罰というものを正当化し 罪を問うために「叡智界」などというファンタジーを信用するというのは 悪者に罰を与えることによる快楽を正当化するためであり あたかも「罰を与えている自己は実証不能の叡智が働いている素晴らしい存在だ」という身勝手な妄想に酔いしれることが目的である
では なぜヒトは600万人ものユダヤ人殺害計画を立案したり 相模原障害者施設に包丁を持って無抵抗な障害者を殺害したりするのであろうか 彼らにはなぜ「叡智」が働かないのかについての論理客観的根拠というものがカントの純粋理性批判では全く論じられていないのである
それとも東池袋プリウス暴走事故被害者遺族の松永莉子パパが「再発防止を優先して欲しい」と言うのは理性であって 理性よりも罰を優先して「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らして大衆人気を得ている梅沢富美男こそが「叡智」を発揮しているとでも言うのであろうか
虐待をされて育った人の多くは虐待を連鎖したり 他人の迷惑に配慮を欠いたりする傾向性というものは確実に統計的証拠として存在しており これは生育環境が悪いというハンデ(不公平)が大きく関わっているのであって これは社会全体で是正しなければならない問題である
しかし刑法懲罰制度にはこうした不公平のメカニズム構造を解明するための仕組みが全くなく 再犯率50%近くある懲役刑に何の疑いも持たなくなるための「カントの妄想」のために社会安全性が後回しになっていることに誰も気づかないというのは 社会的な大損害であり 無責任な傍観放置に他ならない
幼児期における生育環境というのは本人にはどうにもならないものであって それが大きな要因となって社会安全性を損なっているのであれば これは社会全体で是正しなければならない
虐待というのは四六時中親のご機嫌取りをし続けなければ殺されるかも知れないという恐怖に脅えて育つという環境であり 自己の主体性や自主的判断というものを著しく阻害してしまう最悪の生育環境であるが故に多くの犯罪を生み出す温床となってしまうのである
暴力を伴うような虐待でなくても 「勉強しろ」などと根拠もなしに頭ごなしに学力成績を求められて育つことも精神的虐待となり 子供の自主性や主体的判断能力を著しく阻害してしまうことによって 東大医学部に入れる程の学力成績がありながら地下鉄に毒ガスを撒き散らして「人類の救済だ」などと言い張るバカを生み出す原因ともなるのである
「一つの大きな事象の影には無数の小さな事象が隠れている」のであって 「学力=知能」という根拠のない大衆観念に基づいた学力至上主義が温存された結果 誰も「カントの妄想」に意味がないことに気づかないという集団痴呆に陥っているのである
カントの言う「叡智」妄想と ニーチェの「超人」幻想を結びつけてしまえば 「厳罰化さえしておけば自動的自然にヒトという種の生物に人間性が宿るように遺伝的進化を促すはずだ」というオカルト観念をでっち上げることも可能である
それは論理客観的根拠を伴わず 単に観念主観的満足感を得るためだけのオカルトであって もはや「地下鉄に毒ガスを」と述べているのと同じレベルの話でしかない
カントの「叡智」妄想を信じ込んでいれば 「自分には先天的に人間性が組み込まれていて常に正しい選択しかしない優秀な存在なんだわ」などと勝手に思い込んで満足することは簡単であろう
それこそがヒトの先天的欠陥に由来する無意識でシーケンシャルな「因果律(運命)」に則った行動選択であり バカに陥る根源的原因でもあり 現時点での選択可能性という本質的自由を喪失する原因でもある
ヒトは「信じたいことだけを信じようとする」習性があるが 「信じたい」かどうかは論理客観的根拠にはならない それはただの個人的好き嫌い(純粋主観)でしかないからだ
自己というものに先天的欠陥が存在していることを理解し認識することが「嫌」で 「信じたくない」からといって理解することを放棄して良い理由にはならない
その主観的な「嫌」こそが 精神の怠惰を招き ヒトから論理客観的根拠に基づいた真理(本当のこと)から遠ざけてしまうのである
真理(本当のこと)がわからなければ 社会安全性にとって最も重要なものとは何かもわからなくなってしまい 本来回避可能であるはずの危険性も放置されることになってしまうのである
多くのヒトがその危険性を認識できなければ 多くのヒト達は誰も問題だとすら「思わない」であろうが その「思い」もまた根拠のない主観であり 重大な責任であっても多数で分散すれば薄まるという「感覚」によって回避可能な危険性も放置されてしまうのである
ヒトという種の生物の先天的欠陥というものを認識理解しなければ ヒトはバカが治ることなく根拠のない因習を漫然と温存するだけである
それは未開の原住民が形式に囚われ意味のないおまじないで安心満足しているのと同じである
ヒトが形式にこだわるのは 形式という習慣的行動に主観的な安心満足を「感じる」からであって 論理客観的な根拠があるわけではない
プロトコル(社交辞令)というのは 「これをやったら失礼にあたるが あれさえやっときゃ失礼には該当しない」という「形式」に過ぎない
httpsとかftpなどといったネット上のプロトコルも形式であって 形式が整っていなければ理解出来ないのはコンピュータは純粋理性であって感情を伴わないからである
コンピュータは純粋理性だが それは理性しか存在していないからであって それならバカな哲学者なら「理性と感情のバランス問題」だと言い出すであろうが これもまた嘘である
ヒトには様々な感情が存在しているが その感情の強度程度だけで行動が決定してしまえば野生動物と同じであり 統合的に「考え」て何を優先すべきかを選択することによって人間性や倫理というものが発揮されるのであって これは安易な「バランス問題」ではなく 徹底した自己客観的論理検証性の問題なのである
それこそ大脳辺縁系を損傷してしまえば感情に左右されることなく「考える」ことは可能であろうが それは同時に何の問題意識も働かないことでもある
大脳辺縁系を損傷してしまえば 目の前で子供が列車に轢き殺されても何の感情もわかないかも知れない
それなら「何が問題で どう選択すべきなのか」も「わからない」であろう
様々な先天的行動バイアスによって促される感情の中から 自己客観性に基づいた統合的な選択可能性によってこそ人間性や倫理というものは発揮されるのである
「カント様の妄想を誰も疑わなかったから自分も信じ込んでいました」というのでは ただの「バカの言い逃れ」でしかない
ヒトは主観的に気分が良くなる話だけを信じ込もうとする習性があるため 気分が良くなって主観的に安心満足すると何も「考え」なくなるのである
詐欺に騙されるのも「感情を煽られる」からであって 恐怖や安心といった主観だけで行動が決定していれば「因果律」に従って動物的選択しかできなくなるのである
それはとてもシーケンシャルで 何の客観的保証もない選択である
Ende;