先日 周庭さんのツィートで 香港警察が小学生をバスに誘導しているように見える画像を根拠に「小学生を拘束している」と主張していたんだけど
もし本当に小学生が拘束されていたら親が大騒ぎするはずだけど
そんな情報はどこからも出てきていないのだ
単に警察がスクールバスに子供を誘導していただけなのではないだろうか
市民に向かって発砲するような香港警察が何をやっても疑いの目で見られてしまうのは仕方ないとも言えるのだが 民主化団体だからといってデマを流してしまうと真実がかき消されてしまいかねず 問題がある
政府側が垂れ流す情報は統制が激しいことは誰もが知っていることなので誰も信じてなどいないのだが
民主化団体まで嘘をついてしまうと誰が嘘をついているのかわからなくなってしまうので ちゃんと根拠に基づいた情報を流すようにすべき
若いからといって雑な情報を流して良いわけではない
Ende;
○大脳辺縁系を損傷した人に対して「次の診察はいつにしましょうか」と訊ねた場合に 様々な条件を勘案しても決定することが出来ないという
選択を行う時に勘案する条件が充分ではない場合 理性だけでは「わからない」と答えるのである
○子供が知的好奇心から「なぜ?」を連発するのは 欲望として知りたい限りに追求するからである
バカな哲学者はこの2つの事象を同じだと言い張るが
これは間違いである
大脳辺縁系を損傷した人の場合 答えを求めているのは「訊ねている人」の方であって 大脳辺縁系を損傷した人の方は「わからない」と決めることができないだけのことであり 子供が延々と謎を追求したがるのとは全く異なる事象である
科学は 「わからないことは わからない」と保留することが大切であって これは大脳辺縁系を損傷した人の判断と全く同じである
一方子供の「なぜ?」の追求というのは欲望なので 際限なく「なぜ?」を繰り返すのであり 気分的に納得できる話でさえあればサンタクロースでも妖怪悪霊でも信じ込んでしまうのである
大脳辺縁系を損傷した人には主観的な「気分」がないので 気分的な納得感に惑わされることなく「わからないことは わかりません」と述べるのであって 別に「真理を探求したい」わけではない
ましてや大脳辺縁系を損傷した人が利己的利益追求に異常執着するわけでもない
子供は非常に身勝手である
まるで野生動物のように噛み付いてきたり 小さな爪を立ててきたり 絶叫したりすることもある
これらの行動は利己的情動行動であり 理性が促すものではない
大脳辺縁系を損傷した人が 幼子のように噛み付いてきたり 絶叫したりしないことからも 子供の欲求と理性は全くの別物である
科学的な探求の動機としては 知的好奇心という情動が働いていることは確かだが 科学的な検証に基づく論理客観的事実の認識には理性が必要なのである
生物学者達の多くは動物が大好きで 遺伝的進化の結果に過ぎない行動習性の全てが 意図的目的に基づいて選択したものだと言い張るが これは動物の遺伝的形質を事後正当化するための「説明のための説明」に過ぎず 到底論理的根拠を伴わぬ妄想錯覚に過ぎない
ヒトは信じたいことだけを信じようとする習性があるため 論理客観的根拠をすっ飛ばして簡単に論理の飛躍や見落としを平気でやらかすものなのである
知的好奇心から何かを探求するのは勝手だが 論理客観的根拠を欠いた勝手な決めつけをしてしまえば科学ではなくなる
優生学の類いも 遺伝的進化を万能だと錯覚した生物学者達によって支持されてきたのであり それが差別において都合が良い話であるため いつまでも差別というものが温存される原因ともなっているのである
カントの勘違いをいつまでも鵜呑みにしていると 理性というものの重要性を人類はいつまでも認識することができなくなってしまい 様々な危険性が放置されてしまうことになる
それがどれだけ無責任な事なのかは 自覚しないバカには死ぬまでわからないのであろう
Ende;
答えの出ない命題を問い続けてしまうのか
カントは「理性の暴走が起こっている」と述べた
何を知り得ないのか 理性→推論
推論する能力が理性 論理検証性
答えが出ないわけのわからない問いまで生み出してしまう
なぜ夜になると暗くなるのか 地球が回るからだ 子供の好奇心
幼子の好奇心が理性の本性 「なぜ」の繰り返し 「理性の暴走」
答えの出ない問を生み出してしまう
「人間の認識を超越している」
○不死なる魂はあるのか
死ぬのが怖いから 怖いのは主観
→共通認識の全てに論理的根拠が伴うわけではない
宇宙は無限か有限か 絶対に答えが出ない アンチノミー 相反する
宇宙には始まりがないとした場合 「何も起きないのに始まりがある」→この時空間の始まりを引き起こした「何か」が何なのかについては「わからない」とするのが論理検証的な暫定的結論であって それがわからないことが気に入らないからといって無理から答えをでっち上げるのは科学ではない
「ヒトの理性の限界だ」→それは「カントの理性の限界」だよ
理性には2つの関心がある→理性そのものには「関心」などないけどな
1:完全性を求める
2:真理を追求
「無条件で必然性のある存在はあるのか」
自由があるという主張
矛盾する2つの命題は次回に持ち越し
あるとも言えるが無いとも言える ?
