書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

メモ:純粋理性批判

2020年06月08日 23時00分26秒 | 意識論関連

デイビッド:ヒューム

「因果法則も習慣的印象に過ぎない」

人間は主観の外に出て世界を認識することはできない

主観には共通規格がある

 

経験的総合判断

経験に依らぬ判断 アプリオリな総合判断 錯覚を含むことを考慮に入れていない

因果律:偶然に起こるものはない

因果に悪霊妖怪の類いを含めてしまえば真理を見失う

 

空間時間を通して直感を作り出す ?

原因と結果 (状況証拠に過ぎない

手続きの仕方

 

「純粋統覚」の中には刷り込み学習も含まれることになり 育った環境によって根拠もなく鵜呑みにしている「常識」も含まれることになる

「自分の経験」を事後正当化してしまう習性があるからこそ虐待は連鎖するのである

 

カントは見落としが多すぎる

頭ごなしに科学や理性を批判しようとしているため先天的感覚や直感の全てを万能だと見なして論じており

持論に都合の良い屁理屈を陳列しているだけである

 

Ende;

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ヒトが信じたくない話

2020年06月08日 21時30分40秒 | 意識論関連

第2回 科学の知は、なぜ共有できるのか


多様な感覚的素材を「時間」と「空間」という形式を通して受容する「感性」。「時間」と「空間」は客観世界にあるのではなく、私たちの認識主観にあらかじめ組み込まれている「形式」だとカントは考える。いわば、私たちは「時間」「空間」という眼鏡をかけて世界を認識しており、その規格が共通だからこそ科学や数学が客観性をもつというのだ。しかし、それだけでは認識は成立しない。もう一つの共通規格である「悟性」が、そうした感覚的素材を量、質、関係、様態といった「カテゴリー」に当てはめて統一することで、初めて万人が共有できる「知」が成り立つという。第二回は、認識能力の限界を見極めるカントの洞察を通して、「人間が何を知りえて、何を知りえないか」を明らかにし、科学的知識がなぜ共有できるのかを掘り下げて考える。

『私たちの認識主観に予め組み込まれている「形式」だとカントは考える。』

「考える」と述べているが 根拠が示されておらずデマ同様に勝手な決めつけにすぎず それに基づいたカントの論説は全て基礎を失う

カントは理性を超越しちまった悟性(何だそれ)という分類の中に錯覚がもたらす科学的誤謬の存在を無視している

「万人が共有できる」ことの全てが真理であることの根拠が全く示されていない

ヒトの大多数は科学的思考や論理客観的検証というものが苦手で 神だの魂だのといった実証不能の観念を信じ込み倫理に反する行為を行うようにもなる

それなら「万人」という多数が共有したがるからといって真理であるとは言えないのである

「万人」と称して多数派の人気取りをしているだけなら それは哲学ではなく大衆迎合に過ぎない

 

 


第3回 宇宙は無限か、有限か

理性が本来の限界を超えて推論を続けると必ず陥ってしまう誤謬。中でも「世界全体についての認識」を例にそうした誤謬の検証を行うカント。例えば「宇宙は無限か、有限か」。宇宙に時間的な始まりがあるとすると、その前には時間が存在しないことになり、いかなる出来事も生じず宇宙は誕生しないことになる。逆に宇宙に時間的な始まりがないとすると、現在までに無限の時間が経過したことになるが、無限の時間とは経過し終えないもののはずだから現在という時間は決して訪れないことなる。このように、対立するどちらの論も成り立たない矛盾をアンチノミー(二律背反)と呼び、この検証を通じてカントは理性の限界を鮮やかに浮かび上がらせる。第三回は、理性が自ら陥ってしまう誤謬の解明を通して理性や科学的思考への過信に警告を鳴らす。

「いかなる出来事も生じず」と言っているが この論証における「出来事」とは「この時空間においての出来事」を述べているに過ぎず 「この時空間」からは見えない高次の「ゆらぎのようなもの」の存在を否定したことにはならない

最新の物理学においては「この時空間」の4っつの次元からは少なくとも他の7次元を知覚することは原理的にできず 「いかなる出来事も生じない」ことの論証には全くならず 何ら論理性の限界の証明にはなっていない

今更ビッグバン理論(この時空間の始まり)を否定する天文学者なんぞオカルトでしかない

 


