人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

全託に勝るものは無い!

2022-09-13 09:54:18 | 祈りと瞑想
神的なものと初めて真向かいに出会った時にも、今もその現臨にある時も強く感じることは、神は、神の方がこちらを引き付けようと、近づけようとしてやまない、ということです。
だから私は、深い悟りのようなものはさて置き、本当に神を求めるものが、中々そういう神の臨在のようなものを感じられない、ということが不思議でならないのです。
人づてに聞いた話では、ある人は、そうしたものに与るのに十年かかったとか言っていたそうですが、そんなんあり得ない!、と思わざるを得ませんでした。
そういう場合には、どこか神に直接意識が向かわない、向かわせない何かがあるように思えてなりません。
例えば、神そのものでなくて、神についての誰かの、宗教の教え、倫理道徳を修めることだとか、その教師的人間を神の如く崇拝してしまっているとか、神に至るとされる、修行方法に囚われ、悟りの境地を極めることに向けられているとか...本当には何を求めているのでしょうか?
そうしたものへの固執が強ければ強いほど、神への道は閉ざされ、遠のいてゆくのは、よ~く考えれば分かるのではありませんか?
それらを捨てなければならない、ということは多分無いでしょうが、もし真剣に神を求めているのでしたら、一度それらから離れてみて、あなた自身の神にゆだねる気持ちで向き合ってみてはどうでしょうか?...もっとも、ハナっからその気が無いのなら何をか言わんやですが...
神の方が道を示そう、開こうとしているのですよ!...だったらこちらは、”御心のままにお任せします!”、ということでしか無いのではありませんか?...全託、託身。
こういう祈りに勝るものは無いでしょう。又どういう祈りにもこうした言葉以前のものが込められているものでしょう。
そのように、意識が向かう、向かわされる...もう、即...そくそくと神的な力の流入が感じられて来るはずです。
これは何かの教えでも修行法でもありません。神と直に向き合うということは、間に介在する何ものも無いということなのですから...
それらがあったとして、それは何を、何処を指し示しているのでしょうか?
悟りの道がある、という...それは何によるのでしょうか?
遅いか、早いかということはあるのでしょうが、すべての精神的な道は、神への全託に行き着くのではないでしょうか?


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在りて在るもの

2022-09-11 09:50:56 | 現臨、ハタラキ
「我は在りて在るものなり」(旧約聖書、出エジプト記3章)

ユダヤ、キリスト教など聖書の宗教は、超越的な神を説き、仏教、インド教などは内在的な神(仏)を、あるいは又東洋は一元的、西洋は二元的だとか...知らんわ!
こういう、ザックリと紋切り型に分けてしまう教科書的説明は、頭で分類するにはちっとは役に立つのでしょうが、一度中に踏み込んで、実存に触れるまでになれば、全く適応させることなど出来なくなります。一の二だの言っておれるか、ってんです!
本当に神を求め、関わろうとするならば、超越か内在か、といった抽象論などコッバミジンになってしまうのです。実存に触れるというのはそういうことですよ。
神に具体的に関わることでそうならざるを得ない...超越的なものと実存的なものは切り離すことは出来ないのです!...これは、古今東西の如何なる宗教的な道に言えることじゃありませんか?
そして私には、上掲した言葉ほどこの消息を端的に、ストレートに言い表したものは他に思い尽きません!
ラマナ.マハルシも、「真我、神を定義した言葉で、これほどふさわしいものはない」と述べています。
小池辰雄先生は、この「在るもの」のところを「在らしむるもの」と言い換えて、この実存的関係がより伝わるものにしています。神が在ることが私が在らしめられることなのだ、と...。
又、このモーシェに臨んだ、ヤハウェの神を「実存主」と呼んでいるのが素晴らしい洞察だと思います。
この神との実存的関係は、言うまでもなく現臨から来るのです。
神的な現臨にあって、個体的な枠、肉体感覚で中と外を隔てているような壁が希薄になって、自分の中も外も吹きさらしになってしまう感じになります。
古来から霊なるもののことを風(プネウマ)とは、よく言ったものだと思いますね。
そしてそこには、超越的なものからも、実存的、内在的なものからも「私は在る」という言葉以前の根源語のようなものが鳴り響いているのです。
私がこの現臨感覚を覚えた端緒というものが、意識を失いそうになり、自分がどっかに消えてしまいそうにも、言い知れぬ恐怖に襲われた時、思いの彼方から臨んだ、正に「大丈夫だ!、私はここに在る!、私は在るのだ!」という響きによって「私はここに在る!」ことが出来た、ということだったのでした...。
コメント (11)
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キリスト教の外のキリスト

