人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

あなた自身の神に!

2023-10-07 09:46:07 | 
世界平和の祈りなど、こうすれば世界平和や、個人の平安が実現するとされることを長年し続けていても、一向に実現されることなく、かえって混迷を深めるだけのように感じて、そうした信仰から離れてしまう人も居ることでしょう。
その祈りなどは勿論神に向けられるものです。こういう人たちには本当に向けられているのでしょうか?
その先生や団体の教えの言葉を正に信じているだけなのではないでしょうか?
私も勿論信じていましたよ。けれども世界平和の実現のことは、私に直結したことじゃなく、とらえどころがないからか、意識が向かうこともありませんでした。
しかし、その言葉を通じてですが、神に意識が向けられたのは確かなことでした。神はもっととらえどころがないかもしれないが、自然と向いてしまうのです。
神に...ということは先生はともかく、団体のことは二の次になる、とどのつまり、信仰ごとは乗り越えられるということです。
神が世界平和を実現するかどうかは分からない!...それはそう説かれ、信じられているということでしょう。否、神と言われるものからしてそう、神がすべての創造者で、世界も人類も被造物ということもそうなのです。本当のところは分からない。
もっとも、最初の頃の私は、こんなねじれた?、醒めた観方などしてませんでしたが...
私は多くの信者と同じく、素直に教えを信じて...《神》に意識を向けるようになったのです。
本当には神が何であるか分からないままに...すると、一寸暗示がかった感じはあったにせよ、そうすることで、幸福感を覚えるようになったのです。というよりか、その思いを超えた方からの働きかけみたいなものを感じたのです。
そうして、少なくとも私には平安は実現するようにも感じてきます。
そうなると、教団のことなど二の次にならざるを得ないという訳です。
こんな訳で神に直接向かうか、どうかが大きな人生の結節点となるでしょう。
幸福感を覚えることが如何に大きいことか!...神がどういうものか、ということさえどうでもよくなるということですよ!...
世界平和の実現のこともどうでもいい!...逆に言えば、自分自身が平安を感じずして、世界平和の実現などあり得ないのではないか!
”そら、サタンだ、闇の勢力だ、隠始だ!”...”神は私を愛してくれない!”...あなたの中は常に戦々兢々状態が絶えないのではないか!
こういう人は本当には、”あなた自身の神”と向き合っていないのでしょう。
だから、信仰ごとはともかく、神そのものから離れてしまうのです。それは、思いの中で、ということですが...
本当には、片時も離れることなど出来得ないのだから!...
神と自分は別々のもの、という思いからそうなってしまうのでしょう。
神と私が別々のものなら、何故自然と意識が向かうのか、こちらでなく、あちらから向けられるようになるのか?...私には説明がつきません!...
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考えられない!

2023-10-05 09:42:15 | 現臨、ハタラキ
ダメだ!、私には出来ない!...
”あれ”の侵入の前には為す術が無いのだ!
思うまい、意識すまいと思っても、どうしても私の意識に入ってきてしまう!
もはや、この思いを超えたものによる支配からは逃れられないのだ!
どうして逃れられないのか?
それは...私の本心が望んでいることだからだ!...

私の書いていることには、多く裏表があります。逆説的なことをよく表したりします。
いつもの現臨にある意識状態のことを書いてみたのですが、これは全くかつて思いのがんじがらめの、ノイローゼ状態にあった時の裏っ返しです。
何故、そんなことになってしまったのか?、考えられないことです!

”意識をパッと”あれ”に向けたらいいだけではないか?...いや、そうじゃない!、向けようとしなくたって自ずから向いちゃうだろう...”
”何だって?...思いがこうして固着して、閉ざされた状態になっているのに、何でパッと開かれたりすることになるんだ!...考えられない!”
開かれた状態からは、閉じた状態のことが考えられない!
逆も又同じ...

そもそもその半年前に、思いを超えた世界を目の当たりにしたというのに、何でそういうことになってしまうのかが考えられないことなのです。
その理由はいくつか思い当たることがありますが、直接的にはその恩寵の事態を常識的、理性的な判断でそれにフタをして、否定するような心持ちを抱いたことによるのでしょう。
その動機は、そのことに囚われて、自意識過剰から増上慢の思いに駆られそうになるので、それを防ぐためでした。
だけど、そういう思いに囚われまいとすることと、そのこと自体を否定し去ろうということは、全く違うことなのですよ!
私は自分の思いで、それを覆い、否定することが出来ると思っていたのです。そう思っていただけなのです!...そしてその思いが重しとなって苦境に陥ってしまった訳です。
今、そのように思いで覆い、否定しようとしても...出来ないですよ!
その前に思いを超えたものが臨み、立ちはだかるのですから!...そうしようとすると、瞬く間に意識が向いて、かえってそういうことになってしまうのです。
私は本当には、思いを超えた世界のことが意識に根付いていなかったということ、それに尽きるでしょう。だから自分の思いで操作が出来ると思っていたのです。
自分の人生は、思いが支配している…そう、だからその思いに閉じ込められ、支配されてしまったのです。
私はしかし、確かにあの至福にあった時、聞いていたのです。
声なき声が嘆願しているようにも訴えているのを!
”どうか、私につながって居て欲しい!、いつも私と共にあることを忘れないで欲しい!...それがお前の本心からの願いなのではないか?”、と!
ああ、考えられない!...私はどうあっても出来やしないことを考えていたのです!
あの御方と私自身の願いは一つのもの...もはや疑うことは出来ない!