第4回 自由と道徳を基礎づける

理性の能力の限界を厳しく吟味すると「神の存在」や「魂の不死」は証明できないことが明らかになる。ではなぜ古来人間は、神や魂について考え続けてきたのか? その動機の裏には「かくありたい」「かく生きたい」という「実践的な関心」があった。「神の存在」「魂の不死」を前提としなければ道徳や倫理は全く無価値なものになると考えたカントは、それらを「認識の対象」ではなく、実践的な主体に対して「要請された観念」だと位置づける。この立場からカントは、科学によって居場所を失いつつあった価値や自由といった人間的な領域を基礎づけようとする。第四回は、科学が主導権を握りつつあった世界にあって新しい道徳の復権を目指したカントの思索を通して、知識や科学だけでは解決できない「人間的価値や自由の世界」を深く見つめ直す。

ヒトが神や魂について考え続けてきた動機の裏にあるのは動物としての先天的な「社会性(社会形成習性)」による妄想観念の事後正当化であり 錯覚を錯覚だと認識するのは客観的論理検証性である

「神の存在を前提としなければ道徳や倫理は全く無価値になる」と述べているが

旧約聖書において「神がいないのであれば 何をしても許される」という話同様 自律のないバカの主張に過ぎない

社会安全性や持続可能性の追求(倫理)というものは神が許すかどうかの問題ではなく あくまで「人間」としてのヒトが求めているものであり 神がいようがいまいが関係がない

そもそも魂が不死であるのならば 死ぬことを恐れる必要もなくなるので 「早く死ね」という結論にしかならない

 ◇

カントは当時の科学の進歩に対しての観念的恐怖心から科学的な理論(理性)を頭ごなしに否定したかっただけであって 純粋理性批判は何ら理論として成立していない

そもそも「理性を否定する理論」自体が自己矛盾であって その屁理屈の結論が実証不能の「叡智界」では話にならない

ヒトの多くは自分の主観的観念の方を意識の本質だと錯覚する習性があり 客観的な論理検証に基づく話に耳を貸さないようにするためには「理性は悪だ」と決めつけておけば主観的に満足し 何も考えなくなる

考えないということは バカということである

ヒトはバカでいた方が楽なのである

 

Ende;

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バカワクチン

2020年06月08日 16時40分40秒 | 意識論関連

養老孟司は「地球温暖化の原因が温室効果ガスの放出によるものだと言っている学者が9割なら 9割は信じても良い」と言ったが

これは嘘である

それなら「哲学者の99.99%がカントの純粋理性批判を支持していれば99.99%は信じても良い」ことになってしまう

カントの純粋理性批判というのは論理客観的根拠が著しく欠損しており ただのオカルト妄想にしかなっていない

科学や哲学にとって重要なのは 客観的証拠や根拠であり 「学者の多数決」ではない

客観的根拠に基づいて 「何が間違いなのか」を認識するのは最終的には個人の検証であって 多数派迎合ではない

ヒトという種の生物は先天的に客観的論理検証性が働きづらい性質があるため わざわざ科学や哲学といった論理的根拠を伴った客観的事実を認識するための方法論を必要とするのであり

「哲学」だと称して根拠のないオカルトやお伽話を信じていたのでは哲学もスッタクレもなくなるのである

 

ヒトの多くは実証不能の観念を鵜呑みにし 他人に多大な迷惑をかける習性が先天的にある

だから 実証不能の観念なのか それとも客観性のある論理的根拠を伴う事実なのかを識別するために科学や哲学が必要となるのである

妖怪悪霊の類いを信じ込んで効果のないおまじないで安心しても安全性は全く向上しないのである

疫病対策として妖怪を祀っても それは主観的気分の問題であって 客観的には効果がないことは明らかである それはたいていの人が知っている

ところが 純粋理性批判に関しては多くの人が客観性のある論理的根拠を伴う「哲学」だと信じ込んでいるため 純粋理性批判を鵜呑みにして「理性には利己的利益追求の側面があります」などと言い出すバカが後を絶たない

