心とは何かを論ずるためには
その定義を明確にしておく必要がある
人それぞれに定義が違っていたのでは同じ理屈を聞いても理解が異なってしまうからだ
ゴリラに心はあるだろうか
感情はあるだろう
感情や気分を作り出す大脳辺縁系自体はヒトと違いがほとんどないからだ
大脳辺縁系はゴリラのような高度な知能を持った動物以外でも ネズミでもクマでもネコでもさしたる違いはないという
ヒトが有意に異なるのは 大脳の容積だけで 辺縁系自体は他の動物とは違いがない
ヒトは基本的に野生動物と同じ脳の構造を持っているのである
ゴリラはヒトと同様に生物学的な「社会性」を持っている
この生物学的な「社会性」とは 先天的な本能として条件反射的に統率服従による協調行動や役割分担を促す「習性」である
振り込め詐欺は統率的な協調行動によって 高度な役割分担を行い 巧みに詐欺技術を高度化させることができる
イヌ科の動物の中には集団統率的協調行動によって より高度な狩りを行うことができる種もいる
軍隊というのは ヒトの先天的な統率協調性を利用することで兵隊が上官の命令に絶対服従するよう「学習」させることで 戦争のようなクソしょうもない暴力破壊行為にも便利に利用することが可能なのである
この場合における「学習」というのは AIの機械学習のような「刷り込み学習」であって 頭が良くなるわけではなく むしろ自発的自律的には何も考えずに条件反射的に命令に服従するよう「学習」しているのであって これはいわば「バカになるため」の学習である
兵隊というのは訓練による「学習」によって 命令が間違っているかどうかなど一切自発的には検証することなく 唯々諾々と従うようになる
なぜ自発的自律的に何も考えなくなるのかと言えば それは先天的に誰かの命令に忠誠忠実に従うことが快楽となる行動バイアスが組み込まれているためである
誰かに従うことで快楽を感じ それによって統率的な協調行動が促される「仕組み」が先天的にあるため
ヒトに限らず生物学的な「社会性」を持った生物は統率的協調性を発揮することができるのである
こうした生物学的な「社会性」というものは 大脳も何もない極めて単純な脳しか持たないハチやシロアリなどの昆虫でも発揮されるものであって 進化の過程で偶発的に獲得されることが可能なものである
そもそも遺伝的進化に基づいた行動習性というものはあくまで結果的に死なずに生存していた個体種において残った習性であり 生存にとって有利で死なないような行動習性を持った個体種が全て死滅したという結果的必然性でしかない
そこには別に「目的」がないのである
あらゆる行動習性には「目的」がないので 統率的協調行動バイアスである生物学的な「社会性」であっても イジメや詐欺や戦争や暴動でも発揮されるものでもある
イジメを行う際にも統率的協調性が発揮され 極めて高度で悪質なイジメへとエスカレートする傾向がある
何せ先天的に統率協調行動を行うことが快楽として組み込まれているため エスカレートすることはあっても抑制はほとんど効かない
アブグレイブ収容所における虐待も同じである
スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験 通称「アイヒマン実験」においても ヒトは命令された通りに他人に危害を加え
アメリカの大学で行われた「監獄実験」という心理学実験では 権威による命令がなくても 被験者は実験だと認識していながらも虐待が生じたのである
これらの残虐行為というのは ヒトの先天的な社会形成習性によって促された 本能の暴走に他ならない
虐待などの暴力は何の合理性にも利益にもならない
統合的視点から考えれば 虐待や差別のある社会では生きてゆくのに価値がないことを認識し それらがない社会を本当は誰もが望んでいるのである
それを望まないバカがいるのは 何も「考え」ていないからである
自分が体力的に有利な時に 体力的に劣っている相手から略奪暴力をしていれば 自分の体力が劣った時には略奪や暴力を受けることになることがわかっていれば どのような社会であるべきかを理解認識し それに則った行動を選択することが可能となる
