書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

決めつけ

2020年06月02日 22時35分33秒 | 意識論関連

養老孟司はこう述べたことがある

「ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけてきた ヒトとはそういうものであると私は考える」

この言説には嘘がある

「私は考える」と養老は述べたが 論理的根拠が一切示されておらず これは「考え」ではなく養老の勝手な決めつけに過ぎず

実証不能の観念そのものに他ならない

これはNHKの室山哲也が「人類は絶滅します」と根拠も示さず勝手に決めつけたのと同じものであり 到底科学的検証に基づいた結論とは言えない

養老の言説というのは こうした根拠のない身勝手な言説が非常に多く 到底「科学の玄人」とは言えないバカの癖に 他人にツッコミを入れられると「これだから科学の素人は困る」などと蔑み 一方的に話をはぐらかすのである

これは科学を装ったただのオカルトペテンに過ぎないのだが 大衆の多くは内容を誰も論理的に検証せず マスコミも大衆人気や著作の販売部数や儲かった金額だけを根拠に「科学的に正しい内容である」と勝手に勘違い妄想したまま 間違いを誰も正さないというバカのスパイラルに陥っているのである

 

「ヒトとはそういうものである」などと言えば あたかも運命論的に不可避で それ以外の選択の不可能性の論証であるかのような錯覚を促すが

それこそが自律的に論理検証が出来ないバカ特有の「鵜呑み」であり 錯覚を用いた洗脳なのである

こうした科学や哲学を装ったペテンというのは 何も養老孟司に限ったことではなく マイケル:サンデルもマルクス:ガブリエルもフリードリヒ:ニーチェもイマヌエル:カントも同じ構造で人々を洗脳するのである

カントの純粋理性批判というのは その理屈を本当は誰も理解などしていない

それはオウム真理教教祖の麻原彰晃の言説と同じで 本当は論理的には何の根拠も証明も論じてなどいないのである

訳のわからぬ話で相手の脳を撹乱した後に 「叡智界」などという何の根拠もありゃしない勝手な決めつけを持ち出し 大衆の脳を酔わせて満足させ 人気を得る

多数から人気があり 主観的に「好き」な相手の言うことに対し ヒトという種の生物は疑うことをしなくなる習性がある

疑うことをしないのは 進化的に統率服従による協調行動を採るのに都合が良いために 先天的な行動習性として組み込まれたものである

先天的な統率協調行動というのはヒトに限った習性ではなく ハダカデバネズミでもイヌでも それこそ条件反射しかしないハチやシロアリでも発揮する習性であり ヒトがヒトになる以前から進化的に組み込まれてきた行動習性である

行動習性というのは環境依存的な条件反射行動であり
特定環境さえ整えれば常に発揮されるが 他の条件で発揮される保証はない

ヒトやチンパンジーが特定環境下において利他的行動を採ることを どんなにたくさん「立証」しても それによって「ヒトとは常に利他的行動しか採らないことの論証」には全くならないのである

つまり 先天的行動習性という条件反射的な行動バイアスというのは 環境に左右される運命論的行動しか促さないものであり 本質的な自発的行動選択とは全く別次元の動物的な無意識に過ぎない

人間性や倫理の本質というのは 環境に左右されずに個人が自律的に社会的責任を負う必要性があり 動物的な先天的習性で立証することは 最初から構造原理的に不可能性が論理証明されているのである

にも関わらず 松沢哲郎は「先天的本能習性から人間性が立証できるかも知れない」などという根拠のない仮説で大衆人気を得て しかもそれが文化功労賞受賞にまでなったのである

これをペテンと言わずに何と言うのであろうか

 

軍隊というのは 兵隊というのは 上官に対して絶対服従するよう訓練させられる

上官の命令であれば 決して自律的に検証などせず 命令通りに唯々諾々と服従するよう「学習」させられることで 大量殺戮にも便利に使えるようになるのである

ヒトという種の生物は 先天的な統率協調性(生物学上における「社会性」)を持っているため こうしたバカを大量生産すれば 戦争などというバカげたことでも便利に利用できる習性を持っているのである