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現実を受け入れるということ

2023-10-04 09:56:51 | 意識、照明
私はこれまで”現実を受け入れること”が如何に重要なことかについて、何度か言い表してきました。
これはしかし、例えば突然不幸な事態に見舞われて、そのことを受け入れる、というようなこととは直接関わるものではありません。
ツラいことは、どうしても受け入れることなど出来ませんものね?
無理に受け入れる必要はない。...私は自分にも出来ないようなことは言いません。
”いや、出来るも何も掴みようが無くて、何だか分からん!”、ということはあるかもしれませんが...ごもっとも。分からなくても、いや出来なくてもいいのです。私は現実を受け入れることなど出来ません!...は?!
出来ることは、受け入れようと、意識することです。
私はノイローゼのような精神的苦境に陥ったことがあります。
苦しくても、外には行きたがってたので、世に言う、”引きこもり”では無かったようですが、思いのがんじがらめの状態の苦しさは分かっているつもりです。
こんな状態の時、例えば”ネガティブなことを考えないで、明るいポジティブなことを考えるんだ!”、などという、アドバイスが如何に非現実的で、人の心に寄り添ったものでないかが知られるでしょう。
出来ないから、そういう現実を抱えているのですからね!
だけど、いつも頭の中を駆け巡り、又凝り固まっていることは、その現実に即したことじゃないですよ!
”こんなことになって人はどう思うだろう...いや、人がどう思うかということに囚われているから、こうなっているのだろう...何とかしなければ!、何とか出来ないからこうなっているのだ!”
しかし、今のこうなっている現実には、何かと言いたがる人間は居ません!、何とかしなければ、やらねば!、しかし出来ない...出来るであろう自分を思い描いて、やろうとする思いにかられるだけなのです。
出来なければ、出来ないでしょうがないではないか?
この場合、現実を受け入れるとは、このまんまの現実を受け入れるということです。現実に居ないどっかの誰かの声もなく、現実に出来ない自分のことでない、今の自分自身の現実のことです。
受けいれねばならないのでなくて、受け入れられないまんま、を!
私は何度も経験しているのです。その瞬間、思いのがんじがらめ状態から解放されるのを!
私はそうとは知らずに、そう...”思いを超えてハタラクあるもの”を受け入れていたのです。
否、苦境にある私自らはそうなりません。そうなさしめるものを受け入れていたのです。
否々、受け入れようとしただけなのです(いつもいつも言葉の言い回しに苦労します)。
それだけで、思いで密閉状態に隙間が生じ、そこからよみがえりの風が吹き込むようにも、あるいは光が差し込むようにも思いが溶かされて行くのを覚えたのです。
そこから先は、再び思いの閉塞状態に戻るかもしれないし、解放されたままかもしれません。私の場合(最後は30数年前)それをほとんど知ることもなく、意識もされてませんでしので、今のようには行きませんでしたが...
だけど、その思いを超えてなさしめるものに意識を向けることは、じっつに大きいことですよ!...これが何のこっちゃワカラン向きには、今の自分の現実を受け入れようと思い立ったらいいのです。
何しろ出来る、出来ないの問題でないから大きいのです!...何にも出来ない私にとっては!(やって出来ると思っている人間には絶対に分かるまい!)
だからだから、これは聞き飽きた言葉かもしれないが...

”あなたは一人じゃない!”...



