直感というものには錯覚を伴う可能性があります
錯覚によって作られた認識に基づいて行動してしまえば間違った行動に陥る危険性がありますから 何が錯覚で 何が錯覚ではないのかを区別する必要があります
ヘイトスピーチをやっているヒトというのは 自分が主観的に嫌いな相手を攻撃することが社会正義だと錯覚しているので必死になってヘイトスピーチに邁進します
カルト宗教の信者達は教祖の言っていることには絶対に間違いがないと錯覚しているので 「地下鉄に毒ガスを撒き散らすことが人類の救済」だと言われれば その通りに行動します
ネコは鏡に映る自分の姿を自分だと認識することが出来ず 自分以外のネコが来たと錯覚して威嚇し続けます
実証不能の観念を 実証不能の観念だと認識出来ず それが錯覚であると認識できないと 障害者施設に包丁持って殴り込みに行ったり ユダヤ人殺害計画を立案したりするようになるのです
錯覚を錯覚だと認識区別するのは客観的な論理検証性です
いわゆる「理性」ですね
強い感情が伴う直感というのは錯覚が入り込みやすい傾向があり これを利用して他人を騙すのが振り込め詐欺です
マイケル:サンデルの嘘を多くのバカ学生が識別出来ないのは サンデルの講義を受けた学生達が主観的に「悩んだ」ことと 論理客観的に「考えた」ことの区別が出来ないために 「自分は深く物事を考えた だから 自分は頭が良くなった」と錯覚し 「頭が良くなるようにしてくれたサンデル先生は素晴らしい」と思うことによってサンデルを好きになり 疑うことをしなくなり サンデルの嘘には誰も気づかなくなるからです
よくよく考えればサンデルの提供する命題というのは答えが出せないように 場当たり的に条件が追加されてくる上 そもそもどう選択しても人間性や倫理の論証になる根拠が全くないんですね
にも関わらず「倫理の話をしよう」などと題している
つまりこれ 全部嘘なんですよ
人命に関わる話でありさえすれば何でもかんでも倫理や人間性の話になるわけではありません
福島原発事故では「放射能で直接死んだ者は1人もいない」からといって 原発事故が倫理的に許されるわけじゃないでしょ
人命が関わった話だと どうしても強い感情が伴いますから 何とかして命題の答えを出したいと「思う」ようになるんですけど ちょっと「考え」ればサンデルが提供する命題には倫理は関係がないことに気付くことも出来る
サンデルの手法というのは オウム真理教の教祖の説法の手法と良く似ていて 「みなさん考えてみてください」なんて言って 本当は答えの出しようもない命題を提供して信者達を悩ましい気分にさせることで客観的論理検証性を奪うことで洗脳が可能となるのです
主観的に「悩ましい」というのは気分に過ぎず 客観的な論理的「考え」とは全く別のものです
仏教で言えば「煩悩(煩わしい悩み)」でしかなく 煩悩にとらわれているからこそ真実を見失うことに陥るのです
人生相談の類いというのは主観的な「悩み」を解決するだけであって 論理客観的な「考え」でも何でもないので 本当は哲学とは関係がありません
ですから「哲学者に人生相談」などというのは寝言レベルの話でしかないのです
論理客観的に「考え」ても そもそも判断となる情報自体が足りないのであれば それは「考え」ようがないので「悩ましい」だけであって その気分的な「悩ましさ」を解消してもらおうというのが人生相談であり 主観にすぎない「悩み」が解消しても哲学としての論理的根拠を伴う「正しい」認識や選択の論証になるわけではありません
「Aを選ぶか Bを選ぶか」どちらを選んだら良いのかわからない命題でいくら「悩んで」も 実際にやってみなければわからないものであれば やってみるしかないわけです
だから小柴昌俊は「実際にある程度やってみないとわからない」と言うわけです
それで世間的に成功できないとしても どのみち自己責任であることに違いはないので 主観的に「納得できるかどうか」の方が本当は重要なのです
アップル創業者のスティーブ:ジョブズは「人生は短い 他人の顔色を窺っている暇などない」と言いました
どんなに金儲けに成功しても 世間的に評価されようとも 死ぬときゃ死ぬんですよ
永遠に生きられるわけでもなければ 永遠に生きたところで意味があるわけでもない
だから金も評価も本当は自己存在にとってはどうでも良いものなのです
納得のゆく生き方をしていなければ 納得のゆく死に方もできないのです
フリードリヒ:ニーチェは「できそうにないことは やらない方が良い」と言いましたが 「できそうにない」という主観的感覚を頼りにしていて人間として正しい選択ができる保証はありません
ナチスに反対してもどうにもなりそうにないからといって同調したり傍観することが人間性や倫理に適うわけではありません
「イジメをなくすことはできそうにない」と主観的に思ったからといって 多くのヒトがイジメに対する原因究明や再発防止への取り組みをしなくなれば それは「トイレットペーパーがなくなる」というデマと同様に予言は達成されてしまうことになるのです
「できそうにない」難題は やらない方が楽です
本当は人間として 倫理的にやらなきゃいけないことであっても 直感的(主観的)に「できそうにない」ことを根拠に無責任に放棄してしまった方が楽なのです
平たく言えば 「難しいことは嫌」なんですよ
楽な方に流されているのは精神の怠慢であって 人間性の欠如の一因でもあります
ニーチェというのは精神の怠惰を促すことで大衆の主観的満足を促し人気を得ているのであり「悪魔の囁き」に過ぎず 到底「哲学」とは真逆のものなのです
カール:ライムンド:ポパーは「プラトンの呪文」と題して非常に激しくプラトンの権威主義を糾弾していますが 未だにプラトンは学術論文での引用数が一番多いのだそうです
それだけヒトというのはバカげた話の方が主観的満足を得られやすいものなのです
