人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

京都の寝苦しい夜

2024-08-14 10:10:48 | 回想
前回の続きを書くつもりで、京都でいい気になって、白光の京都支部を後にしてからのことを書こうと思ったのですが、突然、記憶がつながりました。
後のことだとずっと思っていたのは、その前のことだった!
そうだった!...私は、夕方神戸から京都に直行したのでした。
京都へは貧乏学生の身とて、格安の宿を予約していて、京都駅から確かバスに乗り、丸太町か出町柳だかの裏通りを“上がる“とか“下がる“とか“入る“とかして、散々迷ったあげく着いたのですが、何とそこは、冷房が無かったのに気づくのは遅かった!...どおりで安いはずだ!
あんなに寝苦しい思いをしたことは生まれて初めてだったかもしれません。
寝付いたもののすぐに目が覚めてしまい、時間を持て余してしまうので、その日の収穫の書物を二冊ほど、暑さで頭がボーッとなるのにもめげず、じっくり読むことにしました。
一つは、須磨にあった「大調和協会」の神戸支部で、確かタダで頂いた、会主命御の口述による「大調和世界」というタブロイド版の書き物です。
「今、この時機、人類の上に、厳けくも その 大調和世界開顕の大聖業は、発祥されたのでございます」
こういう種類の文体の書き物は、私はこれまで読んだことがありません。
これは、宗教なのか?、哲学?...神、仏のことは全く言葉としては出て来ない...
今、何か人類レベルで、大変なことが始まったらしい?...何が?...その何が、どうなって、そういうことになったのか?、という経緯のことが何も記されていないではないか?
そもそも私がこの大調和協会に多大な関心を抱いたのは、西村忠義さんの「人類の復活」という本を通してのもので、大本教の「元の、真の神が世に顕れる」経綸との関連だったが、これはそれとどう結びつくのだろうか?...さっぱり分からない!
それなら、こっちの灘にあった「神政龍神会」で割と高価で求めた矢野裕太郎著「神霊正典」の方が、神界、霊界、幽界、現界に渡る、悪の世の起こりや、善神、邪神の戦いを経て、“みろくの世“の出現に至る、神々と人間のドラマが克明に記されている点で、見るべきものがあるのではないか?...
と、後に関西に移住することにもなるほど、多大な縁を持つことになる、大調和協会との出会いも、誰も知らない単なるマイナー団体の一つという認識でしかありませんでした。
そして、お分かりのように、神界や霊界や神々のことが分かったといっても、それは所詮知識欲を満足させるものに過ぎず、本当に自己の内奥、霊性が開かれることにつながることでは無いのです。
要するに、当時の私はまだ、思いを超えるということがどういうことなのか?、その思考との識別が分からなかったのです。
ということは、本当には愛、平安がどういうものなのかも分からなかったということになりますが...内心では分かっていたはずです。これでいいのだろうか、と。
ただ、表層で囚われている思いが強く、その本心を覆っていたのです。
京都の宿の寝苦しい夜、暑さも手伝って、どうもモヤモヤしている...自分が迷っていることくらいは、自分で分かりますよ!...そうでしょ!
そうだったんだ!...これを払拭したかったのです。
重く、どんよりした空気に、涼風が吹き込んで来る清々しさを求めて...
明日は祈ろう!...




