人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本来性ということ

2024-02-12 09:46:24 | スピリチュアル
精神的な道では、一寸した言い回しの違いから大きく観方、感じ方が変わる表現があります。
例えば、“真我“というもの...“真我になる“とか言います。修行か何かで、今の自分を段々高めて行ったらそうなるのでしょうか?
今の自分は本当の自分じゃない?、真我というのは到達しないとなれない?...“自分探し“という...何処に探しに行くのか?
こういう言葉を聞いて、オカシイと思った人は私だけではないでしょう?
自分の在るべき在り方は、自分が分かってなきゃオカシイでしょう?
じゃ、一体ここにこうして生きているものは何ものなんだ?
そして、色んなスピ本とか教師に聞いたりするんだ?...“本当の自分てなんですか!、どうやったらなれますか?“...
私がいつもここで匂わせていることは、一個の自分というのは、それだけで成って、生きているんじゃないということです。
そして、そのことを一寸意識しただけで、あの“そのものにあって、私はここに在る“ような、そう、現臨するものに包まれて来るのです。
これは、自分からそうなろうとすることじゃないですよ!
自然にそうなるということ...それは“本来の在り方に帰る“という言い方も出来るでしょう。
“おお...“、アタシャもう、この言い回しにどうしても惹きつけられざるを得ません!
分かりますか?...なろうとする、到達し、獲得することじゃないのです。
折角到達しても、そこから落ちるかもしれない、獲得するものは失うかもしれない...
しかし、本来性というものは、いつでもどこでもそこにあり、失うことがありません!
何よりも、自然にそっちに赴いてしまう!...そこに愛、安らぎが感じられるから!...
ですから、本来の自分に帰るということは、幸福に与ることなのです。
しかし、ここでも言い回しにご注意を!...幸福になる、それを追い求めることを言っているのではありません。
それが悪い訳では勿論ありませんが、今が幸福じゃないから何かをやることで、先にあるものを求めることじゃなくて(それで幸福になれる保証はないし、得た幸福は失うかもしれません)、今のままで、自然に与るもの、幸福は本来的に与えられているということに他ならないのです。
このことをもっとも端的に感じられることは、寝て起きた時のあの喩えよう無い至福感です!
そうなろうとしたってなれません。自然に寝て起きたらそうなっていた!
この時ほど、自分の本来性に帰ったことが実感されることはありません!
一個の自分からはそうならないということは、やはり自分を超えて、そう在らしめるものがあるということなのでしょう!
と言うか...本当に、ホント~に、この人生はそのもの無しにはあり得ないと、あり得ちゃうことが、ホントにオカシイということに気付かされるのでした!...






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思い、形を超える

2024-02-11 09:14:29 | 祈りと瞑想
いつも言っているようなことですが、精神的な道においては思いから離れる、自由になることが重要なことです。
しかし、そういうことを思い、為そうとする自分がやろうとしても中々出来るものではありません。
そこに祈りというものの必要性があるのです。少なくとも私は、それによってそういう道が開かれたと言ってもいいのです。
瞑想という道もありますが、私的にはそれは、やろうとする自分を引きずる感じがどうしてもしてしまうので...
“祈ったって、何にもならないではないか?“、と思われる向きもあるでしょうが、それはあなたがそう思っているだけなのではありませんか?
祈るということは、漠然と考えたり、思ったりすることではありません。
又、あなたが祈ることで、そういう修行のようなものによって、何かが開け、もたらされる訳ではないのです。
それは、実に思いを超えたもの、神的なものに依るということに他ならないのです!
これは、実際にそのように思いを超えられ、開かれてみなければ分からないでしょう。
そして分からされる!...神的なハタラキが如何に大きなものであるかということが!
ちっぽけな自分をどうこうしようということなど問題ではありません!
要するに、その神的なハタラキに意識を向け、それを呼び起こすことが主眼となるのです。
祈ろうとするのは勿論思い、為そうとする自分ですよ。しかしその自分に思いを留めずに、その上に向けるということがミソなのです。
ですから、祈りというのは、そのための方便ということは一応言えます。
しかし、祈りとは、決まった祈りの文句を称えたり、手をどう組むかとかそういう形ばかり思い描いているとしたら、それは方便のその又方便に囚われているということでしょう。
ここでは、形を超えるということを言っているのですよ!
そういうものは、思いはすべて神に預けちゃう!...そうすると思わず幸福に与ってしまうという訳です。
それが祈りから導かれる意識状態なのです。そうですね、これは瞑想の深まった意識状態でもあります。
だから、私的には、私がやろうとする瞑想というのは無いですねえ...これ又いつも言うように祈りと瞑想は切り離すことは出来ないのです。
もう、どっちでもいい!...形を超えて、その超えたものにつながればいい!ってことですよ!
そこには、自力も他力も、一元も二元も、何教もありゃしません!
ただ、こちらの思いを超えたものが通るということがあるのみ!...





