スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産省賞典阪神ジュベナイルフィリーズ&動哲学

2020-12-13 18:48:58 | 中央競馬
 第72回阪神ジュベナイルフィリーズ
 好発はリンゴアメ,サルビア,ヨカヨカの3頭。リンゴアメはすぐに控え,ハナに立ったのはヨカヨカ。外から上昇してきたポールネイロンがサルビアと並んで2番手。4番手にエイシンヒテン。5番手にソダシ。6番手はリンゴアメとシゲルピンクルビーとインフィナイト。9番手にサトノレイナスとアオイゴールド。11番手にウインアグライアとナムラメーテルでここまでは一団。2馬身差でフラリオナとメイケイエール。15番手にルクシオンとユーバーレーベン。後方2番手がオパールムーン。3馬身差の最後尾にジェラルディーナという隊列。前半の800mは46秒8のスローペース。
 ヨカヨカ,ポールネイロン,エイシンヒテンの3頭が雁行状態で直線へ。逃げたヨカヨカが一旦は2頭を離しました。大外から追い込んできたのがメイケイエールでこの2頭の間からソダシ。さらにメイケイエールの外からユーバーレーベンも脚を伸ばし,ヨカヨカとソダシの間からサトノレイナスも伸びてきて大激戦。フィニッシュではサトノレイナスとソダシが並んで写真判定に。優勝は外のソダシでサトノレイナスがハナ差の2着。大外のユーバーレーベンがクビ差の3着でメイケイエールが半馬身差の4着。最後は疲れたヨカヨカは1馬身半差で5着。
 優勝したソダシはここまで新馬,札幌2歳ステークス,アルテミスステークスと3連勝。4連勝,重賞3勝目での大レース制覇。このレースは無敗の馬が強いレースで,ここも1着,2着,4着。そして3着馬はソダシが勝った札幌2歳ステークスの2着馬で,この4頭が接戦での決着となりましたので,きわめて能力を反映した結果になったとみてよいと思います。なので今日はソダシが勝ちましたが,接戦でしたから次は着順が変わるというケースもあり得るのではないでしょうか。父はクロフネ。母の父はキングカメハメハ。母の7つ上の半姉に2010年のNARグランプリの最優秀牝馬のユキチャン。馬名はサンスクリット語で純粋。
                                        
 騎乗した吉田隼人騎手は2016年の全日本2歳優駿以来の大レース3勝目。阪神ジュベナイルフィリーズは初勝利。管理している須貝尚介調教師は2017年のヴィクトリアマイル以来の大レース13勝目。第64回,65回に続く7年ぶりの阪神ジュベナイルフィリーズ3勝目。

 僕がスピノザの哲学について,それを静哲学か動哲学かに分類するのであれば,動哲学であるとみなすのにはふたつの理由があります。
 ひとつはスピノザの哲学では,事物の本性essentiaと事物の実在性realitasが,観点の相違に帰着するという点です。すなわちある事物を本性という観点からみるとき,それはその事物の形相formaを意味することになるのに対し,その同じ事物を実在性という観点からみれば,それはその事物が有する力potentiaを意味することになる点です。いい換えればある事物の実在性は,その事物の力という観点からみられた本性であることになるのです。よってスピノザの哲学では,存在するものは必ず何らかの力と共に,いい換えればある動的なエネルギーと共に存在することになるのです。よって,どんな事物にもそれに固有の本性があるのですから,それと同じようにすべての事物はそれに固有の実在性という力を有していることになります。もしも事物が単にその形相としてのみみられるのであれば,その哲学は静哲学といわれ得るかもしれません。しかし動的エネルギーをもつものとしてすべての事物が規定されているのであれば,このような哲学を静哲学というのは困難で,動哲学といわなければならないと僕は考えるのです。
 もうひとつは,現実的に存在する事物の本性すなわち現実的本性actualis essentiaは,その事物にのみ着目するだけでは理解し得ないという点です。第三部定理七から分かるように,スピノザの哲学ではある事物のコナトゥスconatusがその事物の現実的本性であるとされます。しかるに第三部定理九により,この現実的本性は精神mensが十全な観念idea adaequataを有しているのか混乱した観念idea inadaequataを有しているのかということとは関係ありません。いい換えれば第三部定理一により,精神が働いているのか働きを受けているのかということと関係ありません。つまり,精神がある思惟の様態cogitandi modiによって働きを受けるpatiことによっても,その事物の現実的本性は決定されます。よってスピノザの哲学である事物の現実的本性を考察する際には,その事物が働きを受けている場合の,働きかけている事物を排除することができません。つまり他との関係なしに現実的本性を理解することは不可能なのです。
コメント
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