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内なるものを呼び覚ます声

2024-08-13 09:55:07 | 回想
私は祈りによって導かれた、といつも言っています。
祈りによって神的な現臨感を覚えることになったのです。
それは、求道の初期、昭和53年のこのお盆の頃、その萌芽のようなものが既にあった、ということも書いているのですが、もっと具体的に言いますと...“ああ、あれかなあ?“と突然、脳裏に浮かんで来たことがあるのです。
その頃は、大学四年、東京在住で関西に旅行に来ていました。いや、それはただの旅行である訳がなく、とにかくその頃は、宗教的、スピ的なことへの関心が大勢で、関西にある、誰も知らないマイナーなその関係の秘教団体(?)をいくつか訪ねるということが目的だったのです。
しかし、予約していた宿が近いという理由でか、ついでだからってんで、京都の五井先生の白光会の支部へ行きました。
そこで、どういう訳だか、それまで何度も行っている市川の本部道場では、一度も試みたことの無い人生(求道)相談を受けてみることにしたのです。
何を伺おうとしたのか?...関西くんだりまで来て、こういうことをしてて良いのか?、ということでも良かったのですが、要するに、当時のありのままの私の意識の向き様、有り様と言える、“五井先生に帰依する気持ちもあるが、他に大本の出口王仁三郎師匠(だけでない!)などにも惹かれるのですが、こういうことで良いのか?“、という旨のことだったと思います。
すると、名前は忘れましたが、その講師の先生、そういう私の一寸浮ついた心持ちを見抜いたか、そういうことをたしなめるように、“君は今大学生なのでしょ?、だったら学業に精を出さないと...それに就職のこともあるんだろうから、そういうことは程々にしないと...“と全く見下すような態度で言い放ったのです。
私は“そんな世間的なお説教じみたこと聞きに来たんじゃねーわ!、ああこのヒト全然、親身になってくれないし、その講師の資格?ともなるであろう、霊感らしきものも大したことあるまい!“と不満な気持ちにさせられたのでした。
それから、形式どおり、向き合って世界平和の祈りをすること数分間...私はそういう型通りの祈りに囚われることなく、私の見えない導師(守護霊?)に、この道中のことも含め、道の歩みについての導きを祈ったのでした。
それが終わると、その講師の先生、それまでの態度が一変して、興奮交じりで、“いや、あなたはいつも本当に祈ってらしているのですね...大変な導きを受けておられる!...あなたの求道は、どうあったらいいか、ですって?...そのまんまでいいのですよ!“、と口調からして、まるで印籠を見せられた黄門様のように別人扱いです。
私はそんなに熱心に件の祈りをしていた訳でもないし、ただその頃は、自由な心持ちで、“御心のままに導き下さい“、とそれもそんなに熱心だった訳でもないので、一寸呆気にとられたようになりました。
そこで、私は祈りというものも含め、守護の導きというものは、教団主導となるものではない、少なくともこの五井先生の会ではそうなのだな、ということを認識したのです。
しかし、考えてみれば、五井先生の教えというのは、“守護霊、守護神教“と言われるように各人、一人一人が守護の神霊につながることを主軸にしていたはずなのだから、それも当たり前のことのようにも思えるのです。
そのことを通して、私の内に何か自信のようなものが生まれたのは確かなことでした。
私の求道には、まだ上っ調子なところもあるけれど、そうでない、それに流されない本筋のようなものもあることを強く思えて来るのでした。
“おお、君、よく感じなさった!、それは漠然と君が思っていることじゃない!、それが、そのものが君を変わらずに導いているんだ!、それは後々なって、いよいよリアルに、細胞レベルにも身に覚えずにおれなくなるだろう!“
その時には、まだ意識的になっていなかったので、朧気に感じていたものですが、そこにあるのは、確かに愛、平安!...それこそが神的な現臨でなくて何であろう!
京都の北山の向こうからか、何か私の内なるものを呼び覚ます声が聞こえて来るよう...
その時は、その後それを目の当たりにすることなど、知る由も無かったのでした...。
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意識が向いたままが人生