ヒトという種の生物は 自律的に物事を判断することを嫌がり 権威や上官の判断に唯々諾々と服従することで 判断責任を丸投げできるものであると「思って」いるのである

「思って」いるのは主観的感覚である

論理的根拠は何もない

ナチスによるユダヤ人絶滅計画において より効率よくユダヤ人を殺害するための計画書の作成に邁進したアドルフ:アイヒマンは 戦後国際法廷において「自分は体制に忠誠忠実な吏官に過ぎない」と主張した

ヒトというのは権威や体制に対して忠誠忠実に服従しておきさえすれば 安心して残虐な行為であっても責任を他人に丸投げできるものであると錯覚する習性がある

感覚的には それが「安心」で「満足」なのである

スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験によって ヒトには普遍的にこうした行動習性があることが立証されており 実験においては大多数のヒトが権威の命令に逆らうことなく他人に危害を加えるようになった

ミルグラムの論文を読んだヒトの中には 「それでも権威に服従しない社会は崩壊する」などと言い出す者もいた

ミルグラムの服従心理実験の結論というのは あくまで「権威に無為に服従するだけで自律的に物事を判断しないと重大な失態に陥ることがある」という内容であるにも関わらず 論理的根拠も示さずに「権威に服従しないと社会は崩壊する」などと決めつけて思考停止するバカも少なくはない

権威に服従しておけば 主観的感覚として安心が得られることを 短絡的に論理客観的根拠か何かと勝手に勘違いしているから 論理的根拠も示さずに身勝手な決めつけもできるようになるのである

こういった決めつけをしているヒトというのは 自信だけはタップリある

何せ気分が優先しているために論理客観的証拠や根拠なんぞなくても「安心」して主張しているからである

バカというのは自分の主観的感覚を絶対だと信じて疑わないからバカが治らない

何せバカは自分がバカである自覚がないからどうにもならない

 

Ende;

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洗脳

2020年06月02日 12時52分36秒 | 意識論関連

人智や理性を超越しちゃった「叡智」なる実証不能の観念に基づき 「人間(ヒト)は叡智界に属している」などという論理的根拠のない訳のわからぬオカルト観念を言い出した時点でイマヌエル:カントは哲学を逸脱している

ヒトの多く 文科系大衆やマスコミの大多数は哲学というものを 主観的に気分が良くなる「好きな」話で満足することだと勝手に勘違いし 論理的根拠も示されない実証不能の観念であっても鵜呑みにして有難がる習性がある

これはヒトという種の生物の先天的欠陥である

哲学は「答えが出なくても良い」とか「役に立たなくても良い」からといって 論理的根拠も示されない実証不能の観念を盲目的に信じ込み 何が間違っているのかを一切考えなくなることは哲学ではない

基礎科学においても 砂漠の真ん中で一日中穴掘りしてトカゲ一匹見つからなかったとしても 「見つからなかったからこの砂漠には絶対にいない」などという勝手な妄念的決めつけをして良いわけではない

探し方が悪かったのか たまたまいる場所に辿り着かなかっただけなのかは 「わからない」というのが科学的な検証である

「わからない」ことは「わからない」として保留しておく姿勢が科学や哲学には必要であり 勝手な主観的感覚に基づいて「わかった」と思い込むことは科学や哲学からの逸脱でしかない

ましてや論理的には理解不可能な話を盲目的に信じ込み 主観的気分を満足させて思考検証を放棄することは ただのオカルト洗脳でしかない

養老孟司はこう述べたことがある

「わからないなら わからないなりに わかったとする そういうわかりかたもあるのかと 思って頂けれればさいわいである」

こういう科学を逸脱した意味不明な観念の方が大衆には人気が得られるのである

人気とは 主観的な「好き」の多数決である

ヒトは主観的に気分が良くなる「好き」な話を聞くと 相手の言うことを盲目的に信じ込み 疑うことや論理的に検証することを全くしなくなる習性がある

カントの講義も学生から人気があったそうだ

マイケル:サンデルの講義もバカな学生共からは大人気である

カール:ライムンド:ポパーの講義に人気があったという話はない

キェルケゴールやサルトルの著作も人気はない

気分が良くならないからである

大衆人気が得られるのはフリードリヒ:ニーチェなどの主観的観念ばかりである

別に「大衆人気があったら哲学ではない」ことの論証にはならないが 「多数人気があれば論理的に正しい」ことの証明にはならないことは明確に言えるのである

 

