書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

注意喚起

2020年06月15日 16時31分20秒 | 日記

アマゾンだと称する「アカウントの修正完了しました。」というメールが来たのだが

アカウントを変更した覚えがないので不審に思って自力でアマゾンにログインしてパスワードを変更したんだけど

来たメールが違う

おいらが自力で変更した場合に来たメールではリンクなんかなかったのだ

発信元は「amazonses.com」で

メールの題名の頭文字も大文字だった

 

で 身に覚えのないメールの方は発信元が出ないし

リンクもついている

単に第三者が勝手にパスワード変更の手続きをしようとすると来るメールだからなのか

それともフィッシングなのか

ようわからん

ようわからんのでこういうメールが来てもリンクは押さない方が良いと思う

 

以前にも楽天と称する発信元の怪しいメールが来たことがあった

何にせよ メール内のリンクは押さない方が良い

 

 ◇追記:「修正が完了した」というメールでありながら

「パスワードの再設定へ進む」ボタンをクリックするって 論理整合性がない

これ 嘘だわ

メールのヘッダーを開いてみた

怪しいメールのアドレスは

<account.update@amazon.co.jp>

で 自力でログインして帰ってきたメールのアドレスは

<account-update@amazon.co.jp>

だった

一文字違うのわかるかな

 

一回メールヘッダー全部載せてみたんだが

よく考えたら自分のメアドまでさらしてたわ

コピペされてなきゃ良いけど

まあ 詐欺師には既にばれているから怪しいメールもくるんだけどな


でもメアドの後半「@amazon.co.jp」の部分はアマゾン社内じゃないと取れないメアドなんじゃないのかしら

どゆこと?

何か普通の1バイト文字とは違う文字が使われているとか?

本当に社内に詐欺師が紛れ込んでいるとか?

アマゾンがハッキングされているとか?

あ そうだ 怪しいメールのリンク先のURLをコピペしてみようかしら

https://amazon.co.jp-adminlogin.dskfjk9yuh980s.info/

ううむ アマゾンだな

アマゾンだぞ

何なんだこれ


ああそうか アマゾンのドメインは

「https://www.amazon.co.jp/」

であって「co.jp」の後が「/」で一回終わってないとおかしいんだ

なるへそねー

なるなるへそへそねー

 

Ende;

 

 

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論外

2020年06月15日 16時14分32秒 | 意識論関連

嘘は目先の生存価において有利に働きます

生存を目的だと勘違いしていれば 嘘は正当化されてしまうのです

生存というものが自然界における生物の「結果」以上の意味がないことは既に何度も述べました

 

ヒト個人が生きる理由というのは 先天的に予め神などの誰かに用意されているわけではありません

倫理や人間性も然りです

神がいなければ倫理がなくなるわけではなく 神がいてもいなくても社会安全性を求めるのはヒトであって 倫理や人間性というものはヒトが求めるものであり 神の有無とは関係がありません

 

ヒト個人が生きる理由とは 生きるに値する社会であればこその自己存続であって 生きるに値しないような社会であるならば死ぬことも自由なのです

そもそもヒトは誰一人として自らの意思で生まれてきたわけではありませんし

「ヒトが他人を殺してはいけない理由」はありませんが 同時に「ヒトが他人を殺すような社会で生き続ける理由」もまたないのです

自己が他者に危害を加えるような社会であれば それは同時に他者から自己に対して危害を加えられても文句の言いようがありません

社会とは それぞれの「自己」の集合であって 自分だけが自分なわけではなく それぞれの自己を尊重し合わなければ 自分だけを尊重してもらう権利もないのです

個人的な好き嫌いを尊重するとは言うものの だからといって個人的に嫌いな相手を差別排除したり暴力を振るって良い理由には全くなりません

ヒトそれぞれ好きな相手は違いますが 個人的に誰が好きなのかは自由であり 他人がどう思うかも関係がありません

にも関わらず 「嫌いな相手」となった途端にイジメや差別排除を統率協調的に行う習性がヒトにはあります

社会的に害をなす相手を抑圧する場合もあるでしょうが 実際のイジメや差別排除というのは実害が立証不可能な個人的嫌悪で行われるものばかりです

たとえ社会的に有害な相手を抑圧するとしても 刑罰などの威力で抑圧したからといって解決するわけでもありません

 

社会安全性を求めることも 主観ではあります

隣人が誰かに殺され続けるような危険な社会の中で生き続ける必要性がありません

別に強制的に何が何でも「生き続けなければならない理由」がどこかに存在するわけではないのです

人間性として生きるに値する社会は 差別がなく平和で持続可能性がある社会です

差別と不公平と暴力と略奪が横行するような 無責任な奴しかいない社会を望んでいれば人間性に重大な問題があります

ところが ヒトはすぐに諦め どのような社会が理想なのかも認識しようとせずに現状の社会を受け入れ 何も改善しようとはしなくなります

「諦め」てしまうとは要するに絶望することであり 絶望して根拠もなく「ヒトとはそういうものである」などと勝手に決めつけてしまえば「悟り」か何かと錯覚し 簡単に理想の追求を放棄してしまう習性が ヒトにはあるのです

根拠のない勝手な決めつけを多数で共有してしまえば もはや何も考えなくても良くなるので 気分的に楽になれます

その気分的な楽というのは怠慢です

「イジメはなくならない」という決めつけを多数で鵜呑みにして何も対策をしなくなれば予言が達成されてしまうのと同様 あらゆる根拠のない勝手な決めつけによってヒトは理想を見失い 「どうせ何をしてもダメだ」という虚無主義を気取っていれば気分的には楽なのです

