人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

扇動と感染

2022-02-04 11:33:40 | 雑感
私は、つくづくこの日本に生きていて幸せに思っているものです。
現に幸せに感じているんだから当たり前のことです。これ今の日本に...というべきなのかもしれません。
う~ん...軍国主義の時代だったらどうかは分かりませんね。
自由にこうして好きなこと書いていられる...有難いことです。
そりゃ、このコロナの世の中で、色々不自由を感ずることもありますが、そこはある程度、上よりのお願い、お達しも汲んで行かないと...お上の命令となると話は別ですが...
このコロナをめぐり、かつてない経験をさせられているためか、実に色々なことが取り沙汰されてます。
ことにワクチン是か否か...行政の方針と関わるので、ワクチン賛成派という言い方は適当でないと思われますが、反対派というのが形成されて、デモまでやっているというのだからただ事じゃありません。
私は個人的には反対しています。昔、何かのワクチンを打って突如、息苦しくなり、吐き気を催したことがある、というのがその理由です。
これはしかし、あくまで個人的にということであって、ああいうカルト集団みたいなものと一緒にされたくはありません。
もし、ワクチン接種が本当にコロナ感染予防、感染を抑えるのに有効なのであれば、むしろそれを推したりするかもしれません。やらない人が言っても説得力は無いでしょうが...
こういうのには、個人差ってのはあって当たり前でしょう。現況では打つ、打たないは個人の自由が認められているということです。
これがもし、義務化でもされたら別ですが、やはりああいうのとは関わりたくありません。
何故、ワクチン反対派はカルトじみているのか?...ある人はワクチンの有害性について、如何にも権威筋らしい米国の専門研究家の説を紹介していて、そこで素人の私にはてんでに分からない、マットウらしいようなことが述べられていたのですが、この研究家がワクチンをすると不妊になるとか、その裏では人口削減計画が行われているとか、真偽の疑わしい陰謀論を説えていた張本人だった、ということを知って呆れてしまいました。
この他、ワクチンを打つと遺伝子が組み換えられるとか、多く出回っている珍説を信じる、信じないは個人の自由でしょうよi
しかし、そこには何らの確証もある訳でも無いし、そこで述べられている言葉からは、一人一人がよく考え、納得して得た結論というものが伝わってこないのです。
彼らはその陰謀論の正当性にばかり囚われていて、ネットでその実に多岐に渡る情報に接することも出来るのに、その信憑性について多面的に検証してみよう、という目論見に欠けているのです。(専門家でない、我々多くの大衆はあくまで素人であり、ある程度その筋の見解に頼らざるを得ず、それが陰謀信者を生み出す要因ともなるのはやむを得ないでしょう)
ただ、自分たちが信じたいものを信じる、宗教的狂信者と全く同じような精神構造という他ありません。
そこで多く取り交わされているのは、個人の自由な考え、感性というものを無視した扇動、煽るような言動であり、そこに支配しているのは集団的思念なのです。
扇動された者が他の者を扇動する、どんどん扇動的思念が強固に拡散されて行く...もう一つの感染爆発!
勿論、この構図がいつこの国が全体主義的集団的思念の支配に変わるとも限らないですよi
だからこそ、このご時世、一人一人が自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の体で感じることが大切なのではありませんか?
自分の人生の主体は、言うまでもなく自分自身です。他におもねっていてはなりませんi
何故か?...分かりきってますi...自分自身が真に感じる幸福に与れないから...。
コメント (7)
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神との密

