市は高橋、荷は牛津という佐賀藩時代に云われてきた言葉が残っています。この高橋は何処だろうといわれることもありますが、ブログやHPでは大抵佐賀市の西の外れ高橋という橋の辺りであることになってしまっているようです。それもののはず寂れた無人駅の佐世保線高橋駅では「市は高橋」と思えるような町には見えません。 かっては大繁栄をしていた私の生まれ故郷がこのままでは歴史の中に埋もれ、誤った風説が本物になるようではたまりません。ということで自分のホームページにこのことを書きましたが、樋渡さんのブログで高橋のことを採り上げてあったので再掲しました。
20年ほど前に角川書店から出版されている佐賀県地名大辞典から高橋のことを一部索引させてもらうとこの様に書いてあります。もちろん佐賀の高橋のことは全く書かれておりません。ここは祐徳バスの高橋という停留所があっただけだったはずです。
------------------------------------------
高橋
高橋川が六角川支流武雄川に合流する地点の北の平坦地に位置する。地名の由来は有明海の満潮時に海水が逆流し水位が上がり船の運航が行われ、そのための橋桁の高い木橋があったからと伝えられている。
[中世]高橋
鎌倉期から見える地名。杵島郡長嶋荘、後の塚崎荘のうち。古代から中世にかけて杵島郡衞が置かれたと推定される。また水陸交通の要衝であったと考えられている。建治3年12月20日の地頭領家田地屋敷注文案に「たかハしのこそ」と見える。
中略
天正2年頃の竜造寺隆信書状にも「高橋町」と見え、多久長信に対し須古城修築用の材木運搬のための夫丸80人が命じられている。当地が水陸交通の要所として町場化していた様子がうかがえる。
[近世]高橋村
江戸期の村名。杵島郡のうち。佐賀本藩領。武雄郷に属す。
・・・・「慶長國絵図」では高橋町で見える。「宝暦郷村帳」、「天明郷村帳」ともに高橋宿として見え、小村に横町・茶碗町がある。茂紀年譜には「寛文十二年高橋の市近年始む。当閏六月より警固の足軽を出す。」とあり、「市は高橋、荷は牛津」と佐賀藩内で云われ繁栄した。
中略
この村には上区と下区があり、上区には横町・タンス町・上五日市町・上十五日市町・上廿五日市町・下五日市町・下十五日市町・下廿五日市町があり、下区には中橋・タンス町・万才町・廿日市町・十日市町・船手町・朝日町・夕日町があって、五の付く町が市の当番町であった。
この村は長崎街道と唐津街道の分岐点に位置し、商圏は杵島郡をはじめ小城郡・藤津郡にもまたがり盛況を極めた。高橋代官所が置かれ、運上の取り立て、市の警固・監督を行った。
------------------------------------------
とあります。私の小学校時代は新堀港に砂を積んだ大きな船がまだ上ってきていました。馬渡君の工場に資材を運んでいたと思います。自動車がまだまだ珍しい時代でした。(昭和30年初め頃)
最近の新堀港は、高速への入口になっているようで昔の面影は無いように思います。先年、福岡県柳川市に友人酔考氏と遊びましたが、沖端という白秋が親しんだ港が新堀とそっくりでした。友人の撮ったその光景をご覧下さい。
私の生まれた家は明治3年の高橋大火の後、明治5年に再建された家でしたが、5,6年前に壊してしまったようです。古い家をどんどん壊すものだから繁栄していた町と思う人が激減しているのでしょう。
この様な町が武雄地区にあったということを再認識していただいて市の復活も町づくりの一つになるのかも知れません。嘘の歴史が定着することのないように地元の方々の努力を期待したいと思います。
長くなってしまいましたが、忘れかけていた我が故郷のことをブログ部長のおかげで思い出して書いてみました。
ついでですが、市は高橋の内容は江戸時代に佐賀藩内で自慢できることを歌にしたもののようです。子細は説明できませんが参考まで。
「市は高橋、荷は牛津、産は泰順、詩は安道、碁は但馬、禄は諫早、質は成富、鉢は皿山、句は十方庵」