書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

不完全であることを受容する精神の余裕

2020年06月11日 16時26分26秒 | 意識論関連

「理性だけでは全てを知ることはできない」

そう「諦めた」ことによって論理検証を放棄したことを エマヌエル:カントは「悟り」だと勝手に勘違い錯覚して満足したのである

客観的な論理検証では世界の全てを知ることなど出来ない

客観的論証なんぞなくても 主観的に「悟った」ような気分になりさえすれば あたかも「世の中の全てを知ったかのような全知全能感覚に酔いしれることも可能である

理性や人智を超越した「叡智」などという根拠の全くない実証不能の観念を多くのヒトが求めるのは

ヒトの先天的欠陥でしかない

「全てがわかった」と言い張るのは宗教やイデオロギーやペテンの領域であって

哲学や科学の領域ではない

有限の脳しか持たないヒトが 世界の全てを理解することなど原理的に不可能であり 「全てがわからないと不安」なのは先天的本能習性が促す主観的気分の問題に過ぎない

それは先天的欠陥であり 先天的不条理でしかないのである

科学は 「わからないことは わからない」と保留する姿勢が必要である

わからないことを知りたいと思うからこそ客観的分析によって解明しようとするのが科学であって 根拠もなく勝手に「わかった」と錯覚するのは科学ではない

科学よりも宗教やイデオロギーの方が人気があるのは 「わからないことは わからない」と保留する姿勢では主観的満足感が得られないため 「全てがわかった」かのような錯覚を得られる話の方が気分的にスッキリし 破綻暴走にも邁進することができるからである

ヒトは自分では何も考えずに「これさえ信じておけば全てはうまくゆく」かのような話にばかり飛びつく習性があるのだ

 

ヒトの多くは自分の気分が良くなる話をする相手を主観的に好きになり その相手の言っていることを信じたいと思うようになる

逆に 頭の悪さを指摘されると落ち込んでみたり 或いは嫌いになって拒絶したり 主観的に絶望するだけで自らの頭の悪さの原因を理解したりせずに同じような過ちを何度も繰り返すばかりである

封建的統率によって順位序列を受け入れ 格差が生じても仕方がないと諦め 不平等を受容してしまうことによって平等は失われるのである

野生動物における本能由来の社会形成習性というものは 封建的な順位序列の決定によって統制が保たれるのであって 野生動物に平等という概念はない

それはヤクザやマフィア社会における威力による下剋上を伴う統制であって 到底人間性を伴った「社会性」とはかけ離れた動物的習性に過ぎない

軍隊というものは こうしたヒトの動物的な習性を経験的に応用した集団であって 戦争のような糞しょうもない事にでも便利に使うことが可能なのである

何せ一人一人の兵隊には自律的な判断選択が失われており 上官の命令以外何も自分では選択することがないので どんなに残虐な行為であろうとも 明らかに破綻するであろう行為であろうとも 誰も逆らうことなく服従するのである

軍隊ではマフィアのような下剋上はないが 上とみなした対象に対して忠誠忠実に服従することに対する観念的な「美しさ」を感じる習性があるために盲目的に服従することを「素直な人間性」などと勝手に錯覚することで盲目的に服従「したい」のである

宗教における服従性も同じ仕組みであり 盲目的に何かを信奉してさえおけば 多くのヒトは主観的な安心満足によって自律的に批判する精神を喪失するのである

これが科学や哲学において発揮され権威主義に陥ると どんなに論理的に間違ったことを権威が述べても 誰も何も言わず 誰にも批判精神の欠けたオカルト状態が放置され 組織腐敗が進行しても歯止めが効かなくなるのである

 

ヒトという種の生物は バカでいたほうが安心で満足できるという先天的欠陥を持っているのである

ヒトは神が作ったものではなく あくまで結果的にヒトになったに過ぎず 社会安全性や持続可能性を求める倫理や人間性というものは神が求めるものではなく ヒトが主体的に求めるべきものである

「神がいないなら 何をしても許される」だの「神の存在が否定されれば倫理は意味を為さなくなる」だのといった論説は 全て自律のないバカの戯言に過ぎない

ゾロアスター教における超人幻想で満足することでユダヤ人虐殺も安心して出来るようになるのは 「神は死んだ」と勝手に決めつけ 「神がいないなら何をしても許される」と勝手に妄想した結果である

ニーチェは単なるカルト宗教に過ぎない

単なる諦めや絶望を「悟り」であるかのように錯覚させ 客観的に物事を考えることを人々から放棄させることで人気を得ているだけのペテン師に過ぎない

こんなオカルト大衆迎合を哲学だと分類している「哲学者」というのは 哲学者としては無能なポンコツでしかない

現状の哲学界というのは無能なポンコツしかいないのが実情であり ゆえに「世界は存在しない」などという意味不明なことを主張するマルクス:ガブリエルを「新時代の哲学」などと形容し鵜呑みにしているのである

哲学というのは倫理や人間性に関わる重大な責任を負う分野であり 科学同様に論理的根拠や厳密さなくして論じてはならない

大衆人気やバカを満足させるだけのオカルトが混入して良い分野ではない

 

Ende;

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格言

2020年06月11日 13時59分51秒 | 意識論関連

「私は悟った」と主張している話の99%以上は

実際には何も「悟って」などおらず

ただの「諦め」で気分的に満足しているに過ぎない

 

Ende;

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弱いものイジメ

2020年06月11日 13時04分33秒 | 意識論関連

医療関係者個人とか 営業自粛している個人経営のライブハウスとか

金銭的に余裕がなさそうで攻撃しても裁判沙汰にされそうにない弱者に対する個人攻撃は凄いんだけど

学術権威や ある程度の規模以上の企業経営者に対してのバッシングは誰もしないのよね

ただの弱いものイジメでしかない

自分自身の人間性に対する客観性が全くないんだろな

言っている内容が「死ね」だの「消えろ」だのと個人的な主観を言っているだけで 合理的根拠が伴わない場合がほとんど

オイラも糞DQNは死ねと「思う」が それはオイラの個人的な主観であって 客観的には「なぜ糞DQNは糞DQNになるんだろうか」という原因究明を優先すべきである

糞DQNの調査研究はオイラはめんどくさいのでやらんけど そもそも犯罪者を調査研究する社会的制度自体がなきゃ誰も調査研究なんぞできないからな

方向性のないバッシングとかヘイトスピーチの類いというのは 自分の承認欲求が満たされないことへの不満を解消するために 目についた相手を多数で無差別に攻撃して満足しているだけなんだよな

承認欲求自体が身勝手な欲望なんであって それは主体的な意志に基づいた純粋行為を持たない奴特有の行動であって 本当に主体的に好きなことがあれば本当に批判すべきは誰なのかを選択することが出来る

もちろん 論理的根拠を示さないと話にならないが

 

Ende;

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