2022-09-09 11:01:26 | キリスト教関連
何度も言うように私は、キリスト教徒ではありません。
手島先生や小池先生など、キリスト者とされる方から多大な影響を受けて来ましたし、キリスト教っぽい?いくつかの団体と関わったこともありますが、なりたいと思ったことは一度も無いのです。
その独善性の強いキリスト教会にあって、割りと寛容な在り方を持った団体の中で私はずっとノン.クリスチャンを通して来ました。
要するに私は、“キリスト教のキリスト“を一度も受け入れたことが無いのです。この先もずっとそういうことは無いのである!
ただ、教会とか教義、教典など、そのキリスト教を取り巻き、形成している諸々の要素を取り払ったところに浮き彫りにされるであろう、キリストそのもの...その関わりから言えば、私はずっとキリスト教信者ならぬ、キリスト信者だったかもしれません。(信者という言い方は虫唾が走るほどキライなのであるが...)
少なくとも、私の実存とそのものとの間に、何ら障壁となるもの、抵抗感といったものは感じません。
いや、むしろ抗し難い、理屈を超えて、惹かれてやまないものを感じざるを得ません!
ヒタヒタと何かが臨み、私の外も中もそのものに満たされてゆく...そうです。そのキリストは現臨と共にあるのです!...
この現臨感というものは、多く先の先生たちから学ばされたことは確かなことです。その実存的関わりについてはベルジャーエフに多く負っています。
そうしていつの間にか、その現臨というものが私の実存と切り離されないものになってしまったのです。
断じてそれは、教会の御用達教義から受けたのでも、熱心な聖書読者でもない私が、その“誤謬無きみ言葉“から受けた訳でもありません!
ここで言っているキリストには、それら私の実存との間に介在する何ものも無いのです。
かつて、小池先生亡き後の集会や、クエーカーの集会において私を捉え、感応させたものは、そのキリスト教の外なる、“色の着いていない“キリストだったのでしょう。
と...このように書いて行くと、あるキリスト者などは、“アーメン、わが意を得たり“、と思って喜ぶかもしれません。
しかし、よく考えてみて下さい、キリスト教の外のキリストとは、もはやキリストとは呼ばれないものなのかもしれないのですよ!
仮に、阿弥陀如来にその現臨を強く感じることもあるかも分かりません。神道的な神の“み顕れ“を感じるかもしれません。(私の場合?...キリスト教的なものから多く負っているのは確かなのですが...切り離されない、分けられないですね...)
何であってもいいが、何であってもよくは無い!...現実にそれが臨むことが肝心なのです!
つまり、キリスト教の外のキリストとは、あらゆる宗教宗派を超えているのです。
それは“自己を超えたもの“との二重の意味で、超越的なのであり、自己の、我々の思いを超えたものを頂くということに尽きるでしょう。それは又自己実存と切り離されないものなのです。
特定の呼び名に囚われない、本来名付けられない現臨にあって、自己は自己でありつつ、普遍性へと開かれるでしょう。個的なものと普遍的なものは切り離すことは出来ない!
その境位から宗教対立は夢と消えて、宗教が本来指向していた、普遍調和世界が開かれてゆくでしょう...。
このようなことを呼び覚ますものは、私の中の普遍的なキリストなのでしょうか?

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十字架と聖霊は切り離すことは出来ない!