2024-08-11 09:43:51 | 意識、照明
意識するとか向けるとか、いつも言っておりますが、人間の在り様は、思考するか行動することしかない、と強く思っている向きには、一寸分かりにくいでしょう。
それは単純に言えば、あなたの気というもの、そう、“気が向く“とか“その気がある“、“本気“というものの根っこにあるようなものです。
やる気というものとはちと違いますよ。やろう、為そう、しかして得ようということとは、直接結びつかないのですから!
思おう、為そうとするパッションが大勢な人には分からない!...例えば、私がチョイと知っている、長年五井先生に従って宗教、祈りの道を歩んでいるという、反面教師の画伯などはどうもそういう傾向が強く感じられます。1ミリ先でも前に進むように為そうと努力するんだそうです。暑いのにご苦労さんなことです。
私なんかには、何故そういうところに宗教、祈りの道が開かれて来るのか?、てんでに分からないのですが...きっとこれまでの人生で自分が思い、為すことで挫折を味わったことが無いのでしょう?
それが幸福なことなのか、そうでないのかということは、他人の私には分からないし、どうでもいいことなのですが...先のこともあって宗教、祈り、特に五井先生絡みでつい余計なことを言いたくなる次第なのです。
もっとも、この御仁、最近そうやって、あっちに脱線、こっちにスコタン、と色々なカルトっぽい教えなどを信じ、やって来たものの、どうやらそれが迷いだったことに(ようやく)気付き始めたようなのです。でもやっぱり何かを為すことに飽くなきパッションは持ち続けているのでしょう?
そうしたい、そう望んでいるのだから、こればかりはしょうがないことなのです。(他人や、世の中や、サタン、闇の勢力のセイにするなよ!...本気で神サマのセイにしたら?、天国か地獄かどっちかだろう!)
気がある、向くということは意識がそうなっていることに他ならないのです。
そうなっていないことは、人間何も赴かないし、行動出来ません。
例えば、神を求める、神と一つになりたいと望む...漠然と思っているだけじゃなくて、本気で望む。
それに対し“本気出せ!“、なんてのは余程ズレた物言いですよ。それは、実に主体的な在り方なのですから!
その本気というのは、どこから来るのか?...そこで、思っているだけじゃダメだってんで、神を求めて、何かの修行を始めたりする、つまりやろうとする...
しかし、どうもその修行には気が向かなくなるかもしれません。それでも目的はその先に見据えられているんだからとやり続ける...何かを得られるまで!...
そうやって、ずうっと修行をし続けてる人って居ないでしょうか?
気が向かないことをいくらやっててもしょうがない。形式化、惰性に流れるだけでしょう。そおして、先にあったものもいつしか見失い、脱線し始めるのではないですか?
だけど、あなたにはその神を求めることの最初から、そこにそう求めてやまないものを感じているあかもしれません。
それがそう意識が向けられていることに他なりません!...そこに、何がしかの愛、安らぎというものが感じられないでしょうか?...これがそう向けせしめるものなんだ!
で、何かの修行をやって何を求めているのでしたっけ?...それを求めても得られないものは、既に与えられていることに気が付かなければなりません。
それが意識的になることなのです。そのことをもっと深く意識する、味わう...その他に何かの方法なんてあるか?!...で、こういうことは、思い、為そうとする自分だけからは絶対に出て来ない、開かれて来ないことは言うまでもありません。
“いや、そんなことではダメだ、行動しなくては?“、と思いたがる、やりたがる向きは、思考を超えた、意識次元が開かれることがどういうものなのか分からないのでしょう。
それも、本人がそうなってんだからしょうがありません!
そうなっているまま生きているのが、その人の人生なのだから!
意識が向いたままが人生なのです!...

