12日に放映された第28回銀河戦の決勝。対局日は10月15日。その時点での対戦成績は藤井聡太二冠が3勝,糸谷哲郎八段が0勝。
振駒で藤井二冠の先手となり,糸谷八段の8筋を交換しない横歩取り力戦。先手がやや有利に展開してたようです。
先手が4筋の歩を歩を伸ばした局面。ここで後手は☖7四歩と打ち,先手は☗8六角と引きました。どちらに角を引くのか打診したということでしょうが,玉の逃げ道を狭める意味もあり,この交換は微妙でした。
敗着になったのはおそらく次の☖4五飛。おそらく後手が軽視していたであろう☗3四銀と打つ手が好手。☖1五飛は☗4三銀成なので☖4四飛と引きましたが☗4五歩と打たれ,飛車が取られる展開になってしまいました。この陣形で飛車を渡してしまっては後手はアウトです。
☖4五飛のところでは☖2七歩成とするか,☖6五歩と取っておくかすれば,苦戦ではあってもまだ離されずについていけたでしょう。
藤井二冠が優勝。2018年度の朝日杯将棋オープン以来となる4度目の棋戦優勝で銀河戦は初優勝です。
『新科学対話Discorsi e dimostrazioni matematiche, intorno a due nuove scienze attenenti alla mecanica ed i movimenti locali』は,ガリレイGalileo Galileiの最晩年の著作です。1638年に出版されたもので,この著作はガリレイ自身が書いたのではなく,弟子に口述筆記させたものです。最初に紹介したように,この著作は対話形式で進められていて,ガリレイ自身の分身とみられるサルヴィヤチSalvyachiという人物が質問に答える形式になっています。この質問者が,口述筆記をした弟子であるのか,質問者の質問の部分もガリレイが考えて口述筆記させたものなのかということは分かりません。
この本が出版されたのがオランダでした。このことからも,当時のオランダが少なくともイタリアより進歩的な国家であったことは推測できると思います。イタリアがカトリックの総本山であるのに対し,オランダはプロテスタント国家でした。そして,スペインやポルトガルで宗教的理由から迫害されたユダヤ人,そこにはスピノザの父親も含まれますが,そうした人びとを受け入れていたのです。おそらく『新科学対話』も,オランダであったから出版できたのであり,イタリアでは出版することは不可能だったでしょう。したがって,ガリレイが宗教裁判にかけられ,デカルトRené Descartesやスピノザがそこから逃れることができたのは,ガリレイがイタリアで活動したのに対し,デカルトとスピノザはオランダが活動の中心であった点が大きく影響していたのだと思います。
ステノNicola Stenoがデカルトの哲学のことを新哲学といっている書簡六十七の二は,1675年に出されたものです。そしてステノというのは,プロテスタントからカトリックに改宗し,オランダからイタリアに渡った人でした。その後,フランスに移り,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとも面識がありました。このカトリックへの改宗者がデカルトの哲学を新哲学といっているのは,ステノ自身のことばではなく,おそらくカトリックのうちで一般的にいわれていたものではなかったかと僕は思います。したがって,ステノ自身が『新科学対話』,ガリレイ自身が著作のタイトルとしている語でいえば新しい科学というのを意識して,デカルトの哲学のことを新哲学といっているという可能性は,僕には低いように思えます。つまりこの観点からはふたつは無関係だと思います。
振駒で藤井二冠の先手となり,糸谷八段の8筋を交換しない横歩取り力戦。先手がやや有利に展開してたようです。
先手が4筋の歩を歩を伸ばした局面。ここで後手は☖7四歩と打ち,先手は☗8六角と引きました。どちらに角を引くのか打診したということでしょうが,玉の逃げ道を狭める意味もあり,この交換は微妙でした。
敗着になったのはおそらく次の☖4五飛。おそらく後手が軽視していたであろう☗3四銀と打つ手が好手。☖1五飛は☗4三銀成なので☖4四飛と引きましたが☗4五歩と打たれ,飛車が取られる展開になってしまいました。この陣形で飛車を渡してしまっては後手はアウトです。
☖4五飛のところでは☖2七歩成とするか,☖6五歩と取っておくかすれば,苦戦ではあってもまだ離されずについていけたでしょう。
藤井二冠が優勝。2018年度の朝日杯将棋オープン以来となる4度目の棋戦優勝で銀河戦は初優勝です。
『新科学対話Discorsi e dimostrazioni matematiche, intorno a due nuove scienze attenenti alla mecanica ed i movimenti locali』は,ガリレイGalileo Galileiの最晩年の著作です。1638年に出版されたもので,この著作はガリレイ自身が書いたのではなく,弟子に口述筆記させたものです。最初に紹介したように,この著作は対話形式で進められていて,ガリレイ自身の分身とみられるサルヴィヤチSalvyachiという人物が質問に答える形式になっています。この質問者が,口述筆記をした弟子であるのか,質問者の質問の部分もガリレイが考えて口述筆記させたものなのかということは分かりません。
この本が出版されたのがオランダでした。このことからも,当時のオランダが少なくともイタリアより進歩的な国家であったことは推測できると思います。イタリアがカトリックの総本山であるのに対し,オランダはプロテスタント国家でした。そして,スペインやポルトガルで宗教的理由から迫害されたユダヤ人,そこにはスピノザの父親も含まれますが,そうした人びとを受け入れていたのです。おそらく『新科学対話』も,オランダであったから出版できたのであり,イタリアでは出版することは不可能だったでしょう。したがって,ガリレイが宗教裁判にかけられ,デカルトRené Descartesやスピノザがそこから逃れることができたのは,ガリレイがイタリアで活動したのに対し,デカルトとスピノザはオランダが活動の中心であった点が大きく影響していたのだと思います。
ステノNicola Stenoがデカルトの哲学のことを新哲学といっている書簡六十七の二は,1675年に出されたものです。そしてステノというのは,プロテスタントからカトリックに改宗し,オランダからイタリアに渡った人でした。その後,フランスに移り,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとも面識がありました。このカトリックへの改宗者がデカルトの哲学を新哲学といっているのは,ステノ自身のことばではなく,おそらくカトリックのうちで一般的にいわれていたものではなかったかと僕は思います。したがって,ステノ自身が『新科学対話』,ガリレイ自身が著作のタイトルとしている語でいえば新しい科学というのを意識して,デカルトの哲学のことを新哲学といっているという可能性は,僕には低いように思えます。つまりこの観点からはふたつは無関係だと思います。