「ヒトは先天的に理性や人智を超越した叡智なる凄い能力を持っている」などというオカルト話を聞くと ヒトの多くは「自分は生まれながらに優秀な存在なんだな」と勝手に勘違いし 「全てを知覚可能」だと全能感に溺れて思考を停止させている頭の悪さは認識できなくなる

養老孟司はこうも述べたことがある

「教えてもらってないことは わからないじゃないですか」

多くの人が理解可能な話であるならば それは理解可能な人の誰が思いついてもおかしくはないのである

教えてもらわなくても自分の頭で考えればわかることを 「教えてもらっていない」ことを根拠に「絶対にわからない」かのように言い張るのは 自分では何も考えていないバカの主張である

哲学とは 「考える」ことである

「考える」とは あくまで論理的根拠に基づいて検証することであって 論理的根拠をすっ飛ばした意味不明な話で満足して盲目的に鵜呑みにすることは哲学ではない

主観的に「信じたい」ことをどんなに主張しても それは客観的論理検証にはならない

 

客観性とは言っても 所詮はヒトの主観から導き出されたものであることに違いはないが 論理的根拠のない感覚的観念と 論理的根拠を伴った理論は区別が可能である

可能ではあるが バカはこれができない

できない奴をバカと言う

どんなに学力成績が良くても バカは間違ったことを教えられても間違いに気付くことは出来ない

だから「叡智界」などという意味不明なオカルト話も鵜呑みにできるのである

自らの頭の悪さを認識しなければ 頭の悪さから脱却することはできない

頭が良くなるというのは オカルト話を鵜呑みにして満足している自分の頭の悪さに気付くことで オカルトや錯覚に惑わされずに客観的論理検証によって真理(本当のこと)と そうでないものを区別することが可能となるのである

自らの頭の悪さを自覚することは 気分の良いことではない

気分的にいくら落ち込んでも 頭が良くなるわけではなく 主観的気分をも客観的には意味がないことを理解し 同じ過ち間違いに陥らないようにするためには主観的感覚を一度棚上げにして 徹頭徹尾論理客観的検証に徹する必要性がある

「自分の間違いを自覚すると 気分が悪くなる」というシーケンス(条件反射)も含めてのヒトの先天的な欠陥なのである

生物の生存価の観点からは 別に論理客観的検証ができなくても死にはしない

猫が鏡に映る自分の姿に威嚇し続けても 生存にとってはさしたる障害にはならないのと同じようなものである

身体障害者を虐殺した男を「こんな奴は死刑にしちまえ!」と怒鳴り散らして大衆人気を得 論理的原因究明や再発防止を放棄していても 梅沢富美男は死にはしないばかりか むしろ金儲けに成功するのである

個体の生存価に基づけば バカでも死にはしないが 社会的責任のある人間としては機能しない

世の中にはバカは多い

バカが大半だからこそ 叡智界などという糞の役にも立たないことが証明されているオカルト話が哲学扱いされ続けているのである

マイケル:サンデルは トロッコ問題などという制限をその場で追加し続けて答えが出せないように誘導する「サンデル命題」で聴衆を「悩ましい」気分にさせることで 「悩ましい」気分と論理的に検証した「考え」の区別が出来ないバカ学生に「自分は深く物事を考えたから 頭が良くなった」という錯覚を与えて満足させることで人気を得る

サンデルが提供している命題の制限の中だけでしか「悩んで」いないにも関わらず その思考の薄っぺらなことには自覚出来ず 気分的に「深く考えた」と勝手に勘違いし満足する

これはオウム真理教の洗脳の構造と全く同じものである

本当は何も「考え」てなどいないのに 勝手に「自分は頭が良くなった」と勘違い錯覚することで サンデルや麻原彰晃を主観的に好きになり 疑うことや検証することを一切しなくなることで洗脳が成立するのである

