人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私という人間かく語りき

2022-09-21 09:47:59 | 雑感
ずっと、丹念にこのブログを読まれている方ならお分かりかと思いますが、とても大事なことなので、改めて書いてみます。
私は、よく自分の力、思いを超えたものについて書いていますが、私自身が超えた、取りも直さず”人間を超えた”、ということは言っていないつもりです。
もっとも人間とはそも何か、本当の私は何か、ということは分からないままなのですが...
あったりまえのことながら、人間(とされる)側にしか立つことは出来ないのです。
それとも人間でない、人間を超えた側なんてものがあるのでしょうか?...そんな人はここでこんなブログなど書いてないでしょう?
神の如き超人のような境地を目指して、何かの修行をしている人は居ることでしょう。
実に、人間を、その限界を超えようとするパッションというのは、自分の思い、力を傾けて何かに勤しんでいる人に特有のものと言えるでしょう。(ある意味、人間特有の本性とも言える、このこと自体を否定するつもりはありません。そこに人間の進歩、文明の繁栄もあれば、その崩壊の危機もあるでしょう)
私は、修行(ある種の”行”のようなものの心得はいくつかありますが、それはいずれも自力修行とは無縁のものでした)とはほとんど縁が無かったので、段々自分が、人間を超えてきた、というような自覚はほとんど無いのです。相も変わらず俗な人間をやってるだけなのです。
ただ、自分をその”超えた(悟った)境地”みたいなものに肖ろうとしたことはあります。
他から抜きん出た人間であろうと...これは自我性から超えられない(今でも!)ということに他ならない訳ですが、これは正にそういう思いが為さしめることなので、そうなっている限り、自分を超えることは出来ないのです。思おうとしているだけで、一向にそんな感じになってこないのです。
“それはそうだ!...思いを超えたものに依らずばそうなる訳が無い!”
そこで、こういう当たり前のことに気付かされたのです。
私には、そういうものに与るということは知らされていたではないか?!
”与る”ということ...それは自分が自分で獲得するようなことじゃ断じて無いのです。
逆説的なことですが、この気付きから現臨感が益々深まり、その思いを超えた安らぎに与ることになったのです。そして迷いの思いからも離れることが出来た、と言いたいところですが、いつ虫がつくとも限らないと言わねばならないでしょう?
それはどこまでも、そのものに“あって”為さしめられることなのであり、私の何かに依るものではありません!
一寸最近、何か読み手が超然と感じるようなことを書きすぎて、私が超人であるかのように思われているのかもしれません。私はどこまでもフツーなんですよ、いや職場などではフツー以下のヘタレですよ!
だけど、フツーでないようなものにも与っている...それも本当です!
要するに、人生には表側だけでなく、裏側というものがあるってことなんでしょう。
何がフツーの人間だか分かりませんが、私はすべての人間には、そういう世界につながる通路は開かれていると確信しています。
私は人間でない何かなどには、本気でなりたいと思ったことなどありませんが、人間は、私は思われたままではない、といつも感じていたのも確かなことです。
だから、いつもそういうことを書いている、つーか書かされているのでしょう?
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台風一過のクラシック