全てが自然科学の法則に支配されているのであれば自由はない
理性があるから究極を追求してしまう
生き方の問題
自由と道徳を基礎づける
→
子供の好奇心というのは知識欲求であって 子供に限らずヒトの認識が全て論理的根拠に基づいた正しい認識に至る保証は一切ない
子供がイジメを行うのは客観的論理検証性が働いていないからであり これは大人がやらかすヘイトスピーチやアオリ運転も同様である
知識欲求は欲望なので暴走するが 理性そのものは暴走しない
尼崎福知山線脱線事故の検証においても「そこまで検証したらキリがない」と称して途中で検証を投げ出したバカな危険学者がいたが 被害者遺族達による事故調査委員会によってJR西日本による強迫的な「教育」の問題性に言及できたのである
物事を深く掘り下げ検証することは面倒臭いのでヒトは屁理屈をでっちあげて放棄しようとする
しかし 危険というものを検証するのに「この程度で良いや」で済まされる話ではない
国会原発事故調査においては原子炉建屋の中の状態が検証できないために最終的な結論までは出来ておらず 「わからないものは わからない」と保留して調査は一旦終了している
科学というものは「わからないものは わからない」と保留する姿勢が必要であり わからないことがあることが不満だったり気に入らなかったり不条理を感じたりすることは理性ではない
カントはこの部分を間違えている
社会安全性の追求に終わりはない 完全性を求めて悪いことなど何もないのである
「答えがないことが論理的に明確な命題」であれば それは命題として最初から成立していないのであって「答えがまだ出ていない命題」であれば追求することが不毛であることの証明にはならない
答えが論理的に存在しないことが証明されない以上 探求する価値が存在しないことの証明にもならないからである
マイケル:サンデルの提供するトロッコ問題には答えがない 答えがないことが論理的に明確でありながらバカ学生全員が答えを出そうとしてしまうのは トロッコ問題が人命を扱っているために気分的に「悩ましい」ため どのような選択をしても倫理の論証にならないことに多くのヒトが気づかない頭の悪さ(錯覚)に起因するものである
天文学や量子物理学が今のところ「役に立たない」からといって これからも永遠に「役に立たない」ことを立証したことにはならない
ヒトに自由意志があるかどうかは量子レベルでは運命的に予め決定しているのかも知れないが ヒトの意識のレベルにおいては現時点での選択可能性の存在を反証することは出来ない
理性が働かずに既に刷り込み学習された無意識な条件反射だけで行動していれば自由もヘッタクレもありゃしないが それはサルと同様環境依存的な結果しか至ることはなく それは「自由がない」と言える
しかし 論理客観的により正しい認識に基づいた行動選択が出来れば 既存の価値観に基づいた条件反射的行動から脱することが可能であり それは選択可能性(自由意志)の論証として成立するのである
ヒトは好奇心という欲望によって完全性を追求してしまうが 科学における論理検証性というのは「わからないものは わからない」と保留する姿勢が必要であり この姿勢もまた論理検証性に基づく判断である
ところがヒトの欲望というものは限りがないため 論理を超越した実証不能の観念を振り回し 本当は全く論理的には理解できない話であっても「わかった」と勝手に勘違いして満足しようとすることで論理検証を放棄してしまい これが結果的な暴走を引き起こすのである
大多数が共通に錯覚している場合 その「共通認識」が論理客観的に根拠が伴う正しい認識ではなくなるのであって 共通認識でありさえすれば常に正しい認識であることの論証には全くならない
事実 カントの純粋理性批判の論理的誤謬を誰も指摘できていないのである
カントは「純粋統覚」などと称してヒトが何でもかんでも常に正しい認識しかしないかのように主張しているが そんなもんカントの勝手なファンタジーでしかない
カントの話を一切論理検証せずに鵜呑みにしているバカは「自分には純粋統覚があるから絶対に間違えない」と満足し その満足によって勝手に勘違いし間違いに気付く論理検証性を失いバカになるのである
バカは自覚すれば治るが
自覚しなければ死ぬまで治らない
Ende;