人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

まあるい世界

2024-02-05 08:34:49 | 詩的文章
今日、都心では雪が降るとか?
視界が悪くなる
滑りやすい
寒い...
用が無ければ外に出なくてもいいではないか?

いつもいつも外ばかり見てきた
外にばかり何かを求めてきた
何が見えたというのだろうか?
何を得たというのだろうか?
滑って転んだというだけではないのか?

人が信じている神のことなどどうでもいい
人が求めている真理
悟り、本当の自分...
外で何が起きているかも...
みんなどうでもいい!

布団の中でずっと丸まっていよう!
それがすべての世界
僕は今丸まっているのだろうか?
まあるい?
どっからまあるくなっているのだろうか?
すべての世界がまあるいのだろうか?
すべての世界が僕なのだろうか?
何でもいい!
まあるいんだから!
安らいでいられるんだから!...







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心象と実存

2024-02-04 09:49:04 | 哲学・思想
私は、言うまでもなく特定の宗教、思想などからは自由な人間です。
しかし強いて、私の精神的な歩みの、特に初期の頃は、日本神道的なものとキリスト教的なものの影響が強かったということは言えるでしょう。
これには、その二つを体現していたような霊感詩人、ジャーナリスト、故.西村忠義先生の「人類の復活」という著書と出会ったことが大きかったのです。
先生には、その敬愛していた手島郁郎先生と同じく、古来からの日本とユダヤの同祖性、関係性が常に心象に映っていたのは間違いありません。
そうです!...大本などの神道で、表に現れる元の神、国常立之尊とは、“在りてあらわになる神“、ヤハウェに他ならないのです!
そして、その神からこの地上に現身として現れた神人がキリスト.イエスであり、その原型は素戔嗚尊であったのです!
“平安京“を開いたのは、渡来民の秦人であった。彼らは太古のエルサレム(平安の都)から真の魂の故郷、メシア出現の地を目指し、これを造営したのです。
これは、再臨のキリスト、真のメシアは東方より出現することの黙示でなくて何であろうか?
私はこのことをここに実証...なんかされる訳が無い!
いや、実証されては、実証しようとしてはダメなのです。それは、霊的な実相界から思念世界に堕ちてしまい、生ける神を再び岩戸の中に閉じ込めることを意味しているのだから!
これは、あくまで内的心象に映し出されていることを言葉、表徴を借りて表現したものに過ぎないので、これは一種の霊界物語のようなものなのです。(ちなみに私は出口王仁三郎師のその大著述は、その当時数多あった、又大本教団に蔓延していた、そうした実証に駆り立てられて、妄想に走った試みに対するアンチテーゼであったと見ています)
実に内的心象に留められているか、強固に信じ込み、実証、妄想に走るかどうかが、真に霊的な現実からズレるか否かの分かれ道となるでしょう。
肝心なことは、その心象に描かれているものが、私の霊的実存にどう映し出されているか、ということなのです。
思念世界の岩戸を開いてそこに、顕わに現臨するものとは何か?
神人...神と人が合い、一つになる、その顕現とは如何なるものか?
それは思い描かれたものでなく、私自身と直に関わるものでなくてはならないはずなのです。
そして又、私の心象には、この実存に訴えてくるものと、日本神道にみる、ある種の寛容性とが、これからの宗教的、精神的な道において重要な要素となるように感じているのですが...
やっぱり、真の救世主はこの日本に出現する!、というような声もどっかから聞こえてくるような?...
それは、あなたの真の神のみぞ知るところでしょう!...
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神のリアリティと事実

