スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

リコー杯女流王座戦&静と動

2020-12-12 18:51:01 | 将棋
 9日に指された第10期女流王座戦五番勝負第四局。
 西山朋佳女流王座の先手で三間飛車。後手の里見香奈女流四冠は角が交換になってから向飛車に振っての相振飛車に。序盤は先手が失敗した模様で,千日手含みの中盤が長い将棋に。後手が穴熊に潜ったところで先手から攻勢に出ました。厳密には無理だったようですが,後手が反撃のチャンスを逸したためにもつれました。
                                        
 後手が王手に攻防の角を打ち,先手が合駒をした局面。後の展開からも分かるようにここは☖7六香と王手をしておくべきでした。先手はおそらく☗6九王と逃げることになりますが,後手も☖7二玉とし,入玉を狙うべきだったようです。
 実戦は☖2四飛と金取りに浮きました。これは強い受けですが☗6三銀と打たれました。☖同角は仕方がありませんがそこですぐに角を取るのではなく☗5三角の王手。☖同金☗同桂成☖7二玉☗6三金という手順で角を取られ☖8二玉のときに☗7五歩と香車も取られることに。
                                        
 第2図となっては飛車が浮いたのが空を切った形。香車も渡したので☗9五香で入玉を阻止する手も生じ,後手の勝勢となりました。
 西山王座が勝って2勝2敗。第五局は14日に指される予定です。

 ガリレイGalileo Galileiは自身の書籍のうちに新しい科学という語を入れています。したがって自身の科学というものに,何らかの意味で新しいものであるという自負を持っていたことは疑い得ないでしょう。それがどのような意味で新科学であるとみなすべきなのかということは,河合が巻頭言の中で示しています。それは静力学から動力学への展開であったということです。すなわちガリレイ以前の科学が静力学であったとすれば,ガリレイの科学は動力学であるというのが,河合の解釈であるということになります。
 僕はたとえばスピノザとロバート・ボイルRobert Boyleとの間で交わされた文通の中で,硝石について語られている部分についてはそれ自体を検討しませんでした。あるいは『主体の論理・概念の倫理』や『〈内在の哲学〉へ』に関連する考察の中で,集合論というのが純粋に数学の論理としてどのような論理であるかということも検討していません。そうしたことを検討することは,僕の能力を大幅に超過してしまうからです。これと同様に,ガリレイがいう新科学というのがどういう科学であるかということも,ここでは考察しません。これもまた僕の能力にとっては負担が大き過ぎるからです。ですから,それが動力学を意味するのだということはあくまでも河合が解釈しているところなのであって,僕自身が出した結論ではありませんし,またガリレイがその点をもって自身の科学は新しい科学であると自負していたということを,僕自身が強く主張したいわけではありません。同様にそのことを保証するものではないということは理解しておいてください。
 静力学と動力学がそれぞれどのような力学であって,その根本的な相違がどこにあるのかということは僕には不明です。ただ,これに倣って哲学を静哲学と動哲学に分類するということは,少なくともイメージの上では,他面からいえば学術的な確証を不要なものとするのであれば,僕には可能であるように思われます。デカルトRené Descartesは二元論者でスピノザは一元論者ですが,両者の哲学は静哲学か動哲学かで分類すれば,それは動哲学に分類されなければならないでしょう。とくにスピノザの哲学の場合は,その傾向が強いです。
コメント
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