哲学は「考え」ることを意味します
「考え」てみることが哲学ですから 考えてみて答えが出なくても良いですし 役に立たなくても良いんですね
でも「役に立たなくても良い」からといって 客観的な論理的根拠がなくても「答え」だと勝手に勘違いしても良いわけではありません
科学の基礎研究も「役に立たなくても良い」んです
量子物理学とか天文学なんてのは直接何かの「役に立つ」わけではありませんから
でもね 科学において重要なのは論理客観的根拠なんですね
論理客観的根拠もない話は科学ではありません
論理客観的根拠のない話というのは真理ではありませんから 役に立たないことが明らかであり 社会にとって害しかもたらしません
量子物理学や天文学というのは 今のところ直接社会の役に立つわけではありませんが 将来的には役に立つ可能性はあるわけです
論理客観的根拠のある話というのは将来役に立つ可能性がありますが 論理客観的根拠がない話というのは将来役に立つ可能性が全くありません
哲学も科学と一緒で論理客観的根拠に基づいた論証がなくてはいけません
「役に立たなくても良い」というのは もう少し厳密に言えば「今すぐに何かの役にたたなくても良い」という意味であって 「今後一切糞の役にも立たないことが明確な話であっても哲学として扱って良い」わけではないのです
哲学というのは倫理や人間性 社会安全性や持続可能性に関わるものであり 論理的根拠もない話まで無責任に鵜呑みにしておいて良いものではありません
ところが大衆の多くやマスコミは「哲学は役に立たなくても良い」という話を短絡的に鵜呑みにし 哲学を逸脱したオカルト観念までも哲学として分類しているのです
客観的論理検証というのは主観的な好き嫌いで判断して良いものではありません
科学において「何を研究してみるか」の好き嫌いがあっても良いのですが それは「昆虫が好きだから昆虫を研究してみたい」とか「爬虫類が好きだから爬虫類を研究してみたい」といった領域の好き嫌いは自由なんですが 検証においては論理客観性が必要であって 主観的好き嫌いで勝手に結論をでっち上げても良いわけではありません
哲学においても好き嫌いはありますが 主観的に好きな話だからといってバカみたいに鵜呑みにして良いわけではありません
法哲学に興味があるのか 科学哲学に興味があるのか そういった領域の好き嫌いはあっても良いのですが どのような領域であろうとも論理客観性に基づいた根拠がなければ哲学ではありません
哲学というのは主観的に「かっこいい」だとか「センター性がある」だとか「素晴らしい」だのといった文学的感想を根拠に評価して良いわけではないのです
芸術やスポーツというのは主観的な好き嫌いの領域ですから 別にフェルメールが好きだろうとカラヴァッジョが好きでも奈良美智が好きでも何の問題もありません
しかし科学や哲学というのは論理客観的真理を追求することですから主観的な好き嫌いだけを根拠に内容を鵜呑みにして良いわけではありません
ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけてきました
なぜでしょうか?
それは実証不能の観念を実証不能の観念と認識できていないため 実証不能の観念を論理客観的な根拠を伴った真理と錯覚しているためです
錯覚というのは主観的感覚が作り出すものですから 客観的に論理検証することで錯覚を錯覚と認識し 間違った認識に陥らないようにすることも出来る
その客観的論理検証を目的としたものが科学や哲学の本来の役割なのです
「世界は存在しない」だの「人間は叡智界に属している」などといった論理的根拠の全くないオカルト話の方が大衆の多くから人気を得られるようですが ヒトという種の生物は先天的に自分の気分が良くなる話だけを信じたがる習性があるため こうした「嘘」の方にばかり安易にとびつき 客観性を失うという欠陥を先天的に持っているのです
ヒトは神の産物ではありません
ヒトは 別に「ヒトになろう」としてヒトになったわけでもありません
ヒトとは 「結果的に死なずに生きている」生物の一種でしかないのです
それに絶望を「感じ」ようとも 不条理性を「感じ」ようとも 「感じ」という主観こそが客観性を眩ませ 見えなくさせてしまうのです
目的意識を持って物事を判断すれば 目先の主観的感覚よりも普遍性を伴った客観的根拠に基づいた判断の方が重要であることは間違いありません
遺伝的進化によって自動的にヒトが超人のようなものにでもなれると信じ込み 目先の満足に溺れて自発的に社会安全性を追求しなくなることの方が楽かもしれません
それは怠惰でしかありません
Ende;