2022-09-19 10:27:34 | 回想
最大級の危険な台風が日本列島を襲っている最中とのこと。被害が少ないことを祈ります。

台風と言えば、二度ほど忘れられない思い出があります。
二度とも、同じ場所でその恐ろしい時を過ごしたのです。
昭和54年と平成8年の秋、前の方は生まれ育った東京中野在住の頃、後のは関西に拠点を移していた頃で、帰省を兼ねて東京見物をしていたのです。
その場所とは、今じゃ伝説となっているであろう、中野の、いや中央線沿線のと言うべきか、いやいや東京のと言ってもいい、JR中野駅北口サンモール商店街の路地にあった、その名も「クラシック」という名曲喫茶なのでした。
クラシック音楽を聴かせているから、そういう名なのですが、その佇まいから中の様子も何から何までクラシックなのです。
”レトロな”、という洒落た形容の方が相応しいのでしょうが、そんじゃそこらの”レトロな喫茶店”なんぞ、この店に比べたらただの見せかけ、ギミックにしか感じられません!
店に入る時は、ドタドタと入ってはいけない!...床が抜けそう、音がうるさい(最初、本当に店の人に注意されました!)...
お水は、ワンカップ酒の空き瓶がコップ代わり...コーヒーミルクの器はマヨネーズのキャップ...して、そのレコードは、”しゅー、しゅー、ぶつぶつ”...あんな激しい針の音は聴いたことありません。”音響マニアなんぞ来るな!”、って感じです。
この店のことは、昭和50年頃、大学の級友から教えてもらったのですが、頻繁に通うようになったのは、読書に目覚めた昭和53年頃からだったと思います。
そう、その店は私にとり読書と共にあったのです!
哲学書とか詩集とか、じっつに合うんだなー、分かるでしょう?
で、その台風一過の時、読んでた本はハッキリ覚えてますよ。前のは、買って間もない、ベルジャーエフ「神と人間の実存的弁証法/霊の国とカイゼルの国」(白水社)で、後のは”見神”体験を綴る明治時代の思想家、綱島梁川(りょうせん)文集(岩波文庫)です。(台風と遭遇してなければ多分覚えてないでしょう)
どちらも、ぞくぞくと、ある異様な戦慄を伴うような高揚感に耽っていたこと、今でもアリアリと覚えています。
戦慄というのは、”みしみし”と、強風が吹く度に建物全体が揺れ、外では、”んごーっ”と、凄まじい風と雨の音が轟いていたからに他なりません!...”こんな古い建物大丈夫なんだろうか?”、と。
この世を超えているような、生きた心地がしないような...
何で又、そんな危機感を催す、その店に入ったりするのか?...分かりきった理由は、安いコーヒー代で、長時間も居すわれるからです!...しかし、心のどっかにあの戦慄に満ちた、この世ならぬ世界に耽っていたい、という願望があったのは確かだと思います。
そして、その暴風雨が過ぎ去った後のことも、二度とも忘れ難い映像として残っています。
切れ切れとなった雨雲の間から淡い夕日が差して、真紅から紫へとその空を染めてゆく様の、本当にこの世とは思えぬ美しさに、高揚感はさらに高まったようなのでした。
二回も、台風が来るというので、わざわざその店に行った訳でも無いし、たまたま同じ時に台風が来たとはいえ、何で二回も、その得難い時に恵まれたのかは分かりません。
それから、平成16年に関西から東京に戻り、これからいつでも来れるようになったのもつかの間、その翌年にそこは閉店してしまったのでした。

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サージェント.ペパーズになれなかったレコードたち

2022-09-18 11:15:35 | 映画・音楽など
先日、初めて「ビートルズ」の代表的名盤、いやロック史上の名盤とされる「サージェント.ペパーズ.ロンリーハーツ.クラブバンド」(67年発表)のアルバムを通して聴いてみました。
収録曲の3分の2くらいは何らかの形で聞き覚えがあるので、勿論悪く無いですが、今更という感じはやはりありました。
このアルバムを引き合いにされて語られるレコードは、既に何枚も聴いていて、どうしてもそちらの方に思い入れがあるのです。
どういう点で引き合いにされるのかと言うと、”コンセプト.アルバム“ということです。
つまり、一つ一つの曲がアルバム全体とつながっている(個と全体は切り離されない)ような構成で作られているもので、ただのポップミュージックでない、アートな香りを漂わせているレコードのことです。
この種のレコードを最初に聞いたのは、中3の初夏の頃、ビートルズのライバル、「ローリング.ストーンズ」の「サタニック.マジェスティズ」という、「サージェント...」(以下「S」)から数ヶ月後発表の、もろパクリと酷評されている作品でした。
我が家にあった安いプレーヤーと違い、金持ちの級友んちの高級ステレオで聴くと、スゴイ迫力で感激してしまい、その頃から急速にロックに対するアート指向(?)が強まってゆきました。
その半年くらい後に聴いたのは、ついに出口の無い前衛ロックへと手に染め、その大御所「フランク.ザッパとマザーズ」の「俺たちは金のためにやってるんだ!」(68年発表)という、何の変哲も無いメンバーのコスプレ衣様ジャケットのレコードでしたが、見開いてみて初めて分かりました!...「S」のパロディではないか!...歌ってる内容は、「S」に代表される、60年代後半、ブームとなった、愛、平和、サイケの”フラワームーブメント”への風刺。
実はこれ、「S」には、ザッパとマザーズの67年の前作「アブソリュートリー.フリー」(これは最近「S」と共に初めて通して聴きました)からパクったフシが伺われるので、”だったら俺らだって...”というノリで作られたらしいのです。
「S」には、とかく”ロック史上初のコンセプト.アルバム“、という評価が付きまとっているようですが、そんなこたあない!
ザッパだけじゃないのです。そのデビュー作「フリーク.アウト」(66年発表)からしてその括りで語られてもいいでしょう。
「キンクス」の「レイ.デイヴィス」は、コンセプト.アルバムに取り付かれた男と言っていい鬼才ですが、66年発表の「フェイス.トゥ.フェイス」というアルバムは、当初曲と曲の間をコラージュでつなげる意図て作られたが、レコード会社から無理矢理却下されたという。
そのライバル、「ザ.フー」の「ピート.タウンゼンド」も負けてはいません。66年に「クイック.ワン」というミニ.オペラを発表し、翌年末には、アルバム「セル.アウト」で架空のラジオ番組という設定で、何ら“溝無しに“、曲をつないでみせました。
「キンクス」、「フー」ともロック史上初のオペラ.アルバムという括りで語られていますが、私はそれはマザーズの前記パロディ盤じゃないかと思います(不揃いの悪声コーラスにそれっぽさを感じます)。
そうそう、「S」と並ぶロック史上の名盤という評価の高い「ビーチ.ボーイズ」(66年)の「ペット.サウンズ」も忘れてはならないでしょう。しかし、それもビートルズの「ラバーソウル」から刺激を受けたらしいのです。
なんだ、何だかんだって言ってビートルズか?...それは昔から聴いてる彼らの唯一のレコードだけど...こう挙げてゆくと、どこがコンセプト.アルバムだか分かんなくなりそう...
それに早けりゃいいってもんじゃないし...まだまだある「トラフィック」のファースト、「ヴァン.ダイク.パークス」の「ソング.サイクル」...「S」と比較されてきたレコードたち...”それじゃ、悪かろうはずなどないではないか!”、とそっちを優先に買い求めてきたのでした。
どうも、音楽ライターの言葉を鵜呑みにしたようではあるが...やはり悪くないです!
ただ、独立した曲として聴こうが、つながったものとして聴こうが、”アブソリュートリー.フリー(完全に自由)”ってことでしょう。(それにしてもLPレコードだとつなぎ目が無いというのは、聴きたい曲に針を落とすのに困るわ!)

