書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

資質

2020年06月25日 15時40分17秒 | 意識論関連

「叡智界」などというファンタジーを「近代哲学の最高峰」などと扱い 「世界は存在しない」などと言い出すマルクス:ガブリエルを「新時代の哲学」などと形容している現在の哲学界というのは 頭のおかしい文科系妄想観念者の集まりでしかない

哲学というのは倫理や人間性を扱う分野であり 倫理において社会安全性を優先するのは当たり前の話である

安全性というものを確率するためには客観的な論理的根拠は不可欠であり 論理的根拠のないファンタジーを盲目的に信用しておいて倫理も人間性もスッタクレもあったものではない

カントなどが主張する「叡智」なるものは カント自身が「絶対に認識不可能である」と述べており しかもそれは理性を超越した悟性などというものによって働くものであると定義しているため論理的根拠の説明は一切しなくて良いという 極めて御都合的な思考停止を促す妄想観念である

伊集院光は「叡智界がないと罪人に罪を問えない」などと述べたが 罪を問うために叡智界などというファンタジーをでっち上げていたのでは刑法懲罰の不毛性や無効性は一切「考え」なくても良いことになるのである

 

先天的本能というのは機械手続き的にシーケンシャルである

それなら先天的本能もまた「理性」だと言うことは可能である

しかし遺伝的進化という「結果的に死ななかった」個体種の行動バイアスというのは 機械的な論理回路的ではあっても これはヒト個人の客観的論理検証性とは全く別のものである

先天的本能というのは機械手続き的に主観的感覚を作り出すものであって 客観性なくして論理検証(考え)にはならない

プロトコル(社交辞令)のような「形式」というのは パソコンのような機械における手続きであって パソコンには客観性などないため 内容が詐欺であろうと何だろうと形式さえ整っていればパスしてしまう

ヒトは形式に異常執着する習性があり 既存の形式に則って学術論文を提出して権威に査読をしてもらわないと信用に値しないという手続き形式さえ通過すれば エマヌエル:カントのファンタジーでも哲学扱いされ続けてしまうことになる

生物学における「生物の目的は生存」という観念も同様である

本論は現状の哲学権威や生物学権威への批判であり 「権威による査読」という形式に則っていたのでは話にならない

「ヒトには人間性があるはずだと信じたい」などというのは 論理客観的根拠を伴わない純粋な主観に過ぎず 「信じたい」という個人的好き嫌いを主張したところで具体的に「どうやったら人間性が発揮出来得るのか」についての構造説明や対策が立つわけではなく 「客観的根拠のないお祈り」程度の意味しかないのである

「信じたい」ことだけを信じていれば 詐欺でも嘘でも間違いでも錯覚でも何でも信用してしまいかねない

信じるに値する論理客観的根拠なしに主観的に気分が良くなる話ばかりを盲目的に信用してしまうからこそ 間違った形式手続きにばかり異常執着し より有効な対策への転換性を喪失することになるのである

「脱構築可能性」って誰が言ったんだっけ? ジャック:デリダか何かが言ってたような気がするけど ヒトは形式への執着によって構築性というものが発揮されてしまうのは 形式に則っておけば主観的に安心満足だからであって その形式が本当に社会安全性にとって最適なのかどうかには「考え」が働かなくなることで脱構築可能性を喪失する原因となるのである

養老孟司は「ヒトから形式は切り離せない」と述べたが 当然論理客観的根拠があるわけではなく 単なる養老の勝手な決めつけ預言でしかない それを多くのヒトは鵜呑みにしたのである 少しは頭の悪さを自覚すべきであろう

あらゆる「人災」の根源には主観による思考停止が働いているのであって 形式への異常執着も それこそが最も人間性において有効であるという一種の錯覚に起因するものである

 

デイビッド:ヒュームによる「どうせ全部主観じゃねぇか」などという主張は 主観の中に論理客観的根拠の認識可能性が存在することを論理的に反証できているわけではない

にも関わらず ヒトの多くが「どうせ全部主観だ」などと言う話を鵜呑みにするのは 話が短絡安易で多くのヒトに「わかりやすい」からである

「わかりやすい」とは言っても 別に論理客観的根拠に基づいて「理解」しているわけではなく 単に気分的に納得し 安心満足し 主観的に「解釈」しているだけであって その主観によってこそ論理客観的検証性(論理的な考え)が失われてしまうのである

