ずっと、丹念にこのブログを読まれている方ならお分かりかと思いますが、とても大事なことなので、改めて書いてみます。
私は、よく自分の力、思いを超えたものについて書いていますが、私自身が超えた、取りも直さず”人間を超えた”、ということは言っていないつもりです。
もっとも人間とはそも何か、本当の私は何か、ということは分からないままなのですが...
あったりまえのことながら、人間(とされる)側にしか立つことは出来ないのです。
それとも人間でない、人間を超えた側なんてものがあるのでしょうか?...そんな人はここでこんなブログなど書いてないでしょう?
神の如き超人のような境地を目指して、何かの修行をしている人は居ることでしょう。
実に、人間を、その限界を超えようとするパッションというのは、自分の思い、力を傾けて何かに勤しんでいる人に特有のものと言えるでしょう。(ある意味、人間特有の本性とも言える、このこと自体を否定するつもりはありません。そこに人間の進歩、文明の繁栄もあれば、その崩壊の危機もあるでしょう)
私は、修行(ある種の”行”のようなものの心得はいくつかありますが、それはいずれも自力修行とは無縁のものでした)とはほとんど縁が無かったので、段々自分が、人間を超えてきた、というような自覚はほとんど無いのです。相も変わらず俗な人間をやってるだけなのです。
ただ、自分をその”超えた(悟った)境地”みたいなものに肖ろうとしたことはあります。
他から抜きん出た人間であろうと...これは自我性から超えられない(今でも!)ということに他ならない訳ですが、これは正にそういう思いが為さしめることなので、そうなっている限り、自分を超えることは出来ないのです。思おうとしているだけで、一向にそんな感じになってこないのです。
“それはそうだ!...思いを超えたものに依らずばそうなる訳が無い!”
そこで、こういう当たり前のことに気付かされたのです。
私には、そういうものに与るということは知らされていたではないか?!
”与る”ということ...それは自分が自分で獲得するようなことじゃ断じて無いのです。
逆説的なことですが、この気付きから現臨感が益々深まり、その思いを超えた安らぎに与ることになったのです。そして迷いの思いからも離れることが出来た、と言いたいところですが、いつ虫がつくとも限らないと言わねばならないでしょう?
それはどこまでも、そのものに“あって”為さしめられることなのであり、私の何かに依るものではありません!
一寸最近、何か読み手が超然と感じるようなことを書きすぎて、私が超人であるかのように思われているのかもしれません。私はどこまでもフツーなんですよ、いや職場などではフツー以下のヘタレですよ!
だけど、フツーでないようなものにも与っている...それも本当です!
要するに、人生には表側だけでなく、裏側というものがあるってことなんでしょう。
何がフツーの人間だか分かりませんが、私はすべての人間には、そういう世界につながる通路は開かれていると確信しています。
私は人間でない何かなどには、本気でなりたいと思ったことなどありませんが、人間は、私は思われたままではない、といつも感じていたのも確かなことです。
だから、いつもそういうことを書いている、つーか書かされているのでしょう?
私は、よく自分の力、思いを超えたものについて書いていますが、私自身が超えた、取りも直さず”人間を超えた”、ということは言っていないつもりです。
もっとも人間とはそも何か、本当の私は何か、ということは分からないままなのですが...
あったりまえのことながら、人間(とされる)側にしか立つことは出来ないのです。
それとも人間でない、人間を超えた側なんてものがあるのでしょうか?...そんな人はここでこんなブログなど書いてないでしょう?
神の如き超人のような境地を目指して、何かの修行をしている人は居ることでしょう。
実に、人間を、その限界を超えようとするパッションというのは、自分の思い、力を傾けて何かに勤しんでいる人に特有のものと言えるでしょう。(ある意味、人間特有の本性とも言える、このこと自体を否定するつもりはありません。そこに人間の進歩、文明の繁栄もあれば、その崩壊の危機もあるでしょう)
私は、修行(ある種の”行”のようなものの心得はいくつかありますが、それはいずれも自力修行とは無縁のものでした)とはほとんど縁が無かったので、段々自分が、人間を超えてきた、というような自覚はほとんど無いのです。相も変わらず俗な人間をやってるだけなのです。
ただ、自分をその”超えた(悟った)境地”みたいなものに肖ろうとしたことはあります。
他から抜きん出た人間であろうと...これは自我性から超えられない(今でも!)ということに他ならない訳ですが、これは正にそういう思いが為さしめることなので、そうなっている限り、自分を超えることは出来ないのです。思おうとしているだけで、一向にそんな感じになってこないのです。
“それはそうだ!...思いを超えたものに依らずばそうなる訳が無い!”
そこで、こういう当たり前のことに気付かされたのです。
私には、そういうものに与るということは知らされていたではないか?!
”与る”ということ...それは自分が自分で獲得するようなことじゃ断じて無いのです。
逆説的なことですが、この気付きから現臨感が益々深まり、その思いを超えた安らぎに与ることになったのです。そして迷いの思いからも離れることが出来た、と言いたいところですが、いつ虫がつくとも限らないと言わねばならないでしょう?
それはどこまでも、そのものに“あって”為さしめられることなのであり、私の何かに依るものではありません!
一寸最近、何か読み手が超然と感じるようなことを書きすぎて、私が超人であるかのように思われているのかもしれません。私はどこまでもフツーなんですよ、いや職場などではフツー以下のヘタレですよ!
だけど、フツーでないようなものにも与っている...それも本当です!
要するに、人生には表側だけでなく、裏側というものがあるってことなんでしょう。
何がフツーの人間だか分かりませんが、私はすべての人間には、そういう世界につながる通路は開かれていると確信しています。
私は人間でない何かなどには、本気でなりたいと思ったことなどありませんが、人間は、私は思われたままではない、といつも感じていたのも確かなことです。
だから、いつもそういうことを書いている、つーか書かされているのでしょう?