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出来ること、意識すること

2023-10-02 09:59:00 | 意識、照明
ラマナ.マハルシに関する本、ネットの記事に触れていつも感じることがあります。
これは、ラマナ自身も講話などで言っていることですが、例えば”明け渡し”ということに関して「あなたは、完全に明け渡す必要があります。そうでなければ、自我が消滅することはないでしょう」などと説かれます。
それを受けて、あるブロガーなどは「その道は険しいですが、自我は完全に真我、神に明け渡さなければならないのです」などと書いたりしています。
しかし、完全に自己を明け渡すことの出来る、その境地に達する人など居るでしょうか?...勿論私には出来ません!
少しく、自分の現実に照らしてみたら分かることじゃありませんか?
ラマナの話というのも、かなり大雑把な感じを受けるのですが、一方では真我の実現はけっして達成したりするものではない、と言ったり、又この言葉は、修行者に努力することを喚起しているように受け取れますが、一方では、真我に目覚めるには何らの努力を必要としない、と述べていたりもするのです。
だからといって、何もしないでそういうことが”起こる”(私はそれが出来る、というよりはそうなるものと理解しています)ことは、当たり前ですが無いでしょう。
思い、為そうとする自分から、自己を超えたものに明け渡すことは出来ない!...しかし、そう意識することは可能なのです。というか、我々が出来ることというのは、それしか無いのではないか?
いや、私は意識することが出来る...これ自体も本当には...
いつも言うように、意識することは能動的に思考を働かしたり、念を強めることとは違います。
取っ掛かりとして、そのように能動的に意志するということはあります。
しかし、そこに意志想念を超えて、他動的に、あるいは自動的にそのように意識的にさせるものを感じたなら...これが肝、アクメなんだ!
思い、意志想念を超えて、それ以前からその根底にあってハタラクものが、意識というものなのであり、いつも書いてて、自然とそうなるように、意識することというのは、”意識される”ことと一つのものなのです。
そこでは、出来る、出来ないということは問題ではありません。純粋意識の状態になる必要もありません(言葉の言い回しに留意を!)。やって出来る人など居ないだろうけど...
これは、少しく考えてみたら分かることでしょ!、明け渡し、全託の境地に自らなれる人など誰も居ないのですよ!
では、その真我実現に立ちはだかる、自我というものはどういうものなのか?、それは正に、”自分は明け渡しが出来る、達成出来る”という思いの中に示されるのではないでしょうか?
自然に”意識的な状態”になるには、やはり相応の意志的な努力も必要でしょう。それは、常に意識することを心掛けることかもしれません。
しかし、それは常にその裏側では、”意識されること”と切り離されてはいないのです!...
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現臨にあって一つ

2023-10-01 09:50:26 | 現臨、ハタラキ
現臨という言葉は、何度か書いているように、主としてキリスト教で使われている、神、キリスト、聖霊の現臨などと言い表しているものから借りているのです。
特に聖霊というのは、その具体的なハタラキと結び付くもので、神、キリストの臨在感というものは、それを通して伝わるものと言えるのです。
そして、こういうものは、そこで強調されるものであれ、キリスト教に限定されるものではないのです。
宗教、スピ、哲学、あらゆる精神的な道に通底する、その生命に関わるものと言っても過言ではありません。
昨日は、夢の中でインド、東洋的?な瞑想と関わって、何かの非人格的?な波動エネルギーみたいなものに感応してしまったようなのですが、目覚めてもそれが続いていたんだから、もはや夢じゃないですよ!
同じようなことが、夢の中に手島郁郎先生が出て来て、按手を通して、聖霊を受けたこと、大調和協会の命位様と交流して、”おハタラキ”を受けたことなどでありました。
これは、眠り、目覚めの時というのは、思考マインドから離れ、余計な観念から自由なので、特にそう感じられるのですが、あの”ジンジン”と、思いを超えた力により私の全心身に満たされ、浸透してゆくものには何の違いも無く、一つのものに感じられるものなのです。
あれは、非人格なエネルギーなのか、聖霊というものは人格なハタラキなのか?、ということはどとっちとも感じられるものであれ、そういうことは、所詮理屈ごとのようにしか感じられません。
その生命、臨在に与るかどうかが肝心なことなのに、考えごとにしてたら起きてても、眠りに陥りますよ!
私は、これまで立場の異なる何人かの教師と出会い、その教えに接して、共感、共鳴することが出来ました。
これは、あまり自覚してこなかったのですが、それはほとんどの場合、現臨感と共にあったということが言えるのです。いや実際、それ無くしてどうして共鳴などということが起きるのであろうか?...
各々の相異というものは感じるのは自然なことです。そうであってもいい...
しかし、その思いを超えたハタラキにあって、一つに感じられることも又極めて自然なことなのです。
通常考えられていることは、信じる対象として神があり、従ってゆく教えやメソッドなどがある、とそれらは自己とは別のものとして捉えられているものですが、現臨にあるということは、自他の相異を超えている状態を言い表しているのです。
現臨にあって、超越的な神は信じる対象のままでは無く、自己実存と切り離されることはありません。
宗教、スピ界で盛んに取り沙汰される、本源的に一なるものの消息は、現臨にあって、抽象的に思い描いたものでなく、具体的に実感されるものとなるのでしょう!...
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