「因果法則も習慣的印象に過ぎない」(デイビッド:ヒューム)
天動説は習慣的印象に親和性があるため 科学的根拠による立証がなければ誰もが疑わなかった話である
自分が住んでいる地面が一日に4万キロも回転していて 公転軌道を1年間で一周しているとは感覚的には「思わない」のである
あくまで科学的な物理法則に基づいた知識として理解しているだけであって 実感としては赤道付近が時速1600キロで回転しているという感覚は誰にもないからだ
科学というものは客観的な論理検証に基づいたものを指すのであって 単なる習慣的印象だけで科学的証明になるわけではない
軽い物体と重い物体なら 重い物体の方が速く落下するという「感覚」も 普段の生活で軽い紙や鳥の羽根の落下速度が遅いことを実感しているからであり 比重の同じ金属の玉なら大きい方が速く落下するのではないかという「感覚」をヒトは持ちがちなのである
こうした「感覚と因果法則に基づいた客観的事実とのズレ」が錯覚であり 錯覚というものは非常に多岐にわたり主観の中に存在しているのである
何が錯覚で 何が錯覚ではないのかを区別するのが科学や哲学である
間違った認識を排除すれば それは真理(本当のこと)に近づくことができるからである
「刑法罰で解決だ」とか「軍拡競争こそが安全保障だ」とか「利己的利益さえ追求しておけば社会全体が潤うはずだ」とか「ヒトは先天的に人間性や倫理が組み込まれているはずだ」などといった「感覚」が促す合理的根拠のない話であっても 大衆の多くは主観的に満足すれば簡単に鵜呑みにし 誰も問題だとは「思わない」
ヒトの多くは目先の生活に意識を奪われ 社会全体の安全性がなければ自己の生活の安全性も脅かされる可能性にまでは考えが及ばない
知り合い同士で居酒屋に行って エタノールで脳を麻痺させて話を丸めて安心することの方が 新型コロナウイルスの感染拡大防止よりも優先してしまうのは
「社会の安全性というのは政府や自治体がどうにかしてくれるものだ」という無責任な丸投げに慣れてしまっているからである
自発的に物事を考え 検証しなくなるのは 本質的な自発性や主体性がないからであり 自発性や主体性を失うのは「誰かの言いなりになっておけば全てうまくゆくものだ」という勝手な観念に溺れているからである
権威に服従しておけば自分の判断責任が放棄できるという「感覚」には合理的根拠が全くないのだが 責任放棄が出来るという精神的堕落怠慢が得られるために環境に流される形で権威を疑うことをしなくなるのである
権威というものは たとえ「科学的権威」と言っても権威性自体を科学的に立証することは出来ない
過去に何らかの業績があったとしても それが「これからも死ぬまで常に正しい科学的判断しかしない」ことの証明には一切ならないのである
かのアルベルト:アインシュタインであってもシュレーディンガーの理論を受け入れることができなかった時期があるという
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合理性のない最終解決という「答え」を信じ込むことによって ヒトは無意味な殺戮もできるようになる
論理客観性が失われる原因は 自発性や自主性が欠如しているからであり これが同時に「自律的な社会的責任判断選択」の欠如も引き起こすのである
典型的に社会的無責任な状態として糞DQNを例にとれば 彼らはエタノールや違法薬物で脳を麻痺させ酔っ払って糞DQN同士で糞みたいな観念を共有してその場限りに満足しているが 彼らは本質的には満足していないので他人への配慮というものが著しく欠如しているのである
本当に主体的に純粋に好きなこと 熱中できることがあれば 他人への配慮も出来るし 自律的な社会的責任判断選択もできるようになるのである
自分が好きなことを続けて生き続けるためには社会安全性や持続可能性も必要不可欠であることが前提だからである
糞DQNには自己客観性がない だから結果的に迷惑行為しかしなくなるのである
野生動物が人間社会にとって迷惑なのは 野生動物達というのは目先の欲望のままに行動し 他者への迷惑など一切配慮しないからである
もし一部の生物学者達が言うようにチンパンジーやゴリラに人間性があるというのであれば 秋葉原にでも放ってみたらどうであろうか 意外と何も起きないかもしれないし 大変な事態に陥るかも知れない
ゴリラやチンパンジーや糞DQNというのは何をやらかすか全く予測がつかない危険性がある
彼らは目先の感情(主観)だけで行動が決定しているので 社会全体の安全性だの持続可能性だのには全く興味を持たないからである
ヒトは 子供に限らず最終的な「答え」を求めてしまう習性があり この欲望が暴走することによって他人に多大な迷惑をかけるようにもなるのである
通り魔などの無差別殺人犯も「これさえ実行しておけば解決だ」という「最終解決(答え)」の過剰な追求の結果であり 理性が働かなくなっているのが原因である
これはナチスやポルポトも同じである
ヒトは理性を無視した観念によって暴走するのであって 指導者がバカなら命令に唯々諾々と従う兵隊達によって暴走はより加速度を増し 異常な殺戮へも暴走し破綻してしまうのである
彼らは暴走している間は主観的には安心しており 疑うことを全くしない だからこそ暴走できるのである
こうした暴走性に歯止めをかけるのが理性であり 理性が働くことによって自己の感情に流されることなく自律的に社会責任判断選択もできるようになるのである
理性が働くのは科学者に限ったことではなく 芸術家でも働くし 街の普通のパン屋さんやコンビニの店員さんでも働くものでもある
論理客観性というものは科学者の専売特許ではなく ヒトという種の生物が「人間」として行動選択をする上で必要不可欠なものなのである
むしろ現状の生物学者の大半は目先の業績を焦り過ぎるあまりに「ヒトには先天的に人間性が組み込まれている」などという実証不能の観念を科学だと言い張り
哲学者に至っては「恐怖心は理性によって働く」などという訳のわからぬ言い訳言い逃れ取り繕いはぐらかしごまかしに邁進するばかりである
頭がおかしい
悟性だの純粋統覚だのといった屁理屈をでっちあげて理性を超越した訳のわからぬ叡智などというファンタジーを哲学だと信じているというのは子供じみた「答え」の追求に他ならない
彼らは決して自分たちの間違いを認めることはなく 自分たちの既得権威性を保守するために嘘に嘘を塗り重ねてごまかし続けようとするのである
これはもはや そこら辺で酔っ払ってうろついている糞DQNと同じか それ以上の無責任さを発揮しているのである
それに気づかない大多数の大衆も 文科系マスコミ関係者も同罪である
バカは問題を解決できない
問題を解決できないからバカなのである
バカにつける薬はないが
治療法がないわけではない
簡単ではないが 不可能証明はない
体内のウイルスを直接攻撃できる薬はなくても 治療法はあるのと同じである
フリードリヒ:ニーチェは「できそうにないことは やらない方が良い」と言ったが 絶望して虚無主義に陥ることは簡単であり 原田まりるや多くの哲学者達にとっては「かっこいい」のであろうが それは単なる精神の怠慢でしかない
その精神の怠慢こそがバカの素である
Ende;