バカは自分で物事を考えない

物事を考えないからバカなのだが

何が論理的根拠を伴う「考え」なのか それとも客観性のない「思い込み」に過ぎないのかを区別出来ないのが原因である

自分で物事を考えず 多数派に迎合して自律的判断を放棄しておいた方が判断責任を負わなくて済むため 主観的には安心してどんな話でも鵜呑みに出来る

バカというのは その主観的な安心そのものが「利己的」であることすら自覚することはない

感覚や直感には利己的利益追求の側面が存在しないとでも言うのであろうか

何も考えない方がむしろ利己的なのである

ヒト以外の動物は常に利己的である

ゴリラやチンパンジーに白目がないのは 相手から視線を悟られないために結果的に進化したためであり 基本的にゴリラやチンパンジーは相手に自分が何を考えているのかは知られたくないのである

イヌやサルにエサを与えて芸を仕込むことは出来るし 盲導犬や介助にサルを用いることは可能であるが これは訓練によってヒトにとって都合の良い行動を「学習」させることで可能になる一種の洗脳であり あまり知能の高過ぎる動物は使うことが出来ない

すると「知能が高いと理性が働くから 理性は悪だ」という説明も可能になるが これは間違いである

知能が低いイヌの場合 軍用犬として殺戮に運用することも可能となるのであり どう運用するのかは使う方の目的次第である

重要なのは「目的」である

目的が目先の欲望だけである場合には 利己的行動しか促されることはなく これは理性の有無とは関係がなく ワニでもサルでも野生動物は全て利己的なのである

ヒトがなぜ利己的行動を悪だと認識できるのかと言えば それは社会安全性において必要だと「理解」しているからである

自然界においては利己的行動だけでも 結果的に環境調和が可能な生物相へと「進化」した結果 肉食動物の繁殖力が一定程度低く 草食動物の繁殖力が非常に高い個体種だけになったのであって 別に彼らが「自然環境と調和するため」という目的意識に基づいて自らの遺伝的形質を選択したわけではない

「犀は草食動物だが繁殖力が低い」のだが それは肉食動物から喰われないためであって むしろ天敵がいないために繁殖力の低い個体でなければ環境調和に適さないため 結果的に淘汰されたと言える

つまり 環境調和であれ何であれ 野生動物の形質というのは全て結果的な必然性であって 誰の「目的」も介在していないのである

それなら自然界同様に社会から犯罪者を片っ端から「淘汰」していけばヒトは人間性が高まるという妄想も働くかも知れないが これは自然界の「結果」を鵜呑みにした短絡的発想に過ぎず 本当に自然界における遺伝的進化を促すためにはヒトの99.99%以上を淘汰しなければ遺伝的進化など起きることはない

そもそも遺伝的進化による先天的な行動習性や形質といったものは 特定環境下においてのみ有効性を発揮するものであって 環境が変われば無駄になるものでもある

ネアンデルタール人が絶滅したのは寒冷地適応が地球温暖化に対応できなかったのが原因だと言われている

もし ネアンデルタール人の中により温暖な気候に適した個体がいて その個体同士だけが子供を作り続ければ環境の温暖化にも適応することが出来たかも知れないが そうした遺伝的進化というものは常に成功する保証は何もないのである

遺伝的進化が促されるのは何世代もの苛烈な淘汰が必要であり 自然界の過酷な淘汰圧力の結果に過ぎない遺伝的進化をヒトに適用する時点で 既に人間性を著しく欠いているのである

ヒトは 深く物事を考えれば社会安全性が結局は自分の利益になることを認識することが可能ではある

可能ではあるが それは深く考えずに目先の欲望に任せてしまえば社会安全性よりも利己的行動の方を優先してしまいがちである

だから犯罪だの紛争が絶えない

釈迦は「情けは他人の為ならず」と述べたが それは宮沢賢治の「世界中の人が幸福にならなければ 自分の幸福もあり得ない」のと同義である

ゴリラやチンパンジーレベルの中途半端な知性は利己的利益追求を加速させることになるが ヒトは深く物事を考え 何が本当なのかを理解認識することによって目的を持った人間性を発揮することも可能なのである

ヒトであってもゴリラやチンパンジーレベルの中途半端な知性しか発揮しなければ利己的な行動しか採ることはない そんなバカなら世の中に掃いて棄てるほどいる

さらには中途半端な知性すら働かずにイヌ程度の盲目性を発揮してしてしまえばバカげた戦争にも便利に使えるようになるのである

 

相模原障害者施設津久井やまゆり園の被害者の個人情報報道が問題になったのは その個人情報に基づいて直接電話や訪問や「手作りのおはぎ」を持ってくるという迷惑な「お励まし」が起きたことである