2024-02-03 09:43:07 | スピリチュアル?
神的なものと共にあることは、愛、平安、リアリティに与ることと言ってもいいでしょう。
しかし、このことは証明出来るものではありません。
愛、安らぎというものからしてそういうものであるのは言うまでもないですが、ここで言うリアリティというのは、普通“考えられている“、現実、事実とは違うもので、前のものと切り離されないもので同じことなのです。
言い方を変えれば、たとえこれらのことが証明されたとしても、あなたはそれに与ることは出来ないのです。
これが神的な、霊なるものと共にある、一つになるということなのです。
然るに、何故に宗教やスピ界隈には、神、霊なるものがあたかも証明出来るような事実として語られたりしているのでしょうか?
その存在性が証明されようと、あなたの内的実存とは何の関係も無いであろうのに!...
神のリアリティは、自己実存に照らせば自明のことなのですから!
この傾向の多くは、宗教的狂信者、カルト信仰などに見られるものです。
彼らは、信じている神、教え、陰謀論などの真実性を客観的事実に求めようと躍起になっているのです。
沈着冷静に科学的事実を証明しようとする学者たちに比べると、はるかに理性は飛んでしまい、肝心のその真実性のことも実はどうでもよくなって、ただ自分が信じたいこと、妄念のトリコになってしまうようです。
妄念とは、有るか無きか、分からないことを有ると頑なに信じ込むことであり、必ずと言っていいほどその出所は、自分が信じている誰かの言葉に過ぎないのです。
要するに、彼らは真実に神的、霊的なリアリティというものを知らず、それと伴う実存的意識というものにも目覚めていないのです。
だから、容易く他人の言動に追従、隷属してしまうのです。
観念に強固に囚われることにかけては、ある面で所謂唯物論者以上かもしれません。
ずっと理性的で、より内的に深まる可能性もある、実存的に神、霊を信じない人間も多く居るだろうから...
だから、たとえ神、霊のことが語られようと、観念の奴隷と化した者ほど、真の宗教、スピリチュアルの道に遠いものは居ないと言うのです。
彼らがどんなに瞑想を、祈りの行を、信仰生活をし続けようと、その形を真似ていても何にもならないのです。
出発点からしてズレてしまっているのでしょう。
このことに意識を向けられないのでしょうか?
言い換えると、ここでは神、霊なるものとは自分自身にとってどういうものなのか、ということを問うてみることです。そうすると、意識的になったりするのです。
自分が自分に...というのが難しいのであれば、そう、神に問えばいい!
勿論、誰かが言ってる神じゃなく、あなたの神に!
祈りも瞑想もこのことからズレてはあり得ないでしょう!



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受け入れる覚悟

2024-02-01 03:07:58 | 求道、探究
ドラマ「正直不動産」で、主人公の元同僚で、ライバルの営業マンの口グセ...“人間てそんなに変われるものじゃないですよ!“
そうです!...少なくとも私は変わろうと思い立って、やろうとして一度も変わったタメシなどありません。
だから、思い、為そうとする自分からは変わることが出来ないんだってば!
しかし、そこに一陣の風が吹き込むと...いや、冗談でも誇張でもなく、私はこれまで、厳しい寒風が吹き荒れる天候が、暖かい、優しい風に変わっただけで(夏は逆なんだ)気分が変わったことは何遍もありますよ!
別に風でなくてもいい...美しい夕日、通りがかりの猫...要するにそれはほとんどが思いがけないことなのです。
つまりは、“変わろう!、変わらなきゃ!“、という思いに囚われているから変われないのです。いや、そもそも、変わろうとすること自体がそういうもので、変わらなくてもいいかもしれないのです。
エ、誰かが見てる、なんか言おうとしているんですか?...私がどうしようと、どうなろうと彼らにゃ関係ないだろ!
ハ、神サマが見ているのか?...正しい、進んだ自分にならないと、このまま悪いまま、罪のまま変わらないと地獄に落とされるとでも?
到底、このままでは神の御前に立つことは出来ない!、本当の、ありのままのダメな自分を見ることは出来ないですか?
それが出来るんなら、どんな難行苦行でもずっと続けられるのですか?..“こりゃあ、生き地獄だ!“
熱心な信仰者が神を恐れているのは、別に驚くことじゃないですよ!...彼らはホントは神など信じちゃいないのです。信じてたら受け入れられるのです。
神を受け入れられない...それは本当の自分を受け入れられないことと同じじゃないですか?
この意味でも、神と本当の自分は一つのもの、ということが言えるでしょう。
“神を受け入れると、ありのままの自分が隠さずに映し出されて、その裁きを受ける“、というのは言うまでもなく、そう思い込んでいるだけです。
まあ、それはほとんど刷り込まれているようなものなので、自分からは思い込みを外せないのでしょう。
あの、“思い込みで出来た謎の祠さえ壊しちゃえば!...しかし中から何が出て来るか分からないし、神の祟りがコワイ!“、ってとこでしょうか?
だから、これはあの“お照らし“、“正直の風“などのなせる技なのです。
そこに、“まかせる“道が開かれるのです。それには、何らの行など必要でありませんが、ただ、ある“覚悟“は必要でしょう。
分かりますか?、“覚“、“悟“ですよ!
覚醒も悟りもこれを置いては絶対にあり得ない!、と断言しちゃおう!
あの風を呼び込みさえすれば!...それはやはり祈ることでしょう...。



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