人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

上から示されて分かること

2024-08-07 09:46:22 | 意識、照明
私は生来から自意識が強く、自己中心的、エゴイストなんです。
これまで、どれだけ他人を苦しめ、傷つけてきたか分かりません。
だけど今は、それを克服して、調和の取れた生き方が出来るようになりました...な~んて、そんなこと言える訳ない!
しかし...これは自己義認的、保身的な言い方になりますけど、私はそういう私のエゴイストであることを自覚している(つもり)です。
だから、そのエゴというものが、どういうものかが分かっている(つもり)なのです。
それは、まず反面教師だとか、他人のアラを探してたら分かるんですよ!..“.ふはは、ああなっちまったら、オシマイだ!、オレは、アイツとは違うんだ!“って、ホラ、エゴだろう?
そうです、そういう人間をミセシメにして、エゴの何たるかを見ているのです。
エゴは、自分の正しさ、優秀さといったものばかり意識していて、その闇の部分、欠点を見ようと、受け入れようとしません。そうやって、自分も他人も欺く。
そこが私とは違うんだ!...私は出来ちゃうんですよ~...って、出来ないですよ!、出来たタメシなどありません。
これはね、私が思い、為そうとすることからは、絶対に、ゼッタ~イに出て来るものじゃないのです。
それは、自覚するしないに関わらず、私を超えたものからの光のようなもの、照明が当てられることによるのです。
その場合は、他人、ミセシメは関係なく、どこまでもその闇の部分も含めた私自身に当てられるのは言うまでもありません。
他人を見て、比較しているのは、勿論エゴですよ!(分かっているでしょう?)
どうしてそのように、ありのままの自分を受け入れられるかというと、ここがもっとも肝心なことで、そこに愛、安らぎが感じられるからです!
もう、神的なものから来るものは、すべてがそういうものと言っても過言ではありません!
これが、おそらくありのままの自分を受け入れられない人間が感じているであろう、神が自分の闇、悪、ダメさを暴き、裁くものでしかなかったなら、そこには地獄に落ちるような恐怖でしかないでしょう。
生来のエゴイストである私が受け入れられる訳など無いではありませんか?
その自分のエゴに対し、悩み、苦しみを感じている人、その闇から抜け出したいと望んでも、そう為そうとする自分の無力さを感じている人は、その愛、安らぎというものが、又その重く、苛む思いの絡みから解放されるとは、どういうことかが分かるのではないでしょうか?
上から示されて初めて分かる!
そう考えると、自分がエゴイストだろうとなかろうと、それを克服しようとしまいと関係ないではないか?
神のあの、すべてを見透す光の前には皆同じではないか?
というか、このバカバカしい世の中に生まれ、生きてきて、エゴイストでない人間など一人も居ないのではないでしょうか?



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思いに先立つもの

2024-08-05 09:47:13 | 求道、探究
何度も言っているように、私には特定の修行法というものは身についていないのです。
今から考えると、これは実に簡単な理由からと思えるのですが、これまでの私の歩みの中で、そのことをあまり深く意識されることはありませんでした。
ただ、そういうことにはあまり関心が向かなかった、と感じていただけだったようなのです。
しかし、こうして今書いているだけですぐ分かってきますよ!
それは、始めに、何が最初に意識されるのか、ということに関わってくるのです。
言い換えると、“そのもの無しには何も始まってこないものがある“、ということなのです。
それは何かと言えば、そう、私を超えたもの、神的なもののことに他なりません!
そのものがここに臨めば、どうやって、どういう形で行うか、ということはどうでもよくなってしまうのです。
修行方法とかメソッドというものは、言うまでもなく私が思い、意志的な努力で“行う“ものです。それには、その私を超えた、神的なものにつながるためという目的が見据えられているかもしれません。これは、まあ分かる...ちゃんとまっすぐに意識が向けられているのであれば!...
だけど、多くの場合それは、“私が思い、為すこと“に向けられ、囚われてしまう傾向があると言えるし、それが又、例えば超能力の開発といったことに向けられてしまえば、いよいよ脱線、迷いに陥ることになるでしょう。
私を超えた、神的なものとつながる...思い、為そうとする私からは中々そう意識されないことは当たり前な話ですよね?
だけど、そういう願いはあるのでしょう?、ということはそれは祈りにつながるということです。
漠然と思うことじゃない、それはもっと意識的になることなのです。
そう願う、祈るということには、そのように意識が動くということが感じられないでしょうか?
感じられる人には分かるはずなのです。そのもの無しには何も開かれないものが、そこに開かれてくるということが!
そこでは、どういうやり方とか形、私が為す何かというものは、すべて超えられてしまうのです。
すぐには感じられない、開かれないかもしれません。が...それは当たり前と思う必要はありません。
当たり前だと思っている人は、ハナっから神のことなど信じちゃいないのです。私を、思いを超えたものが、そういうハタラキがあるということなど!
だから、誰かが、あるいは自分が考えたであろう、方法に頼り、囚われるのではありませんか?
何故、自分の思いに先立つものに意識を向け、そのハタラキを待ち望むことが出来ないのだろうか!...それは、思い、為そうとする主我的なものに意識が向けられるか、それを超えたものに向けられるか、という問題に尽きるでしょう!
ここを疎かにすると、この根本から外れ、色々な雑行に迷ったりして、何年も何十年も無駄なことを繰り返すハメになるのです!
私を超えたもの、それは私の命の大本に違いない!...それにつながりたいと願う、祈る...
“私の命の大本である御方よ、どうかあなたの御心のままに導き下さい!“...

