのです。
そうでない自分はどこまでも凡夫にすぎない、私は何ものでもないi...要するに、そこに神的なものが臨んでいるか、思おう、為そうという自分が居るかどっちかしかないのですi
そして、そんな私のどうってことない現実に、神的なものが臨む...これほどリアルな現実というものはありませんi
もしも、あなたが本当に神を求めているのなら、現実に照らしてよ~く考えた方がいい...神そのものを求めているのか、その実別のものを求めているのか?
本心に、あなた自身の神に聞いてみたらいいです。
コワくなってきたでしょうか? エライ人は一目散にエライこっちゃi、と逃げ出すでしょうi
それもこれもみんな思っているだけなんですけどね...その向こうに言葉にならない喜びがある...
これは、言わずもがな、だから求めているんでしたね?


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意識の深み

2022-02-10 10:21:47 | 意識、照明
真理の追求でも、悟りの道でもいいですが、あるところに囚われ、留まっていてはならない、もっと深きに進まなければならない、などと言われます。
何か思い、意志を向かうところにしっかり定めないと...という感じがしてきますが、ある段階を超えると、そういう心持ちではどうともならない状態というのもあります。
言うまでもなく、思考を超えるという段階というものがそうです。それ自体が思考している私からでは無理というものでしょう。
何かを目指して思考し、意志して行く道は絶たれてしまうのです。
しかし、それらを超えた、もしくはそれらの奥にある意識の領域というものはあります。それにゆだねるしかない...と言ったって、それだけでは何にゆだねていいか、いや、ゆだねようと意志し、図ることすら覚束ないのですよ。もはや、どうしようもないi...
それどころかそういう状態は、精神的にとても危険な状況に置かれているのですよi
軽々しく、究極の悟りの道なんかを説いている向きは、こういうことがまるで分かっていないのです。もっとも肝心なことが分かってませんi...これを蔑ろにしているのは全くどうかしている、と言わざるを得ませんi
思考を超えること自体にも、そっから先の道標にも、その意識から立ち上ってくる導きがある...
そう、それを現臨と呼んでいるのです。現臨こそは見えない導きに他なりません。現臨にゆだねるしかない、ということです。
それ無くして、どうして目覚めに与ることなど出来ようかi...どうして意識の深みへと分け入ることなど出来ようかi
意識の深みへ踏み込めるのは、そう考えているあなたでは無いのですi
そのものが思いを超え、深みへと誘おうとしているのが感じられます。
私は昔から目覚めに与りたい、神と一つになりたいという望みはやはり、イッパシありました。言うまでもなく、私がそう思い、望んでいるのです。
しかし、その表層の思いに隠れて、それに先だって、そう赴かせようとする原初的な意志のようなものを感じずにおれません。
それは、この私をその本来の私へと回帰させようとしているようなのです。
自然に、そう赴いてしまう...これは、いつも現臨に意識が向いてしまう、とか言っていることの本質的なことを言っているまでです。
こう考えると、何から何まで思いを超えたものによって導かれていることが分かります。
もっと努力を、とか留まっててはいけない、とかもっと高きに、深みに、とか何を力んでいる必要があるでしょうか?
とはいえ、色々、要らんこと考え、何かをやらなきゃいけないサガをもって生まれた私...迷いも、遠回りもある...しかし、どうしてもこうしても、そっちに惹かれてやまないものがある...それは意識の深みからの私の大本の意志なのでしょうか?
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何か分からないけど...

2022-02-08 10:08:19 | 
「なにもそうかたをつけたがらなくても いいのではないか
何か得体の知れないものがあり なんということでなしに
ひとりでにそうなってしまう というのでいいのではないか
咲いたら花だった 吹いたら風だった
それでいいではないか」
(高橋元吉「なにもそうかたを...」)

神というものがどういうものかは分からない...
実体があるのか、ないのか...
宇宙意志...宇宙の支配者...
聖霊...守護霊...人間の祖先...本当の自分...
そのどれでもないのか、それらすべてなのか?
現臨?...なんだ、そりゃ?...ますます分からんi
何だか分からないけど、それに関心があるのは確かだ
関心を持たないといけないような気がして来て...
ひとりでに心が向いちゃうんだなi
心が向くと、祈りたくなる
何を願うというのでもなく...
祈って何になる、って思うこともある
だけど、そう思うこととは別に心が向いちゃう、祈らされる
すると...自然におごそかな気分になったかと思うと...
何だか心が晴れやかに、広がってくる感じがしてくる...
何だか暖かく、ありがたーい感じになってくる
何になる?...こうなるんだi
思わなくたって、知っているi
だから、心が向いちゃうんだろう...
何でだか分からない
分からなくたっていいi
こうなってしまうのだから...
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現臨とは何か?

