静岡県沼津市で指された第84期棋聖戦五番勝負第三局。
羽生善治棋聖の先手で角換り相腰掛銀。後手の渡辺明竜王が6筋の位取り。長い長い間合いのはかり合いから決戦に突入すると,いきなり激しくなりすぐに終盤戦となりました。控室の評価ですと先手勝勢に近いくらいまでいったようですが,どうも寄せ損なってしまったようです。
たぶん先手がおかしくしたのはこの周辺からではないでしょうか。▲4一龍と寄っておくのが普通に思えますが▲3ニ金打。△1三玉▲3三金△同桂▲3二金△2二銀▲2一龍△3二角▲同龍△3一金▲4三龍で後手玉は容易に寄らない形になってしまいました。
ここから後手が△5七香と反撃。先手も▲3四龍以下よく迫りましたが及ばず,最後は変化も多い長手順の即詰みに討ち取り,後手が勝ちました。
渡辺竜王がシリーズ初勝利で第四局へ。17日です。
福居純が直接無限様態は個物であると主張するとき,ふたつの個物のうちres particularisを念頭にそういっているのか,それともres singularisの方を念頭に主張しているかは不明です。あるいは福居はその相違には注目していないと理解することも可能でしょう。ただ,直接無限様態であるのか間接無限様態であるのかということを離れて,無限様態と個物との関係を『エチカ』においてどのように把握するのかということだけを注視するならば,個物の集積として無限様態の一特質を見出すのではなしに,無限様態についてそれ自体をひとつの個物とみなす点において,福居の主張と朝倉説というのは完全に一致しているように僕には思えます。そしてそうであるならば,ここが重要ですが,福居もまた朝倉と同様に,res particularisとres singularisに同一の訳を与えることを否定する可能性もあるように僕には思えます。別のいい方をすれば,福居もまた,res particularisとres singularisは同一の概念ではないと解釈している可能性が残るように思うのです。
したがって,これらふたつの個物は同一の概念であるから同一の訳を与えても構わないという見解は,すでに朝倉によって共有事項ではないということが明らかになっているのですが,この主張自体が朝倉に独自のものとすら断定できないという状況に,少なくとも僕にとってはなっているのです。これが,このことに関して長々と継続した考察理由となっているのです。
この考察の契機となったのは,神の決定に従うことがものにとって肯定的な事柄,すなわち積極的であると認め得る事柄であり,神の決定に反することはむしろものにとって否定的な事柄であり,その限りではものは積極的であるとはみなし得ないということを,物の表現という観点から説明したことにありました。そこで,今回の主題である考察に戻ることにしますが,ものにとって何が積極的であるといい得るのかということについての結論を,これ以降の前提条件とします。そこで,そろそろ第一部定理二六を証明することにしましょう。
羽生善治棋聖の先手で角換り相腰掛銀。後手の渡辺明竜王が6筋の位取り。長い長い間合いのはかり合いから決戦に突入すると,いきなり激しくなりすぐに終盤戦となりました。控室の評価ですと先手勝勢に近いくらいまでいったようですが,どうも寄せ損なってしまったようです。
たぶん先手がおかしくしたのはこの周辺からではないでしょうか。▲4一龍と寄っておくのが普通に思えますが▲3ニ金打。△1三玉▲3三金△同桂▲3二金△2二銀▲2一龍△3二角▲同龍△3一金▲4三龍で後手玉は容易に寄らない形になってしまいました。
ここから後手が△5七香と反撃。先手も▲3四龍以下よく迫りましたが及ばず,最後は変化も多い長手順の即詰みに討ち取り,後手が勝ちました。
渡辺竜王がシリーズ初勝利で第四局へ。17日です。
福居純が直接無限様態は個物であると主張するとき,ふたつの個物のうちres particularisを念頭にそういっているのか,それともres singularisの方を念頭に主張しているかは不明です。あるいは福居はその相違には注目していないと理解することも可能でしょう。ただ,直接無限様態であるのか間接無限様態であるのかということを離れて,無限様態と個物との関係を『エチカ』においてどのように把握するのかということだけを注視するならば,個物の集積として無限様態の一特質を見出すのではなしに,無限様態についてそれ自体をひとつの個物とみなす点において,福居の主張と朝倉説というのは完全に一致しているように僕には思えます。そしてそうであるならば,ここが重要ですが,福居もまた朝倉と同様に,res particularisとres singularisに同一の訳を与えることを否定する可能性もあるように僕には思えます。別のいい方をすれば,福居もまた,res particularisとres singularisは同一の概念ではないと解釈している可能性が残るように思うのです。
したがって,これらふたつの個物は同一の概念であるから同一の訳を与えても構わないという見解は,すでに朝倉によって共有事項ではないということが明らかになっているのですが,この主張自体が朝倉に独自のものとすら断定できないという状況に,少なくとも僕にとってはなっているのです。これが,このことに関して長々と継続した考察理由となっているのです。
この考察の契機となったのは,神の決定に従うことがものにとって肯定的な事柄,すなわち積極的であると認め得る事柄であり,神の決定に反することはむしろものにとって否定的な事柄であり,その限りではものは積極的であるとはみなし得ないということを,物の表現という観点から説明したことにありました。そこで,今回の主題である考察に戻ることにしますが,ものにとって何が積極的であるといい得るのかということについての結論を,これ以降の前提条件とします。そこで,そろそろ第一部定理二六を証明することにしましょう。
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