安心、安全と美味しさへのこだわり
そんな「こだわりの農業ブログ」を毎日更新
主役の妻は生産部長、夫は営業部長兼雑用係
今朝の毎日新聞の余録欄で「『北窓塞ぐ』は冬支度をいう季語である」と紹介していた。
初めて聞く言葉だったが、子供の頃、母の実家の祖父が杭で骨組した斜面を藁束で覆い、家の北側全面を
「冬囲い」をしていたことを懐かしく思い出した。
当時の暖房器具は煮炊きする囲炉裏兼用の炬燵だけだったが、竈や囲炉裏から出る煙の抜け口が茅葺き
屋根には付いていた。
そのため温かい空気はそこから外に出てしまうので家の中の空気は冷たく、暖かいのは「炬燵の中だけ」
だった。
(東の山の新しい畑から見た冬景色)
「冬囲い」をすると家の中が昼でも暗くなってしまうが、それでも「隙間風に震えるよりはマシ」とするのが
当時の「生活の知恵」だった。
「北窓塞ぐ」を読んで、60年間全く忘れてしまっていた記憶が蘇った。
昔はどこの家でも猫を飼っていた。
子供にとって、猫は友達でありオモチャでもあったので可愛がりもしたが「からかう」
ことの方が多かったような気がする。
仲の良かった三毛猫は、冬場になると温かい炬燵の中に入って寝ていたが、それが
裏目に出て、炭火から出る一酸化炭素で中毒死してしまった。
炭火炬燵の怖さを実体験した瞬間だった。
(ネズミ捕獲が主目的で飼っている我が家のタコは、寒い冬でも家の中には入れない)
私も、小学校低学年の時に、ふざけて練炭炬燵の中に潜ったことがあった。
気持悪くなって直ぐに炬燵の外に顔を出したので大事には至らなかったものの、一時、
家族は大騒ぎとなった。
私の考えや行動が「一般的ではない」のは、この時に壊れた脳細胞が「再生しなかった
ためではないか」と思っている。
高校一年の思い出を語る際に欠かせない事件があった。
担任の田村先生は体罰を加えるような先生ではなかったが、副担任の「生物」の先生は違っていた。
それは、昼食後の5時間目の授業だった。
私は「恋の悩み」で心ここに非ず状態で教科書も関係ないページを開いたまま生物の授業を受けていた。
たまたま席が一番前だったのも災いした。
授業終了後に机に顔を埋めて寝ていたら、バットの柄で後頭部をコンコンと軽く叩かれた。
顔を上げたら副担が怖い顔をして「授業中に書いたノートを開いてみろ」と怒鳴った。
何も書いていないノートを示すと、罵声と同時に猛スピードの平手打ちが襲って来た。
身体が吹っ飛び隣の席の机と一緒に横転してしまうほどの強烈さだった。
次の6時間目の授業はサボリ、バレーボール部の汗臭い砂まみれの部室で不貞寝をしてから放課後の
練習に参加した。
(二台目の重機が到着)
この体罰事件には後日談がある。
学期末の「定期テスト」とは別に中間で「実力テスト」というのがあった。
「人の恋路を邪魔する奴は許せない」とばかりに生物の答案は白紙で提出した。
全科目のテスト結果と順位は「通知表」に記載され約一カ月後に親元に郵送されて来る。
ある日、部活を終えて自宅に帰ったら、母から「なんだ、あの成績は」と非難されたが、結果を
知らないまま「そんなこと言ったら俺より悪い人はどうすんだ」と開き直った。
「何言ってんの、お前がビリだよ」と母から追い討ちをかけられ、次の言葉が出なかった。
通知表の順位欄には313/313と記されていた。
もともと授業にも成績にもあまり関心がなかったが、「ビリ」には少なからずショックを受けた。
それでも急に勉強熱心になることもないズボラな生徒でしかなかった。
私が勉強に関心を持ち始めたのは二年生の後半に入ってからで、それも「恋を成就させるため」と
いう不純な(?)動機が契機だった。
高校一年の恩師田村剛一先生の投稿記事を読んで当時を思い出した。
私は断然「教科書通りの授業」よりも先生の「体験談熱望派」だった。
実際に授業の内容は殆ど記憶に残っていないが、体験談は良く覚えていて「人生を教えて貰った」と
感謝している。
また、受け持ちの生徒は私も含めて「ダメ生徒」が多かったが、怒ったり叱ったりすることもなく、
勿論体罰を加えるようなことは全くなかった。
ある時、私が先生の期待を裏切るような行為に出たことがあったが、その時も黙って「寂しそうな顔」