2022-02-07 10:09:15 | 現臨、ハタラキ
いつも当ブログを読んで頂いている、mirfakさんが自身のブログで、私がいつも言っている「現臨とは?」、ということを書いておられました。(もう二週間くらい前の記事なのですが、何故か気付かなかったのか、昨日読ませて頂いたのです)
そのことも含め、初めての方などは、現臨などと聞き慣れない言葉に接して、"何じゃ、そりゃ?"、と思われるかもしれませんので、(何度か試みていて重複するでしょうが)改めて書いてみたいと思います。
私はまず、それを難しく定義したりして、抽象的、哲学的に語ろうとは思っていません。というのも、それは感覚を伴っているもののことであり、現臨感覚と言ったりするのです。
現実に臨んでくる、という感じがあるi...何が?、思いを超えたものがi...ということは、もうそれは言葉に言い表せないものだ、と言っているのです。
思いを超えている、ということは超越的なものですが、それは同時に自己に内在しているものを開くものでもあります。
つまり、それは自己実存と切り離されたものではない、ということです。臨んでくる、開かれる、在るという感じ...
"現臨が在るところに私も在る"...ああ...こう書いてきて難しいワイ、めんどくさいワイi...
この呼び名は、キリスト教の方面から借りてきたのですが、「神の現臨」「霊の現臨」といった題名の本もありまして、読んだことないけど、私などそれを思い浮かべただけで、もうソクソクと何かが降りてきそうに感じてしまうくらいです。
しかし、それはキ教に限定されるものでは勿論ありません。
仏教的には法~ダンマであり、又それが働くことで開かれる、頭脳智とは別の仏の智慧(思考を超えて、降りてくる、開かれるものではあるまいか...)とも関わるものでしょう。
要するに...拡大解釈と言われようが、それはあらゆる宗教、スピ、哲学...あらゆる精神的な道に関わるもの、と言ってもいいのです。
言葉は馴染みが無いのでしょうが、何ら特殊なことを言っているのではありません。(それらを包括させるような言葉が、これまで伝えられて来なかったのが不思議に思えてなりません)
単純に神と言ってもいいでしょう。ただ、そこにはハタラキ的なものが伴っている...だから感覚されるに他ならないのです。
これを欠いた宗教、スピも抽象的な論議に終始するか、形式的な因習に堕すだけでしょう。
繰り返しますが、現臨とは現実に臨むものであるi...生きたものであるi...抽象的思弁と区別されるもの...
それは普ねく知られているものであるi...普遍的な含みをもたせるもの...
そして、神的なものであり、私自身に関わるもの...
現臨という表現を使う場合、これらのことが、念頭に入れられているのです。
直接触れてない場合でも、このブログは、ほとんどそれについて書いているのは間違いでしょう。
何故ならば、いつもそれを感じて書いているのだから...。


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私は神...ではないi

2022-02-06 10:07:05 | スピリチュアル?
スピ界隈には、人間は本来神と一つのものであるとか、神は内にお在す、というような教えが広く浸透しています。
私はそのことを否定するものではありませんが、そこから短絡的に"私は神であるi"、と言い放つことには、どうして向かわないものを感じてなりません。
何度か触れているようにこういうことは、ただそう言い伝えられていることを観念的に信じ込むことだけで、済ます訳には行かないものでしょう。
神がどういうものかは分からないし、本当に私と一つのものか、この内に神が居るのかは分かりませんが、少なくとも神的なものが私に密なものになることにより、そのような実感がもたらされたりするのです。
これは現実に神的な現臨を感じ、意識が向いてしまうことから示されることなのですが、だからといって、私が神になったりはしませんi
そうなったら、多分人間であることは終わってしまって、こうして好きなこと書いてたりしてないでしょう。
この言い回しの違いは、微妙なものではあっても、結構大きいものがあります。天と地ほどの違いと言ってもいいでしょう。
私は...私が...、という線には、思われたままの私、思いが越えられていない私が"そうなりたいi"、という欲求からそう主張したい、という思惑が感じられます。
こういう人間は、本当には神に思いが向けられてはいないのでしょう。神に思いが向けられれば、思いを超えた意識の次元が開かれるはずだから...神に思い、意識が向けられない、とは言い換えれば、神に自己を明け渡す気が無いということでしょう。
神の前にあっては、かくなろうとする自分は無化されてしまう...私は何ものでもない...
この思い方の違いについては、例えばある建物があったとして、本来地続きで大地とつながり、一つのものであっても、その建物自体は大地ではない、ということを考えれば理解出来るでしょう。
大地あっての建物...建物自体に囚われ、大地から切り離されるや、それは崩れ去ってしまう他ありません。
現実に私が...、という私が大地なる神につながることは、そう為さしめるもの無しには不可能であり、そうしたハタラキ共々が神的なものなのです。
現実に神と一つになる方に、意識が向けられることはあっても、"私は神である"、という方には行かないのです。そういう神的な促しは感じられません。
そういう思いに支配されるや、おそらくそのハタラキはとまるか、別のものに取って代わるでしょう(これは神なき人類の歴史の縮図を見るようでもあります)。
そう為さしめるものあっての私...そのものが現前すれば意識が向かわずにおれなくなる...そこには、神になろうと目論む私が与ることの決して出来ない、愛、平安があるから...。
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