「お励まし」を行っているヒトというのは 主観的に「かわいそう」だと思ったからやっているのであって 客観的に迷惑かどうかを全く配慮しないバカが一定する世の中にはいることの証拠である

現在の義務教育における「道徳」教育というのは 主観的な「かわいそう」という感情論の喩え話をしているだけであって これは被害者や遺族への配慮を欠いた「お励まし」を助長するだけである

「相手の気持ちを理解した」という錯覚に基づいた行動であろうが 実際には「お励まし」をすることによって 「自分は心の優しい人だ」と思い込むための利己的な自己満足でしかない

「情けは他人の為ならず」ではあるが 合理性や方向性のない身勝手な観念で「お励まし」をされても迷惑だということを バカは自覚認識することが出来ないのである

松永莉子パパに対して無神経に「頑張って」だとか「早く忘れろ」だとか言い出すバカもいるらしいが 頑張るべき対象を失ったから地獄なのであって無神経にも程がある

鬱状態の人に対して「頑張れ」は禁句である これは臨床心理では常識であり 絶対に言ってはならない

ところが一般的には何か災害などが起きるとすぐに「頑張れ」と言い出すのが常識みたいになっているが これは個人に対しては厳に慎むべきである

マスコミ報道で「お涙頂戴」とばかりに被害者報道を繰り返し その報道に煽られて無神経な「お励まし」を行うことは人間性を欠いた行動である

被害者を取材して個人情報を垂れ流して「お涙頂戴」的報道でもしておけば視聴率は採れるのだろうが それは身勝手な利己的行動にしかなっていない

自分達の組織の利益を追求しているだけであって 社会安全性にとってはむしろ害しかもたらしていないことも自覚せず 「事件の再発防止のため」などという論理的根拠もない身勝手な実証不能の観念を振り回すのは 合理性のない「道徳」教育が助長しているのである

 

知能が一定程度までは利己的行動は助長されるが 理性が充分に発揮されれば利己性が悪であることを自覚し自制することができるようになる

ゴリラやチンパンジーは生息数が少ない それは生物としては特に優れていないことをも意味する

ボノボは感情が高ぶると誰彼構わず抱きつきケツを振って満足するが これは時折イヌでもやる程度のことである これをヒトの社会人がやったら頭がおかしい

自分の感情は自分でナントカするのが人間というものである 「誉めてもらわないとやる気が起きない」だとか言っているのは自発性や主体性の欠如したバカの言い分である

芸術や文芸というのは科学や哲学と違って主観の世界である だから会田誠や江戸川乱歩による猟奇殺人小説のような不道徳な作品でも構わない そもそも「道徳」なんてのが社会安全性にとって意味がないからである

「たかしくんは やさしい気持ちになりました」でも「たかしくんは 女子の太もも見てムラムラしました」でも同じ主観であることに違いはないし それこそ「たかしくんは腹が立ったので殴りました」でも主観であることに違いはない

個人的な好き嫌いをどんなに多数で共有しても それが論理的根拠を伴った客観的事実の論証になるわけではない

養老孟司は主観的な好き嫌いの話を陳列して「客観的事実などない」などと言い出したのであり 科学者としても哲学者としてもポンコツ過ぎて論外である

養老孟司の嘘は大多数の人は見抜けず 簡単に鵜呑みにして主観的満足だけでなにかを「理解した」かのような錯覚に陥る

こうした錯覚によってヒトは真理を見失い 訳のわからぬ実証不能の観念を鵜呑みにし 他人に多大な迷惑をかけることになるのである

嘘つきは養老に限ったことではなく マイケル:サンデルやマルクス:ガブリエルや西研や茂木健一郎 挙げたらキリがないほど山ほどいる それらのどこがどう間違っているのかを全部私が教えるわけにはいかない

嘘つきという利己的行動は 知能が充分に働いていないバカの行動であり バカはいなくなることはない

「いなくならない」からといって放置して良いのではなく 「いなくならない」からこそ嘘を見抜く知性や理性が必要不可欠なのである

航空機事故もおそらく「なくならない」だろう だからこそ徹底した論理的原因究明と再発防止策が必要なのである

バカという「失敗」を教訓にすれば バカは確実に減る

バカが減れば社会安全性は確実に高まるのである

 

Ende;

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