2022-09-08 10:21:40 | 人生の教師
「十字架と聖霊は切り離すことは出来ない!」
この言葉は、小池辰雄先生から何度も直接お聞きましたし、書かれたものにも接してきました。
そして、この私もここで何度となくそのことについて書いてきました。
くどいようですが、このことはいくら強調してもし過ぎることは無い、と感じてやまないものがあるのです。
(神の現臨たる)聖霊を受けるという。さらにそれが深まると聖霊のバプテスマに与るという。これは広く宗教的回心、覚醒、悟り体験の一つと言ってもいいでしょう。
それは、人間のレベルを超えた、超人、神と一つになった境地へと進化することのように思っている人も多いでしょう。
しかし、この思われたままの自分が、その延長として連続した形で、そうした境地に達する、という風に捉えられているとしたら、それは正にそう思っているだけのことでしょう?
古来から宗教的伝統で無になるとか、空になるとか言われていることは、宗教的回心、覚醒には思いを超えなければ開かれない、ということを伝えているに他なりません。
一体、手放しで、その思っている自分が、自分から思いを超えることなど出来るでしょうか?
よく考えたら分かることじゃありませんか?!
つまり、思われた世界と思いを超えた世界とは非連続になっているのです。その際に自己を超えたものが切り込むように臨むもの...それが聖霊です。
短絡的に人間は、今の段階より段々神の段階へと進化するものだ、と思っているとしたら...その思いは消えてしまうかもしれません!
聖霊が臨み、それを深く体受することは、思いを無化させられることだから...
そういう思いにずっと駆られていることよりも、神のハンマーを受けて“断念“させられる方がはるかに重要なことではないでしょうか?
そうでなければ、どうして神、キリスト、如来と一つにつながることなどあり得ようか?!
まことに、真に自我に纏わる思い、自我性の突破無くしてあり得ないではないか?!
小池先生が示された十字架とは、こうしたことに深く関わっていたのです。
聖霊を受けることは、十字架を背負うこと、否同時に受けることです。これは、不離一体!
通常のキリスト教の教えでは、それは(私には到底手放しで出来そうにない)苦難を背負うこととして理解されているようですが...恩寵の事態というものは、苦しさに耐えるような、そんな(思っているような)世界では全くありません?!...何故ならば、それは愛、平安と切り離されないものだから...
先述したように、幾多もの宗教的伝統では、無、空に至る道が説かれているのですが、小池先生のように、具体的に、霊的実存に照らされて示された例は、私は寡聞にして知らないのです。
ただ惜しむらくは、十字架と聖霊という、如何にもキリスト教だけにしか通じない用語によって語られているために、その内実は普遍性へと向けられているにも拘わらず、ごく一部のキリスト教関係の間に留まっているということです。
万人に向けられているものほど埋もれている...全くどっかの一風変わったブログで取り上げるのが相応しいのかもしれません...。


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切り離されないもの

2022-09-07 09:52:01 | 哲学・思想
私はよく、○○と○○は切り離すことは出来ない、という言い方をします。
これは、現臨というものを感じていたらそうならざるを得ないのです。
要するに、現臨と私は切り離されないのです!
それが臨んでくると、自ずと思念は後退してゆき、その分けることの出来ない、調和的、包括的なものに意識が向かうようになります。
つまり、それは“分別“智が後退し、本来的智が顕わになることに他なりません。
何でそうなるかは“分からない”...分けられないから...
ここで、本来的智と仮に言っているものは、頭脳智のみでなっているのでなく(それは、あくまで突出していたものが、引っ込むのであって無くなる訳ではありません)、直感智というべきもの、又表層意識では別々のように認識されている愛とか、情動、パトス的なものと切り離されていないのです。
本来的というのは、それが“本来の人間“の在り方のように感じているからです。
これは勿論、智に関するものでなく、個と全体、見えるものと見えないもの...とあらゆるものにも関わるものなのです。
転じて、今日人間存在の存続の危機が叫ばれているのは、この本来性から切り離されて、分別智の偏重による、その飽くことを知らない暴走によるものと言っていいでしょう。
人間とは、考える生き物であるだけでは決して無いのです!
もっと根本的なことに触れるならば、人間とは、“人間と考えられている存在“のみによって成り立っているのでしょうか?
人間存在を規定していると”されているもの”は、“人間とはこうゆうものなんだ!“、という通論でしか無いのではないでしょうか?
これは、本来切り離されないあるものから、人間と考えられるものを切り取ってみせたものでしか無いのではないでしょうか?
切り離されないものから切り離されるということは、その本来の、生命の本源から切り離されることを意味するでしょう。
それは考えられている人間を全く超えたもの、あるいはそれ以前から実存しているものに他なりません。
人間のことは、超越的にして、内在的なものを抜きにしては、考えられないのではないでょうか?
私はそういうものを神的なものと呼んでいます。その実体は言うまでもなく分からないのですが...これまでのこの世の通例では、人間は人間、神は神とはっきり分けられて捉えられてきました。
どちらもそれが何かは分からないものであるにも拘わらず...そこで言われる神というものが如何に、“考える主体としての人間の存在“を無視するかのように、有無を言わせない、押しつけがましい権威と結びついてきたかということは、私も十分理解しているつもりです。
”そういうものに我々人間は、容易く屈服してはならない!”、と私も叫びたい!
しかし、そういう通例も、本当には我々が生命の本源から切り離されてしまったことによる、人間自身の過失には違いないでしょう。
今こそ人間は、もっともっと自分自身に向き合わなければならないのです。
さすれば、人間を超えた、あるいは人間存在の前から生き通しのものとつながることが出来るでしょう。
逆説的に言えばそれが本来の人間なのでしょう。神と人間は切り離すことは出来ない!
人間は、真の人間の姿を未だ見ていないのです!
限りある人間、頭だけの暴走の歯止めの利かない人間からは、もはやその命の故郷への帰還の道は閉ざされたようにも思える...
しかし、それを見えないところでストップをかけ、その道が開かれるのを促すものこそが現臨に他ならないのです。
それは本来、我々と切り離されないものなのだから...


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