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愛しのクモちゃん

2024-08-10 09:34:58 | 身辺雑記
私は朝起きた時、決まってあることをする習慣があります。
それは、部屋の壁とか隅っこを見回わすことです。
“あれ、元気かなあ?、もしかして夕べの“毒ガス“にやられちゃったのかなあ?“、とその存在の様子を確かめるためです。
たまに見つけでもしたら、そおーっと、指を近づけたりします。
大概は、どっかへ飛んで、いや“跳んで“行ってしまうのですが、その早さときたら、まるで瞬間移動のように消えたかのよう!...ごくたまに指にちょこんと乗ったりします。カワイイなあ!
あれとは何か?...眼鏡かけないとよく分からない...ハエか?、いやハエトリグモです。
以前は、“毒ガス“にやられたかして、死んでいるのを見ても、“何だ、クモか!“、とさして気にも留めていなかったのですが、その画像や動画とかを観ているうち、可愛さが募ってしまったという訳です。
あの愛嬌ある顔(どれがホントの眼なのか?、あの如何にもな大きなやつはダミーだったりして?)を見たら、虫が苦手な人でもイメージが変わると思いますよ。
それにしても、羽も無いのに、どうやって飛ぶ(跳ぶ)のか不思議でなりませんね?
私は、昔からこのようにヘンなところに愛情のスイッチが入ってしまうのです。
そう、そうして夜ともなれば、にっくきゴキでも出現しようものなら、毒ガス(霧ね!)ジェット噴射で息の根を止めるまで執念を燃やすと!...え?
どっちがホントの私なのだろう?...いや、考えてたら取り逃がすだろう...いや、クモちゃんを巻き添えにしないように、この頃は細心の注意を払っているので、逃げられることが多いのです。
何時ぞや、間違えてクモちゃんに誤射してしまって...ああ、何てことしてしまったんだあ!、と気づいても手遅れ、“虫の息“になってしまいました!...
その夜は、胸をしめつけられるようで中々眠れない程でした。それからそういうことになった次第なのです。(こんな訳で、家では絶対にバルサンなどは炊きません!)
クモちゃんも暑さは苦手なようで、日中はあまり出て来ません。もしかしたら干上ッちゃったのかなあ?、と案じたりしますが、朝夕などヒザの辺りがモゾモゾするので、よく見て(“何だ!、この、ペシャッと!“...とはウカツにやらないようにして)、クモちゃんを発見したら、とてもホッとします。“君が居るだけで、幸せなんだ!、愛、平安なんだ!...ホントだよ!“
何だかもう、ペットのように思えてくるではありませんか?
ところで、こないだは探しものを見つけようと、そのへんのものを退けたら、何だかやはり黒い小さな見かけない虫が出て来たではありませんか?...黒い“てかてか“はゴキにそっくりだが、形状は、ずっとスリム...どう見てもクモちゃんでないのは確かです!
何だ?、ハサミムシだ!...何でこんなところに?
あれは、シュッとやるべきか、どうするべきか?...いや、私はいわゆる害虫以外は殺生はしないようにプログラムされているのでした!
クモちゃんのエサかな?

そ、それにしても、ゴキに、ハエに、ハエトリグモに、今度はハサミムシか!...
たまには、部屋掃除しよ!...
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我々の自然な状態

2024-08-09 09:07:17 | 雑感
巷では、南海トラフ地震緊急情報による、巨大地震への警戒について公に伝達され、言い知れない不安な空気が漂い始めているようです。
これまで、地震の報道が流されても、“南海トラフ地震とは直接関係ありません!“、というメッセージを当たり前のように聞かされていたものが、初めてそうでないらしいことが伝わったのですからねえ...
しかしこれまでも、それはいつ起きてもおかしくない、とされていた訳だし、他方ではずっと核ミサイルがいつ飛んでくるのか分からない情勢な訳で、そういう危機性と隣り合わせの世界で我々が生きているのは変わらないのですね。
そういうことを思うたびに、“何でこの世界はそうなっているのか?“...なんて感じるのは私だけか?
だって、この季節、日中はセミが鳴き、夜には、ちらほら秋の虫が...何とも言えない情緒を運んでくれているのですよ!...自然と安らぐ、安らぐのが自然なのです。
こうして書いていると、ホラ、じ~じ~とセミが...いや、これは耳鳴りがじんじん鳴っているんだった...世の中の空気がどうあれ、それはそう在り続けているのです!
ああいう情報により、然るべき警戒をするのは当然だとしても、然るべからずデマ情報も流れるなど、我々の自ずからなる然るべき、内なる安らぎの状態から思いが切り離され、浮き立ち、外なるものに翻弄されやすくなります。
こういう時こそ、内なるものを呼び起こすことに意識を向けたいものです。
やっぱり私もこういう時には、“大難を小難に代えて下さりますように...“、という祈りもします。それは、自然な感情から来るのではありませんか?
“不動の心を!“、何て出来も、そうなりもしないように、心を変えよう何てこたあ、しません。
とにかく、思いを超えた、神的なものに意識を向ける、“こういう時だけ、祈る、向けるて~のは、ムシがよかないか?“、でも何でもいい!、何を思おうが、虫は鳴く...
そういう祈りでも、あの愛、平安にいつの間にか導かれてしまうのです。
あの安らぎの内にあることは、我々の自然な状態なので、そうなるように努力しなくても、それに戻ることが出来るのです。
もっと言えば、我々が神的なものとつながっていることが自然な状態なのです。これからつながるように修行を重ねなければ、ってことじゃない!
だって、いつ危機的状況に見舞われるか分からないのでしょう?
だから、いつだって自然な状態に戻れるように、我々は(多分?)そう仕組まれているのではないですか?...







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