をしただけだった。
髭ずらの山男ながらシャイでどこかに優しさが漂い、女生徒からは絶大な人気を得ていた。
2015年に発行した先生の最新の著書「一平先生 教壇日誌」で初めて知ったが、当時クラスメイトの家出事件が
二件も発生し、先生はそれにかなりの稼働を割かれていたようだった。
3.11の津波被害のお見舞いに山田町のご自宅を訪問した際「折角担任したのに生徒達との交流が疎かになった」
と気にしていた。
私にクラス会開催を熱望したのはそんな背景かあったようだ。
エグネの一部も含めた杉林の伐採作業に重機が到着した。
人手で伐採出来なかった分も含め作業は一気に進むものと期待している。
若い頃から、そして「仙台年金友の会」(自称)の仲間としても親交が続いている荒川先生(仙台市立西多賀
小学校校長を経て東北福祉大学准教に就任。三年前に退職)から「教育という営みは生涯で二人の理解者が
いればよい、と思って来た私です。田村先生の論についていつも納得させられます。」とのコメントを添え
私の高校時代の恩師の投稿記事の切り抜きを送ってくれた。
(午前中、好天の下で生産部長はニンニク畑の草取りに精を出した。夕方「突然の雷雨」が襲来した)
河北新報 「持論時論」(2017.3.24)
教師と生徒 師弟関係ではなく複雑
元教員 田村剛一(78歳・岩手県山田町)
愛知県一宮市の中3男子生徒が2月上旬、商業施設から飛び降り自殺する事故が発生した。生徒のゲーム機に「遺言」として「担任に人生全てを壊された」という記述が残されていた。
学校は一時「担任によるいじめがあった」と説明したが、その後否定している。真相究明を待つしかないが、それにしても、今回の愛知県の問題は深刻だ。何せ、自殺の原因が担任教師にあるかもしれないというのだから。
教師と生徒の間に問題が発生するたびに、両者の関係が複雑、微妙になってきたなと感じる。今回の愛知の自殺問題は別にして、教師と生徒の間は、第三者が考えるような「師弟関係」で割り切れるような単純なものではない。教師にも生徒にも個性があり、人格がある。それがぶつかり合っているところが学校だといっても過言ではない。
教師になろうとする人は、誰もが「良い先生」になろうと思い、その道を選ぶ。しかし、教壇に立っているうちに、それが不可能に近いことを実感する。「いい先生だ」と言う生徒もいれば、「駄目教師」と言う生徒もいるからだ。
私も一時、困ったことがある。社会科担当ということもあり、自分の体験を授業中に話すことが多かった。「先生の話は人生勉強になるので、これからも話してください」と言う生徒が多かった。しかし中には「先生の話は聞きたくない。教科書通りにやってほしい」と言う生徒もいた。どちらの意見も生かしたいと思い苦労した。
38年の教員生活で、自分の信条にしていたことがある。それは、弱い生徒の立場に立って教育に当たること。自分のクラスからいじめを出さないこと。体罰は絶対にしないこと。
背景には、私自身小学生時代いじめに会い、辛い思いをした経験がある。高校時代には、担任から体罰を受け、一番好きだった教科が嫌いになってしまったこともあるからだ。その信念を38年間通したつもりである。
ところが、退職して間もない頃、教え子の母親から「うちの息子は、しょっちゅう先生に殴られたと言っていましたよ」と言われ、驚いた。この教え子に限らず、生徒を殴った記憶は全く無かったからだ。しかも、この生徒とはうまが合った方で、よく談笑もした。その時、手を肩に掛けたことがある。生徒はそれを体罰と受け取ったのかもしれない。
今でも交流がある教え子たちがある。会えば「先生のおかけで卒業できた」と感謝されることもあれば、「何も教えられなかったから良かったのではないか」と皮肉っぽく話されることもある。
大部分の教え子たちとは、現在、音信はない。中には「田村の顔は見たくもない」と思っている教え子もいるかもしれない。どんなにいい教師になろうと思っても、どんなに努力しても、みんなから「いい先生」と言われることはない。教師と生徒とはそんなものである。それを知ってもらいたいと思い、ペンを執った。