「社会環境が悪いから無責任な行動を採る」というのでは その環境を誰が整える義務があると言えるのであろうか
社会というのは個人の集合であり 社会環境というのは個人の行動選択によって作られるものである
従って 個人が自律的に社会的責任を負わなければ社会環境が良くなることはない
日本ではあまり見られないのだが 海外ではデモに乗じた暴動や略奪が良く見られる
デモが起きている「環境」では ヒトの何割かが無責任に暴動や略奪を引き起こす性質が普遍的に見られるのである
通信の秘密が保証されている国では 電話を使った詐欺の温床になる これも「環境」に依存した結果である
騙し合いや奪い合いが横行している社会など 本当は誰も望んではいないのだが 目先の利益に意識を奪われ統合的な理想を「考えた」ことのないバカは平気で他人を騙すことができるようになるのである
若者達がなぜ詐欺に加担してしまうのか それは自分達が大人から騙されて育ったことへの報復でもある
奨学金と称して数百万もの借金をさせられ 「叡智界」などという糞の役にも立たない嘘を「哲学」だと教え込まれ 格差や貧困に苦しめられていても誰も助けてくれない非情な社会環境で育てば 「他人を騙してでも金を奪わなければ損だ」という発想に陥っても何の不思議でもない
しかも 犯罪者には罰を与えて「解決」にされ 原因も再発防止策も講じられない無責任な社会制度が放置されているのである
子供は大人の鏡である 大人が無責任な社会に何の疑問も持たなければ 子供も何の疑問も持たなくなり 環境に応じた条件反射的行動にしか陥ることはない
何が嘘で 何が本当のことなのかを区別するのは感情ではなく客観的論理検証性である
客観的論理検証性(理性)という人間としての意識なくして人間としての「心」も機能することはない
ゴリラ社会では ボスの威厳に服従する形でしか統率を得ることが出来ない
ボスが「ハッタリ」をかまして威圧することによってのみ 集団内部での紛争を回避できるのである
それは ヤクザがヤクザのボスの威圧(ハッタリ)に頼って統率するのと同じ構造であり 恐怖心を用いた封建的統率である
ゴリラは非常に凶暴な野生生物である
だが なだめすかしてゴリラに恐怖心を与えないよう近づくことは可能である
それは ヤクザと話を丸めて取材するのと同じようなものであって どんなにゴリラやヤクザと仲良くなれても ゴリラやヤクザの危険性の反証になるわけではない
そもそもゴリラは生息数が限られており 決して生物的に環境適応能力が高いわけでもなく 何ら生物として優れていることの論証にはならない
どんなに山極寿一が主観的にゴリラを正当化しても ゴリラの人間性や生物的有意性の論証には全くならない
ゴリラ社会の常識というのは ヤクザ社会の常識同様に封建的で差別に満ちた下剋上の社会であり ボスが何らかの形でいなくなった途端に内部で暴力的な権力争いが生じるのである
これはヤクザと同じものである
昭和天皇が太平洋戦争を回避出来なかったのも 陸軍の一部将校による下剋上が大きな要因だったと昭和天皇は懐述し戦後に激しく悔いている
戦争に邁進している間だけは かりそめの統率的協調性を発揮していたからこそ 破綻するまで暴走したのである
戦争中の日本は暴走に向かって体制は安定していたのである
北朝鮮における独裁も 軍部の強行な姿勢にとって都合の良い人選によって より暴力的な指導者がまつりあげられている結果であり 軍隊というのはヤクザ同様 より威圧的な相手に服従することで気分的な安心を得ることを安全保障か何かと何違いしているからである
北朝鮮も金正恩の統率下では安定した体制が維持できるのも 自分達が暴走破綻に向かっている可能性を客観的に検証出来ないからである
暴走に歯止めがかからないのは 気分的に安心だからであり 先天的に促される感情が原因である
イジメをやっている時 やっている者の脳は安心に満ちている
仲間と協調的に同じ相手を攻撃していれば気分的に安心できるからである