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春の風

2024-02-10 09:11:15 | 独語
“禅の立場では自分以外の神とか霊的存在などを認める訳にはいかない...“
“キリスト教の立場では、歴史的なイエスを信じ、その十字架の贖罪を信じなければならない...“

宗教では、無とか空とか神と一つになるということが説かれる
何かを信じなければ救われないということが説かれる
自分の立場に固執していて何故そういうことが言明されるのだろうか?
仏教やキリスト教を楯にしているだけではないのか?
何かが鼻に付いてしょうがない!
無になる、空になるということは...
私は無になった、空になったということなのだろうか?
信じて救われるということは...
私が信じているから救われたということなのだろうか?
“やっている、やりました“という自分への固執...
いよいよもって鼻に付いてならない!
どこまでも付きまとう“自分“というもの...
自分をどうするかという問題?
自分をどうするかということなど問題にならないではないか?
どうにもならないのだから...

路面に積もり、凍りついた先日の雪も暖かい日差しを浴びて自然に溶けだした...
どこからか風が吹いて大気の中へ飛ばされて行った...
積もりっぱなし、凍りっばなしの思いというものはない
無だとか空だとか思う必要もない
お日さまが出たら照らされるだけ...
風が吹いたら運ばれるだけ...
暖かい春の風...
思いを超えたところからくるもの
それを仏法や福音と呼ぶのは自由だろうけれど...
為した、信じた自分とは関係ない!...

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導師と秘儀伝授

2024-02-08 09:30:14 | ガイダンス
仏教や道教など東洋の宗教的な道では、導師の存在が重要なものとされています。
あたかも導師無くして悟り、道の体得は不可能とされるが如くです。
取り分け、禅仏教にみる師子相伝による法の伝授はよく知られていますが、チベット仏教には“ゾクチェン“と呼ばれる、インドの非二元の道に通ずるような、余計な階程を通さずに直接経験に導く道が知られています。
ここでも導師の存在は不可欠で、そこから弟子にその経験に開かれる、秘儀?が伝授されるのです。
それは“リクパ“と呼ばれ、それに与ると純粋意識が開かれると言います。
純粋意識が開かれることは、思いを超えるということであり、神的な現臨感が深まることで開かれるものと同じと言っていいでしょう。
しかしながら、もしその導師が“自分自らがこの秘儀を授けよう!“、などという思いに囚われているとしたら、それは間違いなくエセ導師ですよ!
このことは、チベット仏教の教えをかなり取り入れていた、あのオウム真理教を思い起こすまでもないでしょう!
その導師は、空性とか無化のプロセスを通っておらず、自我意識を超えておらず、むしろ肥大化しているということなのです。
これを思うと、本当の師とは弟子によって見極められてこそのものであり、この意味で“相伝“のものと感じざるを得ません。子弟の関係は、支配し、盲従する道にはないということでしょう。
しかしそれは、そういう特定の導師とは縁が無かった(実際に弟子入りした訳ではないが、大調和協会の「命位様」との交流で、しばしば思いを超えたものに導かれたことはあります)私には関係ないことなの...でもありません!
私にはもう最初から“見えない導師“の存在が意識されていたのです!
ハッキリ覚えています。そこからリクパだか分からないが、あるものを伝授されたのです。そう純粋意識が開かれたのです。
見える人間導師という存在は、例外なく空性、無化の道を通っているはずなのです。そうでなければ私は信用出来ません!
ということは、見える導師と相まみえることは、いつもそこに見えない導師が見据えられているということになるでしょう。
この点、仏教でも浄土系のそれやキリスト教などでは、導師の役目は、本当の見えない導師を指し示し、その執りなしをするという、プリーチャーの性格が強いということが言えるでしょう。
というより、実質修行の道も帰依の道も変わりはない...いや、元より師も弟子も変わりはないのでしょう。
人間は、皆見えない、超越者あって在らしめられているということでしょう!