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直感というものはごく一面的には適切な判断を促すこともあります
将棋棋士の羽生善治は盤面を見て直感的に指し手を決めることがあるそうです
四葉のクローバーを探すのが得意な人は 一面緑色のクローバーの群生の中から一瞬で四つ葉のクローバーを見つけることができます
野依良治であれば「大学入試で女子学生というだけで無条件に減点する」ことがあからさまに間違いであることを主観的に判断することも出来るでしょう
でも こうした「直感的に適切な判断を行う」ことというのは ある程度深く物事を考えている事柄の場合であって 普段何も考えていないバカの直感までもが常に正しい判断を促すわけではありません
相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺を行った植松聖の直感は「障害者は絶滅させることが社会的に有益だ」というものでした
バカだと直感は糞の役にも立たないばかりか 極めて迷惑な行動を引き起こすことの方が多いのです
一番バカげた結論は「暴力で解決」するというものです
国家権力を用いた刑罰も同様で 厳罰化さえしておけば全てが解決すると「思って」いるだけで 客観的に見れば原因も解明されないし 当然合理的な再発防止にもならないので 飲酒運転も「バレなきゃ大丈夫」と思っているバカによって繰り返し起こることになる
通り魔もテロリストも「社会が悪い」からと言って無差別に暴力を振るいますが 暴力で社会の問題が解決することは一切ありません むしろ暴力こそが社会にとって一番問題なのです
テロリスト達が言うように 確かに「今の社会に問題がある」とは言えますが だからと言って「暴力で解決」だと言うのは本当は合理的根拠が何もなく 単に暴力的に報復することで主観的に満足しているに過ぎないので 何ら社会の問題は一向に解決することはないのです
様々な社会の課題に対して 論理的に原因を究明し改善するという作業はとても根気の要るものであって 命がけで暴力破壊するように簡単に達成できるようなものでもありません
めんどくさいことを地道に続けるよりも 簡単安易に死刑などの暴力破壊でもしておいた方が手っ取り早く達成することができますから ヒトは簡単に「死刑で解決だ」という結論に至り易いのです
多くのヒトが「陥り易い」からといっても多数決に過ぎず 必ずしも論理的根拠を伴った最適解であることの証明にはなりません
論理的根拠を持った効果的な実効性のある対策ではなくても 多くのヒトが「死刑で解決だ」と「思って」いれば 民主主義制度下では放置されることになります
酷い場合には会社の収益を社長が勝手に着服しても脱税だけで済まされる場合もあります
私は刑法廃止論者ではありますが 刑法を解決だと規定している現状の司法制度下においては刑事罰で起訴するしかありません
本来であれば刑事告訴で解決にするのではなく 「なぜ無責任な行動を採るのか」についての徹底検証が必要ではありますが 現状制度下では今の所それが出来ないので 仕方なしに刑事告訴をすべきだと言っているのです
そもそも会社の利益というものは従業員の達が働いて稼いだものであって それを社長の不適切な行動によって追徴課税という形で没収して終わりというのは随分おかしな話であり むしろ社員に分配するとか利用者に還元するなどの措置を採ることも必要ではないでしょうか その意味においても司法手続きというのは欠陥だらけで全然公平性が担保されていないのです
刑法を廃止すると言っても 別に犯罪者を野放しにしておいて良いと言っているわけではありません
「刑法廃止」と言うと あたかも犯罪者を野放しにすることになるのではないかと勘違いする人が多いようですが それは論理的理解を欠いた主観的な感覚に過ぎません
むしろ犯罪の軽重に関わらず徹底した再発防止を優先するべきであって 「幼女に対する性的暴行は強盗殺人よりも罰を軽くしなければならない」などという「他の犯罪者との罰の公平性」などという意味のわからない司法の常識が横行している状態の方が異常なのです
女子中学生を拉致監禁しておいても懲役8年かそこらで出所してきてしまうのが現在の刑法制度というものであり 治っていようがいまいが判決で「8年」と決まってしまえば問答無用で8年で釈放されてきてしまいます
それが社会安全性にとって最適であるとは到底言えません
何年拘束するかが重要なのではなく 治っているかどうかが社会安全性にとって重要なのであって 刑法判決では再犯に対する責任の所在が全く曖昧にされており これは国民をごまかしているとしか言いようがないのです
しかし ヒトというのは犯罪者に対してはとにかく罰を優先すべきだという感覚が優先しがちで 論理客観的に社会安全性にとってそれが最適化どうかは誰も考えなくなる性質があるのです
それは錯覚にすぎません
どんなに残虐な犯罪であろうとも 単に死刑にして終わりにするのではなく 徹底して厳密に原因を究明して同じような事件が起きないような対策を立てる必要性があるのです
それをやらないというのも社会的に無責任であり 罪でもあると言えるのです
「俺はバカだからわかんねぇ」というのであれば 「わからないから判断しない」というのが正しい結論であって わかりもしないのに「死刑にしちまぇ!」というのは合理性が完全に崩壊した身勝手な結論にしかなっていません
それはもはや「ムシャクシャしたから無差別殺人を起こした」と言っている通り魔の主張とさしたる違いはないのです
ハインリッヒの法則によれば 「一つの大きな事象の影には無数の小さな事象が隠れている」のであって 大衆の無責任で身勝手な判断を放置しているからこそテロや通り魔といった重大事象の温床となっていると言えるのです
Ende;