その行為全体客観的に見て 自発的に検証するという 人間としての意識が働かないから暴力行為が正当化されてしまうのである
人間としての「心」とは 環境に依存した感情によって促される主観的な行動バイアスという無意識によって発揮されるものではなく
あくまで徹底した客観的な論理検証(人間としての意識)によってのみ発揮されるものを指すのである
梅沢富美男的に「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らしていることに同調して炎上しているのは イヌが統率協調的に狩りをしているのと同じようなものである
それは主観的には安心なのであろうが 社会安全性に対しては害しか及ぼさない
本当に深く熟慮すれば 東池袋プリウス暴走事故遺族の松永莉子パパのように「再発防止を優先して欲しい」と願うようになるのである
その どちらが本当に「人間としての心」だと言えるであろうか
「死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らすことよりも 「私のように苦しむ人が もう誰も出てこない社会を望む」ことの方が「人間としての心」であろうことは 何ら疑う余地はない
目先の気分 主観的感情を満足させることだけを「心」だと 「思って」いるのは主観である
ヒトは基本的に動物であるため 客観的論理検よりも 目先の主観的感情の強度程度が促す行動バイアスの方に流されがちである
哲学とは 本来主観的感情が促す動物的バイアスに惑わされずに 客観的に真実を見極めるためのものである
真理というのは安全性にとって最も大事なものであり 社会というのは安全性が最も重要だからこそ ただの文芸文学と哲学とを明確に区別する必要性がある
客観的根拠のない妖怪悪霊を信じ込んでいたのでは疫病対策には全くならない
「叡智界」などというお伽話で満足することは文学芸術の分野の領域であって それでどんなに主観的に満足しても安全性にとっては何の役にも立ちはしないばかりか そんな話を「哲学」だと錯覚していれば それは合法的な詐欺も同然である
「哲学だ」と言い張れば 何を言っても許されると勘違いしているバカが多すぎる
客観的論理検証を伴わなければ あらゆる「理論」は意味を為さず 全ては目先の感情の多数決だけで暴走を引き起こすだけである
現状の哲学界や生物学界が安定した体制を維持できているのは その内部が封建的で差別的で「開かれて」いないからである
だから論理反証も無視される
4億5千万円も横領したアニメ会社の社長が「納税したから良いだろ」などという開き直りで済んでいるのは 組織内部が封建的で開かれていないからである
特定の誰かにとって利益になる行動を集団組織的に行っていれば 特定個人だけが得をするのは必然的結果であり 格差が起きる原因というのもヒトの先天的な「社会性(統率的協調行動バイアス)」が働いているからである
先天的行動バイアスという無意識が 特定の条件下において有益性が立証されたとしても 先天的行動バイアスの全てが常にあらゆる条件下で有益な結果をもたらすことの論理的証明にはならない
自然に起こった進化というものは 環境などによっては都合よく利用することも可能だが 環境などが異なれば暴走破綻の原因になる危険性をはらんでいるのである
生物学者というのは自然を頭ごなしに賛美したがるが 自然というのは時に危険で過酷で凶暴なものでもある
主観的に「自然は美しい」と「思った」からといって 自然に起きたことの全てを事後正当化するための「こじつけ」をしていたのでは科学を逸脱している
主観は人それぞれであって 小学生のノートに昆虫の写真が掲載されていることに嫌悪する親もいるくらいである まあ 写真が若干ギラついていて硬調なのも原因かも知れないが
きれいなアゲハチョウでも嫌がる人はいるものである
山極寿一がゴリラを主観的に美しいと「思った」からといって 何でも正当化して良いことの理由には全くならない
客観的論理検証という「考え」が伴わないから科学を逸脱するのである
こんな基本的なこと わざわざ私が言わなきゃいけないことかね?
Ende;