他人を騙そうとする者にとってカモを見つけるのは簡単である たとえノーベル賞を受賞した野依良治であってもカントの哲学がファンタジーではないかのように錯覚させて鵜呑みにさせることは可能なのである

権威というのは所詮「ヒトが信じておきたい相手」に過ぎず むしろヒトの盲目性を助長する「形式」にほかならない

宗教や裁判所が異常に荘厳な建築物で装い飾るのは 本当は論理客観的な根拠が一切ない「慣習」でしかないからである

「お祈り」だの「判決」さえ実行しておけば自動的に神様だの判事が常に正しい結論を下してくくれるものだと勘違いさせるためには 外見上の権威性をでっち上げなければないため 法衣のような形式で装わなくてはならないのである

主観的に「疑いたくない」ものを信用させるためには ヒトの盲目性を利用して「考え」ないようにさせておく必要性がある

気分的に安心満足感さえ与えておけば ヒトの多くは宗教や刑法罰を唯一絶対的な有効なものだという錯覚させることが可能であり この錯覚によってヒトは最適解を見失い意味のない因習に取り憑かれ 本来なら回避可能な危険性も平気で放置するようになるのである

そして それが社会的に無責任であるという自覚も一切持たない

宗教というものが本当は社会安全性にとって有効ではないことは 誰しもが知っているのである

だからこそ新型コロナウイルスが蔓延した途端に宗教儀式は後回しになったのである

本当に宗教が社会安全性に有効だと信じて疑わないのであれば 宗教儀式や礼拝を後回しにせず むしろ積極的に儀式や礼拝に邁進してなければおかしい

そもそもヒトにとって都合の良い神が存在するのであれば パレスチナの赤ん坊が丸焦げにされている現状に天罰が全く下らないのはおかしいのである

宗教というのは主観的に安心満足するためにやっているだけであって 客観的には意味がないことは本当は誰もが「知って」いるのである

宗教というのは芸術やスポーツと同じで 主観的に好きだからやっているだけであって それが人間性や倫理や論理客観的根拠に基づく真理に供するものではなないのである

科学や哲学は宗教を禁じたりはしない

何かを強制的に頭ごなしに禁止したりするのはイデオロギーの仕事であって 科学や哲学は「論理客観的根拠がない」ことを論証するだけである

 

無謀な独裁体制が維持温存されるのは 独裁者だけが異常なのではなく 異常な独裁者の命令に服従する多数の兵隊によって独裁体制が維持されるからである

体制に対する批判を一切せず 盲目的に唯々諾々と服従してくれる忠誠忠実な下僕の群れによって独裁体制というのは維持温存されるのである

これは太平洋戦争に突入する時の日本や 今の北朝鮮やオウム真理教などのオカルト集団でも同じ構造である

暴走している集団は その内部で安心して服従し 同調し 統率的に暴走し続けることが出来るのである

これがヒトという種の生物における生物学的な「社会性」の正体である

この生物学上の「社会性」というのは 統率的な協調行動は促しても 人間性や倫理においては害しか及ぼさない

軍隊や警察という組織も所詮道具としてしか意味はなく 香港警察のように独裁政府の体制に従順なだけなら市民に平気で発砲するのである

一面的な有効性だけを抽出してきて あたかも普遍的有効性の論証であるかのように言い張るのは 論理客観的検証とは言えないのである

「ヒトの多くは戦争をしていない」という事実を述べたところで 具体的に戦争の原因や再発防止の対策になるわけではない

どんなにたくさんの白いスワンを集めてきても この世のスワンの全てが白いことの論理科学的証明にはならない(カール:ライムンド:ポパー)からである

戦争という大きな事象の影には無数のイジメや差別が隠れているのであって これを撲滅しない限りは戦争の根源的防止にはつながらないのである

ヒトという種の生物は 先天的にイジメや差別をする習性があるという欠陥の方を認識し 対策をしなければならないのに 「ヒトには人間性があるはずだ」などという大衆迎合で満足させて人気取りに勤(いそ)しむのは 京大学長としての資質に欠けている

それは大学の仕事ではない

 

Ende;

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