電電公社一関電報電話局に採用されたのは昭和43年10月のこと。
自転車で初出勤の日、「上の橋」の上から直ぐ近くに見える電話局の鉄塔
を眺めながら「遅まきながら社会人としてスタートする」という高揚感があり
つつもやや複雑な心境だった。
今も毎日のように橋を通り、否が応でも鉄塔が目に入り当時のホロ苦さを
思い起している。
高校三年の秋に合格通知を貰い当然4月から採用されるものと期待し、
合格していた大学進学も断念していたにも関わらず採用通知が来ることは
無かった。
近所のお偉いさんからは「合格しても縁故が無いと採用されないらしい」
などと脅かされ益々不安が募った。
その半年間の不安感と会社に対する不信感は半端では無く、長いサラリー
マン人生で「身を粉にして働く」愛社精神にやや欠ける面があったのは、
このような理不尽な採用にあった。