昨日、久しぶりに「二ーノ.ロータ」の「フェデリコ・フェリーニ」監督作品「甘い生活」のサントラを聴きましたが、サントラに勝るコンセプトは無いわ!、と感じ入ったのでした!
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紫の世界

2022-09-17 08:47:59 | 詩的文章
人生の裏側に踏み入れると、そこは紫の世界だった...
暗い...
しかし、暗いばかりではない!
淡い光が覆っていた...
眩しくない、包み込むような優しい光...
深く浸透するような光...
それが紫の世界を映し出していた...
燃えるような赤い情動を闇が覆っている...
生を死が覆っているように...
赤、濃紺、黒...別々にあるんじゃない!
紫の世界...
生と死があるんじゃない!
生死一如...
紫の世界...
それは夜が明けようとしているのか、
夜が訪れようとしているのか?
何かが始まろうとしているのか、
終わろうとしているのか?
最初にして最後にあるもの...
紫の世界...
惹かれてやまない!
いや、引き付けられているのか?
それは、そこに帰り、
そこから出てくる世界...



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自然に、いつの間にか、思いがけなく...

2022-09-15 09:43:38 | 祈りと瞑想
先日、知人で(神道関係では割と有名人)古神道に伝わる鎮魂法(ある種の神人合一の法)を教えている方から電話がありまして、中々その神的な力を実習者に感応させる方法が分からない、というようなことを言われていました。
そこで、彼と私で意見が一致したのは、特別なやり方というのは無くて、全く自然に、いつの間にか、思いがけなくそうしたものが発現するということなのでした。
これはある筋で、鎮魂法と類似したものとして比較される、”スブド”という団体の”ラティハン”と呼ばれる修練、”金井メソッド”と言われる元波動との感応による瞑想、”野口整体”の”活元”という自然運動?などでも同じことが言えるのです。(活元には、みぞおちの辺りをどうとかする、といった秘訣のようなものもありますが、根本は自然と誘起してくるものであるはずです)
これは、又キリスト教で聖霊の臨在を感じるということと同じであり、要するに現臨に与ることと言っていいのです。
鎮魂法は、ごく触りの部分しか体験したことはありませんが、つまり神的な力が感応する場合には多少なりとも現臨感が伴っているものなのです。
私はよく祈ること(如何なる道にあっても祈りの精神、心持ちというものは必要だと思います)や意識を向けることがその”ツテ”であるかのように言ったりしますが、それは言葉として、一応の形として、そういう風に言っているまでで、現実には自然に、いつの間にか、思いがけなくそうなってしまうのです。
無為的なものにゆだねるしかない!...といって、何もしなくて棚からボタモチ式に落ちてくるものでもありません。う~ん...やっばり力まずに自然と、ゆったり祈り心(ゆだね心?)でいたらそうなり安いですかねねえ...何せ、思いを超えたことというのはわっからないもので...
とにかくそれは、こちらの思い、方法を超えて、あるいはそれらに先だってハタラくものなので、思おう、為そう、捉えよう、といった人為的なものから離れるということが”コツ”とは言えるでしょう。
ていっても、それが起こる時には、自然と起こるのでしょうが...
起こる時には起こる、起こらない時には起こらない?、起こるかどうかは分からない?
いや、そんな訳は無い!...起こらない訳が無い!...すべてはあちらが為されること!
自然に、いつの間にか、思いがけなく...眠るのか、起きるかどうかは分からない、などと言えようか?!
毎日、寝て、起きているではないか!...
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