昭和53年の今頃、私は入信していた教団を辞めて8か月くらい経ちました。
その頃には、あまり意識はされていませんでしたが、神的な現臨にある状態と言っているものの萌芽は確かに芽生えていたのでした。
そのように、神を待ち望む祈りが自然と身につくことによって!
このことが、ずっとここで、私には特定の修行方法は身についていないが、祈りというものはあった、と言っている所以なのです!...






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自由なる神

2024-08-04 09:54:23 | 
私は、いつもここで神について書いていますが、特定の宗教、教えに寄りかかることなく、自由な感性で書かせてもらっているのです。
これには、返す返すもかつて入信していた宗教団体で、その教条的な在り方で信じ従わせられていた、神についての教えに縛られていたことが、そこから離れることで解放されたことが、実に大きいことだったと言わねばなりません。
ということは、私はその在り方に心から信頼など持てるはずもなく、疑問、不満、苦痛を抱えていたという訳で、裏を返せば、神について心から求めていたものは、自由な在り方によるものだったということです。
つまり、苦しみを感じなければ、そこから自由になりたいという思いに駆り立てられることは無かったのです。
それはしかし、そういうしがらみを抱えている(と思っている)自分からは、中々そのように決心することは難しいもので、そう自分の背後から導くものがあったりするものです。
私の場合、それは(言うまでもなく)神です!...度々言うように、それには五井先生との出会いというものが大きかったのには違いないですが、私には元々、その教団に入信する以前から、左程意識的でないながらも、私なりの神についての理解というものは持っていたのです。
それは、大まかに言うと、神は愛であって、いつも私の背後で守り導くものだ、ということであり、そういうことは、何度となく、何となく感じていたのです。これが五井先生の教えと結びつくのも全く自然、当然なことと言えるでしょう。
そして、五井先生の白光会に入会するのも自然なことのように思えるのですが...そうはならなかった!
その他、形の上でに入会した団体はいくつかあったものの、普通の信者のような、一つの宗派、グループに専心し帰依して行くような関わり方は一度も無かったのです。
何故かと言えば、神は自由だから!...あの教条的な教えの呪縛から解放されたのは、自由なる神の導きによるものではなかったか?
神は、如何なる先入観、固定観念からも自由である...神は私の思いを超えているのだから!
様々な宗教、宗派から学ぶのは自由でしょう(余計な、雑多な知識を仕込まされることは、人間の団体には付き物ではありますが)...それからの、あの疑問、不満、苦しみを再び繰り返す必要は無いではないか?
その学びは、遅かれ早かれ、その指し示すものに還元されねばならないもののはずなのです。
でなければ一体、何のための学び、信仰、修行なのか?
こうしたことの声なき示しは、私がその宗教信者を辞めた時、ハッキリ受けていたのです。
その時だけのものではありません。ずっと受けているのです!
しかし、そいつは私の観念なのだろうか?...そうかもしれませんが、諸々の観念は、来ては去っていく中で、こうして今も思いを超えて感じてしまうんだからどうしようもありません!
だから、その催しというか、おハタラキは自由に、神ながらのまにまにおまかせするよりありません。
そうして、私も自由に在らしめられるだけ!...