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神と偶像

2024-02-06 09:39:07 | 
「人間はその本性からして宗教的な存在であり、人間の魂は宗教なしには生きることが出来ない...人間は超越者への関係なくしては生きることが出来ない」
(ベルジャーエフ「共産主義とキリスト教」)

言うまでもなく、宗教と言えば神、神は信じ、祀られるものと思われているでしょう。
つまり多く神は、偶像と結びつけられているのです。神は本当は不可知なものであるにも拘わらず...
しかし、現実に宗教において信従されているものは、その教祖、教師、彼らが説く教義などなのです。これらが偶像視され、“神格化“されている訳です。
いや、宗教に限ったものでなく、ベルジャーエフが明らかにしたように、無神論を標榜する共産主義においても疑似宗教的な強い偶像崇拝が見られるのです。
又、私は、“我々がやっているものは宗教ではない“と謳っている、新手のスピ的な団体の教師、その教えもそうした傾向を持つ例を沢山知っています。
これらの教師たちが、普通に人間社会で語られるような、個人的見解を示しただけで、その言葉は何か絶対権威を帯びたように信従されてしまうのです。
要するに、神を信じようと信じまいと、宗教だろうとそうでなかろうと、神の内実性など全く問題にされず、人は自分を超えたものに依拠せずにおれないということなのです。
自分を超えたもの、見えない、捉えられない神は、見えるもの、捉えられるものに代用される...そうして人は自分の観念に囚われているのです。
神は...私は何度も言う...“自分の思いを超えたものである!“
先との言い回しの違いにご注意を!...自分の思いを超えるか否かで天と地ほどの違いがあるでしょう。
思いを超えるということは、実にこの囚われ、観念の隷属状態から自由になるということに他ならなのです!
宗教、疑似宗教問わず、何と本末転倒、歪曲した事態を現出していることか!
それでも人間は、その本性から超越者を求めずにいられないのです。
思われた一個なる自分がここに生きているのではないから!..生まれ出てくることさえ出来ないのです。
この自己実存の根拠から、超越者なしには自己は存在出来ないということに導かれるでしょう。
しかしそれは、自分以外の人間他者でも、人間が考えた神でもドクマでもないはずなのです。
しかし又、思っている自分からは、どうしても思いを超えることは出来ないのも現実でしょう。
真の超越者は、思いを超えたところから臨んでくる...それは、自己実存と切り離されてはいないのです。
こう言って、人間他者や人間が考えた神を信じること自体が偶像崇拝になる訳ではありません。
それを絶対視し、神格化してしまうことが偶像崇拝なのです。
偶像崇拝の何が問題なのか?...真に神的なものと一つになる、自己実現の道を閉ざすからに他なりません。そうでないならご自由に!、あなたが本当に自由なら!
あなたの神はその向こうに、又はあなたの中にあるのです。


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