2022-02-02 11:49:27 | 
神はますます私に近しく、密になるのを感じています。
コロナへの3密対策の影で、どんどん神との関わりは密になってきたという訳です。これ、私だけでしょうか?
いつも言ってることですが、この神というのは、私が感じている神のことを言っているのであって、他にむけてどういう神を求め、拝まなければならない、ということはいささかもないのです。
又神というものに囚われる必要もありません。あなたはあなたの神、最愛のもの、何て言っていいか分からないものを求めたらいいのです。
この意味で、一つ言えることは、ここで言ってる神的なものは実存的なものだということです。
実存という言葉を難しく語る気など更々ないのですが、これはどこまでも他ならぬ、あなたと私自身の問題と切り離されてないということです(実存...いわく言い難いことを二文字で表せる、とても便利な言葉です)。
神でも何でもいいですが、それがどんなに高遠な、例えば宇宙最高神だろうと、宇宙の法則だろうとあなたが直接触れ、関わるもの、あなたの実存に即したものでなければ何にもならない...そういうものは、あなたの内的実存の外に置かれざるを得ず、ただそういうものを概念として思い描くだけに過ぎません。
いくら科学的アプローチかなんかで、その存在が立証されようと同じことです。
この意味で、あなたや私にとっての最高神とは、実存的な神を置いてはあり得ないでしょう。それが第一義の神であるはずなのです。
何故、こういうことを言うのか?...実存的な神との交わりには、えも言われぬ幸福感があるからに他なりません。
こんな分かりきったことはありませんi..."幸福なんかより真理を追求せねば..."、何ていうのは、この至福に与ったことのない人の話です。
これに与ったならば、その真理と幸福は切り離されていないことが分かるはずです。
悟り、救い、真理の獲得...何を求めようと、その根底には幸福に与ることに意識が向けられているはずです。そうでなくして何故求めてやまない、ということがあるだろうか?
そしてその真理と幸福も神的なものと切り離されていない...神そのものを求めるに如かずi
こう書いてみると...神との関わりが密になって来るのは、けだし自然なことと言わねばなりません。
元々が私の実存と切り離されないものなのだから...
然るに、何故神をいつまでも遥か遠い彼方に見据え、それに至るのに、何故いくつもの越えなければならない関所のようなものを設え、その条件のようなものを課さねばならないのでしょうか?
そういう神は、すべて観念の中で祭られているに過ぎません。
あなたは、そういう神に最愛なるものを感じるでしょうか? むしろ怖れているから、そうなってしまう?
あなたの実存の光に照らして、このことを意識してみて下さい(このことは、もう神と共にあるようなことを言っているのです)。
あなたが神に最愛のものを見い出した時、神は直ちに、あなたと密接なものとなり、あなたの中に入り、宿りたもうでしょう。
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聖も俗も無い

2022-02-01 09:57:00 | 祈りと瞑想
私が日頃ここで書いていることの一端を人に話すと..."あなたは四六時中瞑想や祈りに明け暮れていて、聴く音楽もヒーリング系のとかで、テレビとかもほとんど観ないのでしょう?"、などと勝手に決めつけられたりします。
ったく...笑わせないで欲しいですよi
確かに私はフツーじゃないでしょう?...そう、フツーの人より俗っぽいかもしれない...唯一読書の時間は、あの世界と関わる部分はあるかもしれませんが、それ以外はもう私の俗っぽい心を満たすもので溢れかえっている、と言ってもいいでしょう。
テレビはあまり観ませんが、毎日you tubeとか動画を観てます。猫動画、映画、ドラマ、音楽、プロレス、ボクシング(このコロナ禍の間、この関係のものがやたらと増えました)...そうそうH系のやつも...
瞑想、祈りもどきのことは毎日やると決めている訳でもないのですが、寝る前にちょこっとやったりしますかね。それも5分もやらなかったりです。眠くなるしね...
これを読まれた方は、"それでどうして、パッと意識を向けたら、神的な何かが降りてきて、愛、平安に与れる、なーんてことが起きるんだ?"、と不思議に思われるかも分かりません。
私はそういうことは祈り、瞑想三昧のうちに起きる、とはほとんど言っていないつもりです。
パッと意識を向ける、向いちゃったら...ということは、動画を観ている時も、メシを食っている時、歩いている時、勿論読書の時、寝床にある時(これが多い)、そしてこうしてPCに向かっている時は必ずと言っていいほどですが、日常のあらゆる局面で起こり得る、ということを言っているのですi
そして、その瞬間は、私が何かの"行"の枠として、意図して区切った時間で起こることよりも、はるかに得難い時間だとさえ感じているのです。
このことは、私が行うという"行"としては捉えられていない、ということなのです。
私は、このように誰よりも俗人であることを認めています。いや、そういうことを良しとしている、と言った方がいいかもしれません。
というよりも、精神世界の人間、聖人、高徳な人間であろうとするのをどっかで拒否しているようです。("それでいいんだi"、と奥の方から聞こえてきそうです)
これには、初めて人生の裏側に踏み入れた瞬間が、全く日常の真っ只中で起きた、という原体験がそのように感じさせているのかもしれません。
ともかく、私の内奥には常に、ありのままの日常がそのままで、聖なるものによって化されてゆく、という見えざるヴィジョンみたいなものが映し出されているのです。
この裏側には何ものかになろうとする私が、ありのままの世界の聖化に取って代わってはならないという意識が根付いているのかもしれません。
私は今日も性懲りもなく俗人を生きています。しかし、私の生の裏側には別の私も生き続けているのをいつも感じています。
そう、意識が向けられた時に...そして私の別なる生が顕わになる...それは決して私の表側の日常に取り込まれることの無いもの...知らず知らずに裏側の方にこっちの日常が取り込まれてゆく...聖も俗も無いすべての生に...(それでいいんだi)
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