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神への祈り、神の祈り

2024-08-03 09:27:36 | 祈りと瞑想
神に祈るという...
普通は神を対象にして、そう思い、意志している私が祈るというイメージをもたれるものでしょう。
勿論、私にもそうして祈ることもありますが、そういう在り方を超えてしまうことも多々あるのです。思い、為そうとする自分が祈るのではない!...祈らされているという感じになるのです。
そういう祈りには、どういう祈り言葉によるとか、何回祈るとかといった形はありません。思いを超えているのだから当然と言えばそうなのです。
何の神に祈っているかということもありません。だからそう思い描いたり、対象化することじゃないのですよ。
それは、くどくどとした説明は要らない、出来ない!、自分を超えたところからの祈りという他ありません。ただ、私をたらしめている、在らしめているもの、それを仮に神と言ってもいい...要するにそれは、神の現臨にある状態であるのは言うまでもありません。そこから祈りに導かれる。
それは、ですから愛、平安に与ることです。私はね、勿論そういうものを求めているのですよ!
悪いか?...私だけか?...いいや、そうであってもそうじゃない!
だって、思い、為そうとする自分からではない、と言っているのですよ!、そういうことも超えているのです。
私だけ、平安であることというのは無いはずなのです。勿論こういう祈りのようなことを通して、他人は平安に導かれるかどうかは分からないですよ!
又、そういう“自分の祈りで“、という風に思うとしたら、思い上がりも甚だしいことなのであって、自力作善、はからいの極みと言う他無いでしょう。
自分の思いを超えている、ということは、自分だけの祈りである訳が無いのです!
そこには、自ずから自他共に平安に与からんことを願わずにおれない心が生まれるのです。
神的なものと共に祈らされているということは、けだしそういうことなのでしょう。
特に他者のため、世界平和のために祈るということもなく、自他は分けられることなく、その両成へと意識づけられるのです。
神への祈りというものは、本当はこうした“神の祈り“につながるものでしょう。
そこに、自分だけの救い、成就を求めるということは、あろうはずなどないではありませんか?
これは、ともすればそういう方に傾きがちな、瞑想修行などについても言えるはずなのです。
すべての神(仏)の道は、自他一如に導かれるはずなのだから!...





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熱中症の手前の瞑想

2024-08-01 09:15:20 | 祈りと瞑想
ヒマな職場...
その朝は、心なしか涼しい風も吹き、空にも秋の雲が浮かんでいた...
だが...しばらくして、休憩して戻ってみたら、僅か数十分の間に気温は急上昇、いつの間にか空にはモクモクと夏の入道雲が立ち込めていたではないか!...
急に体が重くなってきた...
動くのがつらい...
何やら回りを見ていると、星のようなものが見えてきた...
ヤバイ!...こりゃ熱中症の一歩手前ではないか?
同僚が気をつかってくれて、勧められるままに椅子に座って休むことにした
何も考えられない...
勤務中なのに、このままでいていいのか、と思うもなにも、そのままでいることしかできなかった...
入道雲が流れてゆく...まだ雷雲となって、その下部が雨あしで黒く垂れ下がるまでには至っていない...そうなる気配は感じられたが!...
思考も何か頭から分離して流れてゆくのが感じられた
ああ...あの重く暗くのしかかるものから解放されたよう...
まだ、あの思いの向こうから放たれる精神的稲妻が閃くまでには至っていない...
神の手に捉えられて、すっかり思考、身体機能がマヒするまでには至っていない...
いや、そりゃ熱中症だろう!?
要するに、そんな風になる一歩手前なのだ!
み手に捉えられるか、熱中症になるか...その岐路に立たされているようだ
いずれにせよ、そうなったら緊急搬送間違いなしだろう!
いずれにせよ...意志想念から離れる、呼吸を調える、一定の座り方、姿勢を保つ...
そういう、自分の意志から為そうとすることは、すべて関わりが無くなっていた!
すべてが無為自然にそうなっていた!
幸せだなあ!
え?、勤務中?...そうだった!
その現実に引き戻されたからか、いつの間にか日常の状態に戻ってしまった!
惜しいような、良かったような...
思ったより仕事がヒマで良かったのは間違いない!
早く帰ることも出来た!
自宅近くの駅に着いた時、北の空には黒い雨あしを垂たしながら、巨大な雷雲が迫っていた!
帰宅してしばらくすると、どエライ雷とゲリラ豪雨!
秋のような穏やかな空を見ていたのはいつの日だったのだろうか?
何だか、ずっと瞑想している気分のような一日だった...





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