イマヌエル:カントの純粋理性批判というのは 話が複雑でややこしいため 読者は「理解できないのは自分の理解能力が低いからだ」と諦めてしまうのだが 実際には最初から論理的理解など不可能な実証不能の観念への誘導に過ぎず それでバカ学生から人気を得るための大衆迎合に過ぎないのである

麻原彰晃の話も 多くの幹部や信者は理解していない していないからこそ教祖に判断を丸投げして盲目になるのである

もはや自分では判断できない

洗脳状態に陥ると「個人が自律的に社会的責任を負う」ことができなくなるのである

だから都営三田線にサリンを撒き散らすこともできるようになり それが「人類の救済」だと信じて疑うことがない

純粋理性批判の中に出てくる「叡智界」などというオカルト観念すらも信じておけば 大衆の多くはバカなマスコミ関係者達は哲学だと勝手に勘違いして間違いに気づかない

論理的に間違っていて 論理的根拠も何もなく 応用も利用も不可能なことが論理的に証明されている概念を鵜呑みにすることは哲学ではない

それは「何も考えていない」からである

 

Ende;

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叡智界

2020年06月02日 01時09分00秒 | 意識論関連

【叡智界】〔ラテン mundus intellegibilis〕

〘哲〙 人間の経験的な知覚においては与えられず、ただ思惟や精神的直観によってのみ把握される超感覚的な世界。可想界。 ⇔ 感性界Wiblio辞典

「叡智」の説明でこんなのもあったな

「理性や人智を超越した叡智」とか言うの

論理的に理解不可能で人智を超越した何かってヒトが利用応用できんのかい?

説明や理解が不可能なら「実証不能の観念」でしかないだろ

「人間(ヒト)は純粋統覚を通して叡知界に属していたのである。」

何でこんなオカルトが哲学扱いされてんのか意味がわからん

今の哲学界ってこんなオカルトだらけなのに 奨学金を借金してまで教え込まれるのは詐欺でしかないだろ

未だの西研みたいなバカが哲学権威扱いなのは異常だよ

「東京医科大学が入試不正をしていた期間からすると被害者は少なくとも2万人以上」とされる -Wikipedia

これが東京医科大学の「叡智」の実態である

物理工学系研究者がツッコミ入れないと 組織腐敗は治らんぞ

野井良治みたいなボケジジイじゃ使い物にならん

 

Ende;

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現選択可能性

2020年06月02日 00時20分19秒 | 意識論関連

全てが因果律に則っているのであれば ヒトの認識には自由など存在しないのではないか

この問いに対しては 量子レベルにまで細分化すれば全ては運命論だと言っても構わないかも知れないが

量子の数はトンデモナイ数であり 予測は不可能である

そもそも 「それを予測しようとする」行為自体も運命論に基づくものであるならば 「何のために予測しようとするのか」という目的意識も運命論だということになるが 目的意識自体は運命ではない

論理客観的に検証することによる厳密な目的行動選択が可能であり 逆に論理客観的検証をしなければ事故の原因もわからず因果に従い同じような事故が何度も起きるのである

原因がわからず再発防止対策が全くされなければ 何度でも同じ原因で事故は起きる これは因果律であり 運命任せである

しかし こうした無為な危険性の放置から脱却し 危険性を放置しないという目的意識(客観的論理検証)によって 因果や運命を意図的に変えることが可能なのである

その「選択」不可能性の反証はない

なぜなら 危険工学では実際やっているからだ

強いて言うなら「刑罰で満足する執着(中毒)をやめたくない」という主観的感覚だけであろう

 

「起こったことの全ては必然である」と称して 自分の行動までをも運命論にしたがるのは通り魔(バカ)の常套句である

自分からは何の論理検証も目的意識も持たずに 全ては「他人から教えられなければわからない」と述べるのがバカの論法である

自分で考え 気付くことができる能力を放棄し 無責任に他人任せにすることは 人間としての倫理に反する行為である

学力偏差値だのクイズの正解率には執着するくせに 自分からは自律的に論理検証し 自律的に「何が本当に正しいのか」を一切判断しないバカが多すぎる

だから間違った内容を教え込まれても 誰も間違いに気づかないのである

これを「バカ」と言う以外に何かあんなら教えてくれ

 

Ende;

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