虚無主義とは 理想を放棄することを正当化する精神の怠慢に過ぎません

理想を実現することは簡単ではありませんから 簡単な方に流され 逃避しているのが虚無主義であって 虚無主義者は偉そうに何かを悟ったかのようにふんぞり返ってますけど 実際には何も「悟って」などおらず 単に人間性としての理想を「諦め」ただけの「愚か者の遠吠え」や「精神薄弱児の戯言」でしかないのです

 

「世界中の人が幸福にならなければ 自己の幸福もあり得ない」と宮沢賢治は言いました

それは途方もない理想ではありますが 理想があるからこその人間性であって 人間性とは「自己の生存価」が基準ではなく 「自己が存続するに値する社会の理想を追求する」ことにおいて自己の存在理由として成立するのです

理想を放棄するのであれば 別に生き続ける理由も必要性もないのです

他人からの評価承認を求めることというのは 利己的利益を期待しての欲望であり 要するに目先の欲望の大きさだけが基準となった行動でしかありません

大量虐殺を行った犯罪者が「歴史に名を残す」だとか言っていることがありますが これも結局は他人からの歪んだ評価承認でしかありません

他人からの評価承認を求める限り 自律的な責任判断選択は出来ず 多数や権威が間違っていても同調したり迎合する以外の選択肢はありません

スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験 通称「アイヒマン実験」を読んだ感想で「それでも権威に服従しない社会は崩壊する」などと言い出したバカもいましたが これも根拠のない勝手な決めつけであり 主観的に「権威に無為に服従しておいた方が気分的に安心」であることを あたかも論理客観的根拠だと錯覚しているに過ぎない屁理屈なのです

 

ヒトという種の生物は 理想の追求を放棄して目先の主観的な「楽」に囚われ 論理客観的な根拠も伴わぬ嘘を鵜呑みにして何も考えなくなる習性があるのです

何も考えない奴のことをバカといいます

ヒトはバカでいた方が楽なので 精神の怠慢を正当化する屁理屈ばかりを信じ込もうとし 多数や権威に迎合同調して自律的な社会的責任判断を一切しなくなるのです

「信じたい」かどうかは論理客観的検証ではなく それは単なる主観的観念でしかありません

他人にばかり人間性や倫理を求めながら 自分は主観的に「信じたい」ことだけを鵜呑みにするというのは 義務を放棄して権利ばかりを主張する傲慢な態度です

社会安全性というものは 社会を形成するあらゆる個人に自律的判断責任があるものであって 「誰かに丸投げして文句だけ言ってりゃどうにかなる」ようなものではなく

自分の安全性を担保してもらいたいのであれば 他人の安全性についても配慮するのは当然のことであり 根拠のない嘘を鵜呑みにして主観的に「信じたい」話だけを盲目的に鵜呑みにしているのは社会的責任の放棄なのです

 

社会安全性を追求することも 結局は自己の幸福の追求から導き出される主観であることに違いはありませんが より自己客観性や人間としての社会性が伴う観点であり 単純に「主観である」というだけで「何でも同じだ」と言い張るのは誤った判断です

科学的理論であっても所詮はヒトの感覚器からの入力(主観)に基づいたものであることに違いはありませんが より客観的証拠に基づいた理論ほど真理に近いと判断するのが科学というものです

 

倫理や人間性を語る上においては 最終的には主観も含めた判断も必要ですが 単なる個人的な好き嫌いなのか それともより客観的根拠を伴った判断なのかを区別しなければ人間性も倫理もスッタクレもなくなってしまいます

「どうせ全部主観じゃねぇか」などという雑な理屈を鵜呑みにするのは社会的に無責任であり 人間性や倫理を欠いた判断でもあります

 

理性で全てを知ることは出来ません そもそも有限の脳しか持たぬヒトが世界の全てを知ることなど構造原理的に不可能であり それが主観的に不安だからといって理性以外の何か謎の「叡智」だの「純粋統覚」だの「悟性」だのを持ち出せばどうにかなるというようなものではないのです

エマヌエル:カントの純粋理性批判というのは カントの主観的妄想に基づいたファンタジーに過ぎず 到底論理的根拠を伴った哲学ではありません

「わからないことは わからない」と保留するのが論理客観的な考え方であって 理性でわからないなら理性以外の謎の能力で「全部わかった」と錯覚することはファンタジー以外の何ものでもないのです

「理性を超越した謎の能力を立証する理論」などというのは自己矛盾も甚だしく 全く理論として意味を為さないことくらい いちいち説明せんでもわかるやろと

私は「思う」んですけどね

わかんないんすかね

 

「考えること」は哲学ですが

考えたかのような錯覚に陥って満足し 錯覚を錯覚だと認識出来ずに間違った観念を鵜呑みにしていることは哲学ではありません

錯覚に基づいた話を鵜呑みにしている時点で 何も「考えて」いないのであって

何も「考えて」いないというのは「バカになっている」だけです

大衆の多くはニーチェ的なものを読んで満足し 哲学だと勝手に錯覚していますが ニーチェは論理的に物事を考えることを放棄するために都合の良い勝手な決めつけの羅列でしかありません

だから大衆人気がある

でもキェルケゴールやサルトルは大衆人気がない

それは身勝手な決めつけによる思考停止にとって都合の良い満足感が得られないからです

ヒトは根拠のない決めつけを鵜呑みにして何も考えないように陥っていた方が楽な習性があります

それはすなはち先天的にヒトはバカになるように出来ているのであって それを避けるために科学や哲学が必要となるのです

何も考えないバカだと暴走破綻に陥り易いので そうならないように「より正しい認識」を得るために科学や哲学というものが社会的に必要なのです

何が哲学なのかすら区別が出来ないのでは もはやお話にならないのです

 

Ende;

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